第1話 十五歳、私の番
ツェツィーリア・フォン・ローゼンは、竜族の領地へ来るのが初めてではなかった。
フォン・ローゼン家は、代々竜族と交流のある伯爵家だ。幼い頃から父に連れられ、何度もこの地を訪れている。
深い森も、空まで届きそうな木々も、遠くの山肌を横切る大きな竜の影も、もう見慣れたものだった。竜族の子どもたちと遊んだこともある。
だから、竜族そのものを怖いと思ったことはない。
けれど、今日だけはいつもと違った。
「緊張しているか?」
隣を歩く父に尋ねられ、ツェツィーリアは少し考えてから頷いた。
「……少し」
「そうだろうな」
「でも、お父様」
「ん?」
「本当に、私なの?」
「それを確かめるために、今日は来たんだよ」
数日前。
竜族からフォン・ローゼン家へ、正式な使者が訪れた。
竜族の長であるレオンハルトが、ローゼン伯爵家の娘に強い番の気配を感じたという。
きっかけは、少し前に父とともにこの領地を訪れた日のことだった。父が館で用事を済ませているあいだ、ツェツィーリアは庭を歩き、花を眺めていた。
そのとき、少し離れた場所にいたレオンハルトが、突然こちらを振り返ったらしい。
ツェツィーリア自身は何も気づいていなかった。
けれど、その後、竜族に伝わる古い方法で調べたところ、彼女がレオンハルトの番である可能性が極めて高いと分かった。
今日は、その正式な確認のために呼ばれたのだった。
「もし、本当に番だったら、私、どうなるの?」
父はすぐには答えなかった。
しばらく歩いてから、穏やかに口を開く。
「それは、ツェツィーリアが決めることだ」
「私が?」
「ああ」
「でも、竜族にとって番は特別なのでしょう?」
「とても特別だよ」
「だったら……」
「特別だからといって、お前の意思がなくなるわけじゃない」
父は足を止め、ツェツィーリアを見る。
「今日から急に、竜族のもとへ嫁げと言われるわけでもない。お前はまだ十五歳だ」
「……子どもじゃないわ」
「そう言うと思った」
「もう十五歳よ」
「分かっているよ。でも、これから知ることも、選ぶこともたくさんある」
「うん」
「だから、何も急がなくていい」
その言葉に、張っていた肩から力が抜けた。
やがて二人は、竜族の長が暮らす館へ着いた。
石造りの大きな館は、人間の城とは少し違い、華美な装飾が少ない。その代わり、天井も扉も驚くほど高かった。
竜族が本来の姿でも出入りできるように作られているのだと、幼い頃に父から教えてもらったことがある。
案内された広間で、ツェツィーリアは父と並んで待った。
手を膝の上に置いてじっとしているつもりなのに、指先が落ち着かない。
「ツェツィーリア」
「なあに?」
「そんなに緊張しなくても大丈夫だ」
「してないわ」
「そうか」
「……少ししか」
「うん」
父が笑った、そのとき。
扉が開いた。
ツェツィーリアは顔を上げる。
入ってきた男を見た瞬間、胸の奥が大きく鳴った。
漆黒の髪に、金色の瞳。
背が高く、静かな威圧感をまとった男。
竜族の長、レオンハルトだった。
姿を見たことはある。遠くからなら、父と話しているところも、竜族の者たちに囲まれて歩いているところも何度か見ていた。
けれど、こうして正面から向き合うのは初めてだった。
言葉を交わすのも、今日が初めてだ。
レオンハルトも足を止めた。
黄金の瞳が、まっすぐツェツィーリアへ向く。
その瞬間。
胸の奥に張りつめていた何かが、ふっとほどけた。
怖いわけではない。
むしろ、ほっとする。
今まで一度も話したことがないのに、その人がそこにいるだけで、ずっと張っていた糸を緩めてもらったように心が落ち着いた。
不思議な感覚だった。
レオンハルトが近づいてくる。
「……やはり」
低い声だった。
ツェツィーリアの指先がわずかに強張る。
「間違いありませんか」
父が尋ねる。
「ああ」
レオンハルトは、ツェツィーリアを見たまま答えた。
「この娘が俺の番だ」
番。
分かっていたはずなのに、改めて言われるとひどく重い言葉に聞こえた。
ツェツィーリアは思わずドレスの裾を握る。
するとレオンハルトが、その手元へ視線を落とし、わずかに眉を寄せた。
「……怖がらせたか」
「え?」
「顔が強張っている」
「い、いえ。怖いわけではありません。ただ……」
「ただ?」
「どうしたらいいのか、分からなくて」
正直に答えると、レオンハルトは黙った。
それから父へ目を向ける。
「ローゼン伯爵。少し、彼女と話しても?」
「はい」
父はすぐにツェツィーリアを見る。
嫌なら断っていい。
そう言われているのが分かり、ツェツィーリアは迷ってから頷いた。
「大丈夫です」
「そうか」
父は一歩下がった。
レオンハルトはツェツィーリアを窓辺へ促す。
大きな窓の向こうには、深い森が広がっていた。
二人きり、とまではいかない。父も少し離れたところにいる。
それでも、すぐ隣にレオンハルトがいるだけで妙に落ち着かなかった。
「以前にも、この領地へ来ていただろう」
「はい」
「何度か姿を見た覚えがある」
「覚えていらしたの?」
「ローゼン伯爵の娘だということは知っていた」
「そうだったのですね」
「だが、話すのは初めてだな」
「はい」
会話が途切れる。
ツェツィーリアは何を言えばいいのか分からず、窓の外へ視線を向けた。
「十五歳だったな」
「はい」
「まだ若い」
「子どもではありません」
反射的に言ってしまった。
レオンハルトが目を瞬き、ほんの少しだけ口元を緩める。
「そうか」
「もう十五歳です。来年には社交界にも出ます」
「それでも、俺から見れば十分若い」
「……」
少しむっとする。
けれど、レオンハルトの顔にからかうような色はなかった。
「だから、何もしなくていい」
「……え?」
「今まで通り暮らせ。友人と遊んで、好きな本を読んで、好きなことをしていろ」
予想していなかった言葉に、ツェツィーリアは黙って彼を見る。
「番だからといって、お前の人生が急に俺のものになるわけじゃない」
胸の奥が、今度は別の意味で大きく鳴った。
「でも……私は、レオンハルト様の番なのでしょう?」
「ああ」
「だったら、何かしなくてはいけないのでは……」
「何を?」
「それは……」
聞かれても分からない。
竜族について学ぶこと。
将来、彼の隣に立つための準備をすること。
妻になるための何か。
そういうものが必要なのだと思っていた。
「俺の番だと分かったからといって、今日から俺を好きになる必要もない」
ツェツィーリアは目を見開いた。
「……そうなのですか?」
「ああ」
「でも、番なら」
「番は本能の結びつきだ。相手の気配に安心したり、危険を感じ取ったりすることはある」
「はい」
「だが、人の心まで決めるものじゃない」
レオンハルトは一度窓の外へ目を向け、それからまたツェツィーリアを見る。
「愛情は別だ」
その言葉は、思っていたよりも深く残った。
「俺はお前を急かさない。会いたくなければ、無理に会わなくていい。ここへ来たくなければ、それでもいい」
「でも」
「ただし、困ったことがあれば俺を頼れ」
「番だからですか?」
「それもある」
「それも?」
「ああ」
レオンハルトは少し考えるようにしてから言った。
「お前がまだ十五歳だからだ」
「やっぱり子ども扱いしてます」
「すまない」
「本当にそう思っています?」
「半分くらいは」
「もう」
ツェツィーリアは頬を膨らませた。
けれど、不思議だった。
少し前まであんなに緊張していたのに、今はもう先ほどほど構えずにいられる。
むしろ、もう少し話してみたい。
そんなふうに思っている。
「では、今日はこれくらいにするか」
「もう?」
思わず聞き返して、ツェツィーリアは自分で驚いた。
レオンハルトも、わずかに目を見開く。
「もう少し話すか?」
「……もし、お忙しくなければ」
「忙しくはない」
即答だった。
ツェツィーリアは少しだけ顔を上げる。
レオンハルトは何事もなかったように窓の外を示した。
「庭でも見るか」
「はい」
二人で庭へ出る。
竜族の館の庭は、幼い頃から何度も歩いた場所だった。整えすぎず、大きな木々や岩がそのまま残されている。
その中に、小さな青い花が咲いていた。
「あ。この花、まだ咲いていたのね」
「知っているのか」
「はい。小さい頃にも見たことがあります」
「そうか」
「私、この庭でよく遊んでいたんです」
「誰と?」
「テオドールと」
レオンハルトの眉が、わずかに動いた。
「テオドール?」
「はい。幼い頃からの友人です」
「青竜の?」
「そうです」
「仲がいいんだな」
「ええ。小さい頃は、よく一緒に遊びました」
「そうか」
短い返事だった。
そのとき、聞き慣れた声がした。
「ツェツィーリア?」
振り返ると、庭の向こうから一人の少年が歩いてくる。
深い青の髪は、光の当たるところだけほんのり緑を含んで見えた。青灰色の瞳がツェツィーリアを見つけ、柔らかくなる。
「テオドール!」
ツェツィーリアの顔が自然に綻ぶ。
テオドールもこちらへ歩いてきたが、隣にレオンハルトがいることに気づいた瞬間、ほんの少しだけ表情が変わった。
「……レオンハルト様」
「ああ」
テオドールは頭を下げ、それからツェツィーリアを見る。
「今日だったんだな」
「知っていたの?」
「まあね。……やっぱり、そうだった?」
「ええ。私、レオンハルト様の番なんですって」
「そっか」
テオドールは笑った。
「……よかったな」
「まだ私にも、よく分からないわ」
「まあ、そうだよな」
いつも通りの声だった。
けれど、ほんの一瞬だけ、その青灰色の瞳が寂しそうに見えた気がした。
「テオドール?」
「何でもない。じゃあ、また今度な」
「ええ。またね」
テオドールはレオンハルトへもう一度頭を下げ、そのまま歩いていった。
ツェツィーリアがその背中を見送っていると、隣から声がした。
「昔からの友人か」
「はい」
「ずいぶん親しいようだな」
「そうですね。小さい頃からずっと一緒に遊んでいたので」
「……そうか」
今度の「そうか」は、少しだけ低かった。
けれど、ツェツィーリアにはその理由までは分からない。
しばらく庭を歩いたあと、帰る時間になった。
館の前では父が待っている。
ツェツィーリアは馬車へ向かいかけて、ふと振り返った。
「レオンハルト様」
「なんだ」
「私、またここへ来てもいいですか?」
黄金の瞳が、わずかに見開かれた。
「もちろんだ」
「会いに来ても?」
今度は少し間があった。
「ああ」
低い声が、わずかに柔らかくなる。
「いつでも来い」
ツェツィーリアは笑った。
馬車へ乗り込み、父の隣へ座る。
やがて車輪が動き出し、館が少しずつ遠ざかっていく。
番だから。
まだ、その意味はよく分からない。
これからどうなるのかも、あの人を好きになるのかも、今はまだ分からなかった。
ツェツィーリアは窓の外を振り返る。
館の前には、まだレオンハルトが立っていた。
その姿を見つけた途端、なぜか少しだけ嬉しくなる。
また会いに来よう。
十五歳のツェツィーリアは、その日初めて。
そんな未来を、ほんの少しだけ楽しみにした。
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