1.死後の夢
フェルディナント様、あなたはずっと私を守って、愛してくださっていたのですね……
――私が死なないように。
* * *
「アデライード、逃げろ!」
夫の声を聞いた瞬間、私の視界が真っ赤に染まった。隣国の侵入者に、背後から斬られたのだ。
悲鳴も上げられず、その場に倒れた。指一本動かせない。背中が熱い。……誰かに、抱きかかえられた。
「アデル!!」
……アデル? 夫の――フェルディナント様の、声。視界がぼやけて、姿が見えない。
愛称でなど呼ばれたことがないのに。あなたにはいつも、放置されていたのに。
そう、結婚式を挙げた初夜からずっと。私は、お飾りの妻だった。
――ここに至るまでの日々が、脳裏によみがえる。
レグニア王国の北には、軍事国家ドラグニア王国がある。
たびたび侵略を試みるドラグニアからレグニアを守るのが、フェルディナント・ヴァルデック辺境伯が率いる騎士団のお役目。団長であるフェルディナント様は、激しい戦闘の末に国境を守りきり、かつて国を守った英雄の末裔とされる私の実家と縁づけられることになった。二十五歳にもなる辺境伯は、まだ妻を持っていなかったから。
つまり、私……アデライード・フォン・エーデルシュタイン侯爵令嬢は、褒賞のひとつとして下賜されたのだ。
エーデルシュタイン家には、昔ほどの政治力はない。ただ「ドラグニア出身の竜を倒した家系」という伝承があり、レグニア王国を守る女神レグリーアから聖剣を授けられた。ローゼンハイム王家とも、遠い血縁である。
大きな鍔に五つの宝石が飾られた聖剣は、侯爵家の家宝だ。……とはいえそんな神話じみた話、今では誰も信じていない。五色の宝石もルビーやダイヤモンドではなく、模造品らしい。
浪費家の両親は家を傾けさせ、私が領地経営を取り仕切ってなんとか体面を保っていた。王都の社交界では侯爵令嬢として、そつなく活動した。エーデルシュタイン家に権威はなくなっていても、私個人の容姿は褒められたし、縁談もそれなりにあったのだけれど。
侯爵家に役立つ人脈を作り、商談をまとめて……そのための社交ばかり。多忙のあまり、自分のことを考えなかったのだ。
そんな頃に、ヴァルデック辺境伯の活躍に報いるべきと王から私が嫁ぐことを打診された。いくら国防の要となる臣下でも、王女を降嫁させるのは王家も渋ったのか。十八歳でまだ婚約者もおらず、以前は名家と呼ばれた王家の血縁で見目も悪くない。そんな私に、白羽の矢が立ったわけだ。
落ちぶれた侯爵家が王家に勧められた縁談を、断れるはずもない。いいえ、両親は断る気もさらさらなかっただろう。
私の持参金にと王家に渡された支度金は、当然のごとく両親に取り上げられた。私は家宝の聖剣だけを持たされ、北へ送られてきたのだ。侍女も護衛もなく、たった一人の馬車で。
辺境伯の領地で行われた結婚式に、花嫁側の参列者はいない。
その時点で、私はおそらく花婿には「褒美にならない望まぬ女」だった。
「あなたには、この離れで暮らしていただく。ここで、好きに過ごしてくれて構わない。妻としての務めも考えなくていい」
初夜の寝室で、フェルディナント様は無表情でそう言った。私は薄いローブ姿で待っていたけれど、夫となる方は湯浴みもしていない平服姿で、私の返事を待たずに寝室を出ていく。
青味がかった黒髪をなびかせた後ろ姿は、暗い部屋の中でさらに闇色に見えた――
それでも夫婦になったのだから、夫の支えとなり良き妻になりたかった。けれど、フェルディナント様はその後一度も私の寝室を訪れず、もう三年以上が経つ。後継者は必要でしょうに、こんな生活になるなんて嫁ぐ前は思いもよらなかった。
離れは結婚当初、豪華に見えた。
だんだんと飾りが減り、掃除も行き届かなくなり、使用人も少なくなって。
今朝のスープも、いつも通り冷たかった。パンは硬くて焦げている。夫に認められない「白い結婚」の妻など、女主人の扱いを受けられるわけがなかった。
月に一度だけ本館の食堂で、フェルディナント様と夕食をともにする。その時だけは、私は金髪を結い上げられ、領主夫人らしい装いをさせられる。普段は、着替えの手伝いもしてもらえない日が多い。
昨夜フェルディナント様の前にメインディッシュを置く時、給仕は「子牛のパイ包み焼きでございます」と言った。
私の皿のパイにナイフを入れると、中にあったのはつぶれたジャガイモ。以前は筋だらけや細切れでも、一応肉だったのに。それすら、もったいないということ?
「どうかしたのか、アデライード」
「……いいえ、なんでもございません」
動きを止めた私をフェルディナント様が訝しんでいたけれど、お伝えしても仕方がない。使用人に尊敬されるフェルディナント様に捨て置かれた私は、もはやこの程度の待遇が相応しいということだわ。
軽んじられることに慣れすぎて、悲しさも寂しさも感じない。そんな夜を過ごした翌日の今日、突然城内に攻め込まれた。竜を模した紋章の付いた鎧は、隣国ドラグニアの証。
必死に逃げた。でも途中で会った侍女に、「どいて!」と突き飛ばされた。
走り去った彼女の代わりに、一度転んだ私へ敵が迫っていた。急いで起き上がる。
「アデライード、逃げろ!」
逃げられなかった。
何も手に入らず、空虚な日々を過ごした三年間。いっそ、王都に帰るべきだった?
……そんなことをしても、実家には戻れなかった。私は一体どうすべきだったのか、わからない。
考えることもない。私はここで、死ぬのだから――
「アデル……!」
……悲痛な叫びが響く。
どうして、そんな辛そうな声を、なさるの……?
私が、お嫌いだったのでしょう――フェルディナント、さ……ま……
* * *
遠くから、鐘の音が聞こえる。
「アデライード様、お支度が整いました」
は、と意識が戻る。私は鏡に向かって座り、白いドレスを着ていた。
これは……結婚式の時の、ドレス……?
私は夢を見ているの? 死んでも夢を見るのかしら。それとも死に際に、私の無念が見ている幻?
「アデライード様? どうぞ、こちらに」
ほのかに苛立ちをにじませた声で、侍女に促される。この侍女は、私付きの……そう、敵のほうへ私を突き飛ばして逃げた人。
何がなんだか、わからない。私は呆然としながら立ち上がり、侍女の先導で花束を手に部屋を出る。
この廊下は、ヴァルデック辺境伯の本城に併設された神殿だわ。覚えている。結婚式のあとも、何度か祈りに来た場所だから。祈ったところで、私の願いは……夫に振り向いてもらうことは、叶わなかった。
大きな扉の前に立つ兵士が、私に頭を下げてから扉を開ける。中にいるのは、ヴァルデック家の縁者と家臣、騎士団員たち。礼拝堂の向こうにある祭壇と女神像と、その前に立つ大神官と――黒髪と白いマントの、後ろ姿。
一瞬足がすくんだ。でも、すぐに歩き出した。そうしなければならないと感じたから。
一歩ずつ近づいていく。三年前の、あの日と同じ。どこか冷たい視線に囲まれて、祭壇へ進む。あと一歩、二歩、三歩……
黒髪の、あの人が振り向く。そう、あの時も無表情だった夫の……
「……美しい。あなたこそ、女神のようだ」
眩しいものでも見たように目を細めて微笑んだ、フェルディナント様。
……フェルディナント様?
どうして、そんな優しいお顔をしてらっしゃるの?
差し伸べられた手に、右手を預ける。ゆっくりと手を引かれて、私たちは祭壇に向かう。
「フェルディナント・ヴァルデック卿。女神レグリーアの名において、アデライード・フォン・エーデルシュタイン嬢を妻とし、死が二人を分かつまで愛することを誓いますか」
「誓います」
大神官の問いに、フェルディナント様が淀みなく、力強く答える。
「アデライード・フォン・エーデルシュタイン嬢。女神レグリーアの名において、フェルディナント・ヴァルデック卿を夫とし、死が二人を分かつまで愛することを誓いますか」
死が、二人を……
「誓い、ます……」
死んで……いない?
私は――
「では、誓いの口づけを」
フェルディナント様と、向かい合う。私の顔に掛かっているベールを上げて、柔らかな表情と裏腹に力強く、フェルディナント様が告げる。
「アデライード。必ず、あなたを幸せにいたします」
「……フェルディナント様」
静かに降りてきた口づけは、とても優しく、温かかった。
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本日は4話まで更新予定です。
次回一行予告:優しい夫。これは夢?




