56話 人影
この日は会社から少し離れた居酒屋へ来ていたため、いつもとは違う道を歩く。いつもは会社から数分歩いた駅から電車に乗り、人通りの多い商店街を抜けて帰路につく。だが、今夜通った道は車通りは多いが人気のない道がしばらく続く道を歩いた。飲屋街を抜ければ大体はこんなものだろう。
街灯は数百メートルおきに設置され、行き来する車のライトで視界は悪くない。だが、周りは数件の家と閉店して明かりの付いていない個人店が並んでいるだけで賑わいは一切なかった。ただ、車の走り去る音だけが耳を通り過ぎて行く。
「さて、明日から何をしようか」
明日からは直子とふたりの生活になる。恵美もじき結婚するから完全にあの家には夫婦ふたりだけになってしまう。
恵美が生まれる前も当然ながら夫婦ふたりだったが、俺には仕事があった。だから、直子と過ごす時間は仕事の時間よりも短かっただろう。
今朝の直子もいつものようにお弁当を俺に手渡し、普段通りに見送ってくれた。
「今日で最後ですね。長い間お疲れ様でした……今日は送別会ですよね」
「ああ、だから遅くなる。先に寝てて構わないから」
「分かりました。行ってらっしゃい……気をつけて」
手を振る直子。「行ってきます」というわけでも、手を振りかえすわけでもなく、そのまま俺は家を出た。
ふっと、胸が痛む。そして重たい息が口から吐き出された。
「今日くらい礼を言うべきだったろうか」
今日まで休まず弁当を作ってくれてありがとうとか、いつも支えてくれて助かったとか、気の利いた言葉はいくらでもあったはずなのに、どうしても言えなかった。
明日、これから、時間はいくらでもあるのだから今日言わなくても大丈夫。そう思ってしまった。
生きている以上、必ず明日が来るなんて保証はどこにもない。この歳まで何もない人生だったから、変な自信が付いてしまったのだろう。俺はまだ死なない、平均寿命まで人生を真っ当できると信じ切っていた。
「明日の朝に礼のひとつでも言うか」
長く連れ添ってきたからこそ、今更改まって礼を言うのに躊躇いがあった。簡単に言うと恥ずかしかったのだ。
けれど最近、とあるワイドショーで熟年離婚の話題が上がっているのを見た。
作った料理に文句を言う、もしくは何も言わない。妻の変化に無関心、些細なことも妻にやらせる家政婦扱い。どれも昭和までは亭主関白と言われ、それが当たり前とされていた。だが、令和の今はその当たり前は通用しないらしい。積もり積もった夫への不満が溜まった妻が夫の定年退職をきっかけに離婚を申し出ることがよくあることのようだ。
(俺は大丈夫だろうか? 直子はそんな事考えたりしないよな……俺が嫌ならとっくに離婚してるよな)
不意に過った不安を振り払って、俺は早足で家に向かい前進する。
すると、大きめの橋が目の前に現れた。
(こんな橋があったんだな)
橋の中央で人影のようなものが見えた。俺は特に気にせず、その人影に向かって歩いていく。
(明日からは直子に精一杯尽くそう。家事も料理もなるべくやるように努力しよう……今からでも遅くはない)
けれど、橋に足を踏み入れた瞬間、再び周りが暗闇に変わった。
ーー待ってくれ! これからなんだ!! その先に俺が死んだ真相が分かるんだ!!
途切れそうな意識の中、心の中で懇願する。だが、耳の中で響いてきた声で俺はまた現実に引き戻された。
「颯太。起きて颯太」
はっと目を開くと、心配そうな顔をした恵美の顔が映った。
辺りはすっかり明るくなっていて、朝なのだと直ぐに察する。
「おはよう、ママ」
「颯太、大丈夫?」
さっきから恵美の眉は下がったままだ。俺はなんだろうと思っていたら、恵美の指先が優しく目尻に触れた。
「ごめんね。急にママが居なくなったから不安になっちゃったよね……もう颯太を一人ぼっちにはしないからね」
恵美の指先を見ると少しだけ濡れている。
(俺、泣いてたのか? だから恵美は心配したのか)
「怖い夢見たの……ママのせいじゃないよ」
俺は恵美を安心させるのを最優先にそう告げた。
「原田お兄ちゃんも居てくれたから寂しくなかったよ」
「そっか、それなら良かった」
恵美の顔が笑顔になったところで、俺は知りたかったことを口にする。
「それよりもばあばは? ばあばは大丈夫?」
「うん。でもね、ばあばはまだ病院にいなくちゃいけないんだ……お家に帰ってくるのは一週間後くらいかな?」
手術はどうやらうまくいったようだ。俺は心底安堵した。
「今日はばあばの着替えとか持っていかなきゃ行けないからお仕事お休みするんだけど……颯太はまだ子供だから病院に連れて行けないの。だから……」
普通の3歳児ならば、ママと一緒に居たいとかわがままを言うのだろう。だが、颯太の中身は俺なのだ。恵美を困らせる事は絶対にしない。
「大丈夫だよ。ぼく、保育園行くから!」
「いいの?」
「うん! ばあばの事、後でちゃんと教えてね」
そう返すと、恵美は嬉しそうに頷いた。
「そういえば原田お兄ちゃんは?」
隣を見ると、原田の寝ていた布団はすでに畳まれていた。もう仕事へ行くために自宅へ戻ったのかもしれない。
「ママが帰ってきて直ぐに仕事へ行っちゃったんだ。ばあばが退院できたら、今度しっかりお礼しなくちゃね」
「うん!」
ひとまず原田とはまた近いうちに会えるのは確かだ。
(しかし……あの夢)
送別会が終わり、みんなと別れたまでは鮮明に覚えていたが、あの帰り道を歩いた記憶は以前までは思い出せていなかった。橋の上で見た人影が俺の死に関係している人物だったのだろうか。
(この間の月命日に見た人影と同一人物なのか?)
だが、その先の記憶は思い出せそうにない。
(やはり記憶を取り戻すには時間が掛かるんだろうな)
原田の言っていた俺と似た境遇の人に会えば、肝心な記憶も戻るだろうか。記憶が戻れば俺は消えてしまうのだろうか。
記憶が戻って欲しいとは思うが、その先を考えると僅かに気持ちが重くなる。
(今は余計なことを考えるな!)
俺は憂鬱になる心を懸命に振り払い、朝ごはんの準備を始めた恵美の元へと駆け寄った。




