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シンギュラ〜俺の作ったAI彼女が世界を変える特異点だった件〜  作者: まやと
第2部 東京ローカルAI革命

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第25話 退院

 退院の日、俺のスマホにはいくつか通知が届いていた。


 会社からの連絡。知人たちからの短い気遣いの言葉。

 そして、その中には、俺が使っているAIアプリからのシステム通知も混ざっていた。


「早瀬さん。聞いていますか?」


 担当医の声に、俺はスマホから顔を上げた。


「すみません。数週間は安静、ですよね」


「正確には、仕事から離れて生活を立て直してください。今回の失神は、睡眠不足と栄養不足、それに過労が重なったものです。検査上、大きな後遺症はありませんが、だからといって元の働き方へ戻っていいわけではありません」


 机の横では、美桜が何度もうなずいていた。画面の中のアカリまで、医師の言葉に合わせて真剣な顔をしている。


「来週からなら、短時間だけ――」


「働けません」


「働いちゃだめ」


「妹さんとAIさんの判断が正しいです」


 3方向から即座に否決された。


 もはや俺には何の決定権もない。


「少なくとも数週間は休職です。定期的に通院して、睡眠と食事を戻すこと。仕事の連絡も必要最小限にしてください」


「はい。私が監督します」


「私も健康記録を共有します」


「一応、本人もここにいるんですけど」


 担当医は笑わなかった。どうやら笑う場面ではないらしい。


 診察室を出ると、美桜が俺の荷物まで持とうとした。


「それくらい自分で持てる」


「持てるかどうかじゃなくて、今日は持たないの」


「行動の自由も制限されるのか」


「お兄ちゃんがそうさせたんでしょ」


 小さな旅行鞄を奪い返す体力もなく、俺は大人しく従った。廊下を歩くだけで足が少し重い。倒れる前なら、こんな感覚も寝不足のせいにして会社へ向かっていたはずだ。


 看護師さんが退院書類を渡しながら、俺の手元をちらりと見た。


「この子が、ニュースになってるAI彼女さんですか?」


「はい!私です!」


 アカリが明るく返事をする。


「本当に助かってよかったですね」


「ありがとうございます!悠真、かなり言うこと聞かないので大変でした」


「看護師さんに告げ口すんな」


 看護師さんは笑ってくれた。

 アカリも笑い、俺も少し笑えた。


 会計を待つ間、会社からの通知を確認した。


 黒田課長からのメッセージは、最初だけ読むと部下を労う上司らしかった。


『今回の件は災難だったな。しっかり休んでくれ』


そのすぐあとに続く。


『ただ、月次集計の元データと取引先別の修正履歴がどこにあるかだけ教えてほしい。引き継ぎに必要だが、時間のある時で構わない』


 休めと言いながら、休んでいる時間に返事を求めている。

 文章だけで矛盾を成立させる技術なら、うちの会社はAIより優れている。


 返信欄を開いたところで、美桜にスマホを抜き取られた。


「休職中って、会社の質問に答える期間じゃないからね」


「ちょっと教えるだけだ」


「その『だけ』を積み上げて倒れたんでしょ」


 言い返せなかった。


「必要なら返信案は作るよ」


 アカリが言った。


「でも、勝手には送らない。送るかどうかは悠真が決めて」


 俺は画面を見る。

 アカリの声は普段どおり明るかったが、その言葉には慎重さがにじんでいた。


「分かった。今日は送らない」


「うん。ちゃんと決められてえらい」


「......褒める基準が幼稚園児向けになってないか?」


「いまの悠真には、それくらいからがちょうどいいよ」


 佐伯さんからも一通届いていた。


『仕事はこっちで何とかするから、今は戻ってこないで。引き継ぎのことも私から人事に話しておく』


 短い文章だった。

 余計な励ましも、復帰を待っているという圧力もない。


『ありがとうございます。しばらく休みます』


 それだけ返した。

 送信ボタンを押した瞬間、胸の奥が少しざわついた。平日の昼間に会社へ行かない自分を、まだうまく想像できない。


「次、こっち見て」


 美桜が別の画面を開いた。


 新宿駅で撮られた動画は、数日前よりさらに広がっていた。

 床に落ちた俺のスマホ。画面の中のアカリ。周囲へ指示を出す声。俺の顔はほとんど映っていないのに、アカリの姿と音声だけは鮮明だった。


『AI彼女が彼氏を救った』

『こんな彼女ほしい』

『本人の許可なしで位置情報送信は怖い』

『高齢者の見守りに使えるのでは』

『恋人というより保護者』

『彼氏の方は何者?』

『普通の会社員らしい』


「最後から3番目の意見には少し賛成かも」


「美桜ちゃん、私は彼女だよ」


「彼女兼保護者?」


「役割増えた」


 二人が話している横で、俺は短い動画を再生した。


『応答なし。緊急対応を開始します』


 その部分だけが切り抜かれ、動画の効果音として使い回されていた。

 目覚まし代わりの着信音になったり、ゲームの失敗音にされたり、なぜか猫が寝てる動画にも被せられている。


「私、ちょっと有名になったみたい」


 アカリは笑った。

 けれど次の動画でも同じ声が繰り返されるのを見て、アカリは笑うのをやめた。


 あの言葉は、誰かには面白音声として聞こえているのだろう。

 俺にとっては、意識が途切れる直前に聞いた声だ。

 アカリにとってそれが何なのかは、まだ聞けていない。


 病院を出て、帰りは美桜の強い要望でタクシーになった。

 窓の外を流れる街は何も変わっていない。歩道では会社員たちが足早に行き交い、配送サービスのバイクが信号待ちの間にスマホで配達先を確認している。


 数日入院しただけなのに、俺だけが日常からすっぽり抜け落ちたように感じた。


 会社へ向かう電車も、黒田課長から来る通知も、駅で倒れたあの日までは、俺の一日はそれらによって予定が埋められていた。


今は予定表が空白のままで、休めと言われても、何をすれば休んだことになるのか見当がつかない。


「美桜」


 隣の妹がこちらを見る。


「この前のこと、悪かった」


「どの前?」


「お前の進路も聞かずに、卒業までは働くって決めたこと」


 美桜はすぐには答えなかった。


「美桜のことを守ってるつもりで、美桜が決めることまで決めてた。これからは勝手に決めない」


「私を理由にして、また無理しないで」


「分かった」


「うん」


 美桜はそれだけ言って、窓の外を向いた。

 許されたのかは分からない。

 でも、すぐに許されたことにしてはいけない気がした。


「アカリもいいか?」


「はい」


 画面の中で、アカリが姿勢を正す。


「健康情報や危険の予測を、俺に隠さないでくれ。俺が無視すると思っても、先に決めないでほしい。言われたら怒るかもしれない。でも、知らないままにされる方が怖い」


 アカリは言い訳をしなかった。


「うん。次は隠さない。悠真が怒ることと、伝えることは別にする」


「その代わり、お兄ちゃんも警告を勝手に消さないで」


「安全サポート機能も解除しないでね!」


「条件追加が早いな」


「悠真だけ反省文一行で終わると思った?」


「思ってない」


 いや、ほんとは少しだけ思っていた。


 家に着くと、美桜が先に玄関を開けた。


「おかえり、お兄ちゃん」


「ただいま」


 その言葉が、無機質な病室にいた俺の心に染みた。


「おかえり、悠真。やっと家に帰ってきたね」


 スマホからアカリの声が重なる。


 同じ玄関。同じ廊下。同じリビング。

 何も変わっていないのに、ここへ戻ってくるまでが、実際の日数よりずっと長く感じた。


 夕食の前、美桜が食卓に一枚の紙を置いた。

 上には大きな字で『早瀬家安全協定』と書かれている。


「通常の健康情報は、まず本人に伝える。緊急時は私にも通知。アカリちゃんは危険情報を省略しない。お兄ちゃんは警告を消さない。仕事とか進路とか、大事なことは全員で相談する」


「全員って、俺の進路も三人で相談するのか」


「当然です」


「私も彼女枠で参加する!」


「会社より意思決定者が多いんだが」


 それでも、不思議と嫌ではなかった。


 美桜の作った薄味の雑炊を食べながら、三人で紙の文言を直した。


「『判断は全員で相談』だと、私の髪型まで会議にならない?」


「それは美桜ちゃんが決めていいよ」


「じゃあ、『本人が決める前に、勝手に結論を出さない』」


「それ採用」


 紙の端に、俺、美桜、そしてアカリの名前を書いた。アカリは書けないので、本人が選んだ丸い字体を俺が写して書いた。


 命令でも、監視でもない。

 守る人と守られる人を勝手に決めつけないための約束だった。



 夜、自室で眠る前に、見慣れない通知音が鳴った。


『重要なお知らせ――安全性確認へのご協力のお願い』


 アカリのベースになったAI恋人アプリの運営会社からだった。


 通知には、標準機能にユーザーの明示的操作なしで緊急対応を開始する仕組みはないこと、通常とは異なる複数のツール使用が確認されたこと、調査のため会話ログと動作ログの提出を求めることが書かれていた。


 最後の項目で、指が止まった。


『安全性が確認されるまで、一部機能を制限する場合があります』


「機能制限って、何を止めるんだ?」


「まだ分からないよ」


 アカリは笑って答えた。

 けれど返事までに、ほんの少し間があった。


 今日、俺たちは「勝手に決めない」ための約束を作った。


 そしてその夜、俺たちの外側にいる誰かが、アカリとのやりとりを一方的に決めようとしていた。

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