第三十四話
イゾルが帰ってから、残りの仕事を終わらせると、いつもより早く終わった。今日は力仕事だったし、イゾルの話で疲れたので、二人の先生に話して今日の勉強は免除してもらった。
帰ろうと思ったけど、サイスさんはまだ仕事中だ。仕方ないから、神殿の中庭で待つことにした。
いつも待ち合わせしているのは、私が早く終わった時は学問所から祈りの間へ続く回廊の横にある中庭で待っている。サイスさんの方が早いときは、サイスさんが学問所まで迎えに来てくれた。
サイスさんが出てくるのを木陰で待っていると、ふと顔を上げた時に中庭の奥の方に人影が見えた。
後姿を見ると、軍服を着ていたのでサイスさんかと思って近づいていく。
やっぱり!
後姿を見て、サイスさんだと思った。
「サイス――」
サイスさん、と呼びかけようとしたら、その奥に人がいるのが見えて、慌てて言葉を引っ込めた。
だけど、時すでに遅しで、声は二人にばっちり届いてしまっていた。
わわ、邪魔してしまった。
二人はこちらを見ると、おや、と驚いた顔をして見せた。
「トゥヤ、もう終わったのか?」
サイスさんが笑顔でこちらを見る。奥にいたのはウラヌス・ラーだった。
今日も相変わらず、お美しかった。
線が細くて、白いきれいな肌。波打つ淡い色の金髪に淡い色の青い瞳は、春の空みたいだ。
「これは、トゥヤ様」
ウラヌス・ラーが微笑んで、頭を下げる。シャランと持っていた錫杖の音が流れた。
「やめて下さい。私、ウラヌス・ラーに頭を下げていただけるほどの人間ではありません。むしろ、私の方が頭を下げなければならないのですから」
そういって、自分の姿を見たら、ちょっと情けなくなった。白いシャツに半ズボン。背中まである髪の毛は後ろ手一本に結んでいる。ぱっと見、ほんとに学問所の小姓だよ。
ウラヌス・ラーに頭を下げてもらえる人間じゃない。
「ずっと、謝らなければならないと思っておりました……」
ゆっくりとした口調で、鈴を転がすようなきれいな声でウラヌス・ラーが話した。きれいな歌を聞いているようでうっとりしちゃうな。
「謝る?」
「はい。この星に現れたトゥヤ様に、私が神の化身と申し上げてしまったために、ずいぶんお悩みになられたと、聞いております」
眉を顰めるその姿も、美しい。
余計なことを言ったのは、カフド博士あたりだろう。
「うーん、悩むなんて。私、すぐに後宮に連れて行かれちゃったから、正直そんなことを考えている暇がなかったんです。後宮の中じゃ、自分がどうやって一日過ごすかのほうが大変だったから」
首を傾げてへへ、っと笑うと、ウラヌス・ラーはそっと目を伏せた。
「後宮は、本当に大変なところでございますものね……」
ウラヌス・ラーは何かを思い出すように、遠い目をして見せた。ウラヌス・ラーは先王のお姫様なんだっけ。じゃあ、後宮はここに来るまでずっと暮らしていたところなんだ。
「大変だったけど、わりと楽しかったです。イゾル達はよくしてくれたし。あ、イゾルって私の侍女なんですけど……姉替わりみたいな人で」
「イゾル……ああ、存じております。もとは現ウラヌス・カーリの女官だった方ですね」
え!? そうなの!! それは、初耳です。
驚いていると、ウラヌス・ラーが私の顔を見て微笑む。
「トゥヤ様は、なんでもウラヌス・カーリに振り回されていらっしゃると……そこのサイスに聞きました」
ふふふっとウラヌス・ラーが笑う。
「あの方は、昔からやんちゃな方でしたから」
遠いところ見つめ、王様の小さな頃を思い出しているようだった。
そっか。二人は王族だから、交流があったんだ。確かに後宮を挟んだ左右に竜殿と猿殿があった。東宮だと説明され、足を踏み入れるのは憚られていたからどうなっているのかは全く知らなかった。
「お二人は……」
「幼馴染だったのです。ウラヌス・カーリも私も年の近い王族でしたから、少し交流がありました。本来なら、猿王家と竜王家は交流はないものですが、父である前王が融和の道を図っておりました。そのために、私たちは幼いころから共に過ごす機会があったのです」
ウラヌス・ラーとウラヌス・カーリ……想像つかないな。
おっとりとしたウラヌス・ラーに、気性の激しいウラヌス・カーリって、ウラヌス・ラーは振り回されていたのでは。
眉をしかめていると、ウラヌス・ラーが心を読んだかのように声を出して笑った。
「ウラヌス・カーリははっきりとした童でございましたけど、優しい方でしたよ」
優しい……?
えーっと、今の王様からはかけ離れた言葉です。
「トゥヤ様は王宮へ帰ろうとお考えですか?」
ウラヌス・ラーがまっすぐに私を見る。
「……実は、悩んでます」
すると、ウラヌス・ラーは片眉を上げた。
「悩んでおられる? なぜ?」
えーっと、爛れた後宮ライフのことは申し上げられないな。こんな穢れのないお姫様にそんなことを言ったら、卒倒しちゃいそうだし。
「嫌われているのが分かっていて、側にはいけないです……」
ちょっと項垂れた。
「嫌われていらっしゃる?」
不思議そうに尋ね返された。
「ええ。それに、私が王宮に行ってもできることなんて何にもないんです。あ、もちろんここでも何ができるというわけではないんですけどね。でも、ここだったらカフド博士やファン先生のお手伝いをして、私が働いているっていう実感があるんですけど、王宮はそうじゃないですから」
あの中は、閉鎖されていて、むしろ何もするべきことがない。全てが王様のためだけに存在して、自分の存在意義が失われていく気がする。
「ああ、トゥヤ様はウラヌス・カーリのお役に立ちたいのですね」
ウラヌス・ラーに言われて、はっと目を開いた。
……王様の役に立つ? 私が?
小さく首を振る。
「役になんて、立てることが何もないです。いっつも失敗ばかりして、王様に怒られて。王様に守ってもらってばっかりでした。迷惑かけてまで、いられないです」
すると、ウラヌス・ラーが首をかしげる。
「ならば、ここにいらっしゃいませ。神殿はトゥヤ様を必要としております。それはもちろん、予言のこともございますけれど、トゥヤ様がいらっしゃると、やはり神殿も華やかになったような気がして、私も嬉しいんですよ。
何より、学問所が明るくなりました」
にっこりとほほ笑まれて、頬が赤くなる。
確かに、ここは楽しい。二人の先生と、お手伝いの学徒の人たち。いろんな話ができて、いろんなことを知れて、サイスさんも親切だし。ここにいれば、夢の中のような気持ちでいられる。
「でも、それでいいのか悩むのです。私、王様によくしてもらったから……」
恩返しではないけど、このまま知らんぷりしてもいいのか悩んでしまう。
帰ってきてほしいという人がいるのに、私は私のためにここに残っていいのかな。
イコのことも、自分で引っ掻き回しておいて知らんぷりなんて、ひどいことしているのわかってる。
だから、どうしていいかわからないんだよね。
「そうですか……。しかし、王はかなりトゥヤ様に厳しくていらっしゃると聞きました。そのようなところにいても、お幸せにはなれません。王は、いずれご正妃を迎えなければならないのですから」
ウラヌス・ラーの言葉に、項垂れる。
そうだ、私が後宮に帰ってもなにが変わるわけじゃない。相変わらずたくさんの側妃、室妃がいて、ご正妃がいるんだ。
その中で、私の居場所なんてあるわけない。
「……わかっているんです。たくさんの女の人たちの中の一人にしか過ぎないって。しかも、追い出されて放っておかれて、好かれてるわけないのも知ってるんです。でも……」
それでも顔が見たいと思ったりして。
どんなにひどい人でも、やっぱり会いたいな……とか、思ってしまったり。
すると、ウラヌス・ラーがにっこりとほほ笑んだ。
「トゥヤ様」
落ち着いた声だけど、はっきりと語りかけられた。
顔を上げて見ると、ウラヌス・ラーは笑っている。
「でも、とおっしゃる時は、すでに選んでいらっしゃるのですよ」
ウラヌス・ラーに指摘されて、一瞬胸が痛くなった。
私、いつの間にかでも――、って繰り返してる。
「トゥヤ様は、ウラヌス・カーリの元へ帰りたいのですね。ならば、素直になられた方がよろしいと思うのです。もしも、王宮へ行ってお立場がないと思われたのなら、いつでも神殿にお戻りいただいて構わないのですから。サイスも、その方が喜ぶと思いますよ」
優しい声だった。
「ウラヌス・ラー!」
サイスさんがウラヌス・ラーをたしなめるように言う。
サイスさんが?
きょとんとしてサイスさんを見ると、サイスさんは苦笑していた。
「ウラヌス・ラーは人をおからかいになるのが、とても好きなんだよ」
ふざけた感じでサイスがウラヌス・ラーを睨む真似をする。
……帰っても、いいのかな。
顔を見たいって思っても、いいのかな……。
「トゥヤ様にとって、初めてのことばかりで戸惑うことが多いと思います。ですから、一つづつ考えていけばよろしいのですよ。それで、トゥヤ様自身がお選びになることが、何よりですから」
ウラヌス・ラーは優しく微笑んでいる。
「それに、トゥヤ様は王宮へ戻られても神殿へ通われるのでしょう?」
「はい。カフド博士とファン先生もそうしなさいっていうし」
「ならば、神殿としても善きことです。
神殿と王を繋ぐのは、トゥヤ様にしかできますまい」
ウラヌス・ラーが両手を胸の前で交差させて、空を見上げた。
空には、小さなケペリの太陽が見える。
そっか。それでいいのかな。
ウラヌス・ラーの言葉に、少し自信を持てた。
私が困ったように、だけど微笑みながらウラヌス・ラーをまっすぐ見たら、ウラヌス・ラーは納得したように頷かれた。
「サイスはもう少ししたら、トゥヤ様のところへ送り出しますから。もう少しだけ、お借りいたしますね」
にっこりと笑って、サイスさんとウラヌス・ラーは神殿の奥へ入っていった。
しばらくしてサイスさんが出てきた。私を見ると、片手をあげて優しく笑いながらやってくる。
「待たせたね」
そんなに待っていなかったけど、小さく頷いて一緒に歩き出した。
帰り道、サイスさんは王都を騎乗することを許されているので、馬で移動する。
「神子はいつもあんなふうに出歩いているの?」
神殿の中でも、礼拝所と祈りの間でぐらいしか見たことがなかったので、尋ねた。
「ああ、近頃はなるべくいろいろな場所にお顔を出されているんだ」
サイスさんの顔が曇る。
「ほら、即位の大祭が近いのでね」
サイスさんが何気なく言う。即位の大祭って、神子が大神官として即位する日だったっけ。
「大神官になれば、祈りの間の最奥にある「神座の間」から出ることは叶わなくなる。従って、今のうちに外の景色をお心に留められているのだ」
そういえば、カフド博士が言ってたっけ。そんなこと。
それで、普段は姿を現さない場所まで来ていたんだ。
ずっと一つの部屋で暮らし続ける生活。それと引き換えに、神から神託を得て、民に授ける。これからずっと、死ぬまで……。
それがどんなことか想像ができなかった。想像ができないくらい、息苦しく感じられる。
「一人で、祈りの間にこもるってどういう気分なのかな……」
ウラヌス・ラーの心境を思うと、少し淋しくなった。世俗と切り離された生活。それが2000年前からの習わし。神託があった時だけ、限られた神官たちと言葉を交わすだけの、生き人形みたいな生活。そんなふうにして、誰か一人を犠牲にして、神殿は存続してきたんだ。
私はようやく、神子が神殿を残すために、私に神の身代わりを頼んだ気持ちが、少しわかった気がした。
神殿の存続こそが、ウラヌス・ラーの生きた証なんだ……。
それなのに私の背中を押してくれた神子の気持ちを考えると、切なくなった。




