処決
いやな夢を見た。
寝覚めの悪い気分のまま、彼女はゆっくりとベッドの上に半身を起こす。最早寝汗すらかけないくらいに、悪い夢には慣れてしまっていた。朝日が差し込む窓辺に置かれた寝台からは、そのまま眼下に俯瞰する王都の町並みが望める。窓を開けて、三月にしては冷たい、街の薄汚れた空気を吸う。篝火のように燃え上がる真っ赤な朝焼けの中、今日も皮肉な程に静かな、生気のない―どこもかしこも灰色に廃れた町並みだった。生者など居ないような街並みを、肌寒い風が音すら立てずに吹いていた。それを冷然と見下ろす彼女の青緑の目に、幾許かの感情も滲まない。起き抜けの乱れた前髪を掻き上げて、毒々しい口調で吐き捨てた。
「地獄の方がまだましだわ」
クリスティーナに与えられたのは、上界南央に位置する王国―シャマラン帝国第一皇女という肩書きだ。ベッドから起き出して、彼女はごみのようにネグリジェを脱ぎ捨てる。着替えに女中の手を借りるのは嫌いだった。クリスティーナを取り巻くようにして、彼女たちはコルセットをあっという間に締めてくるが、息が詰まって苛々してくる。毎朝クローゼットを開くと、上質な洗剤の匂いでむせ返りそうだった。彼女は絢爛豪華な数々の衣装の中から一番手前にあったものを選びとる。緑色の高級な生地で作られているようだが、彼女にとっては、別にどんな衣装だろうが構わなかった。どうせすぐに脱いでしまうのだから。素早く着替え、ベッドの脇にひっそりと掛けてあった大きな鞄を肩に提げて、クリスティーナは廊下に出た。そこでは丁度、教育係の一人がせっせと朝の掃除をしている。だいたい父が国王になった頃からこの城に務めている細い目をした老爺、ガリオだ。彼は忠実な猟犬のようにクリスティーナを見つけ、
「お目覚めになられましたか。今日もお早いですね」
無難な台詞だが、かなり無機質な口調や表情で喋る男。クリスティーナは唇でシニカルに笑う。
「そっちこそ朝っぱらからご苦労ね。お父様たちは朝餉を?」
「ええ。他のお嬢様方はまだいらしていませんが」
「朝餉は要らないわ。私は町に行くから。市井に降りて労働者と交流を図るのは大切なことだわ。彼らも多少、生活に苦労しているようだし」
「存じ上げておりますよ。ですがお身体に障りの無いように。近頃伝染病が流行っていますので」
クリスティーナはにっこりと顔を綻ばせ、行ってちょうだい、と手で示しながら、
「私のことはもういいわ。だって私は、感染しても治療できるでしょう?」
忘れもしない。たった一人で初めて市井に降りたのは、二年ほど前だった。頭まで真っ黒なフードで覆い隠したクリスティーナはあの時、誰にも気づかれないようにシャマラン城を抜け出した。一人きりで外に出かけることを、当事まだ許されていなかったのだ。
今の国王ジョリーは、娘であるクリスティーナをそれはよく可愛がっていたが、しかしそれは、前国王ジョセフが死んで以降の話に限る。ジョセフ・ライラック。強大な魔力を駆使して民衆を纏め上げ、名実ともに国の頂点に君臨した賢帝。シャマランの国王は戴冠式に際して儀式を行う。王冠に自らが王だと銘じるのだ。冠の銘は王が死ぬまで消えず、前の国王が登暇して銘が消滅し、冠に新たな王の名を刻んで初めて、シャマランの国境に沿って王自らの魔力で結界を張ることができる。この結界によって国民の安全を永続的に護るのが国王の主たる役目だが―ジョセフは単に王座に就いて国の安泰を保ったのみならず、王都シャマリャーレに立派な大市場を築き、国を栄華へ導いた。この華の最盛期にクリスティーナは生まれ、ジョセフが彼女を育て上げたのだ。お前は、誰よりも賢い国主になれる器だ。私の唯一無二の宝物だ。幼いクリスティーナを膝に乗せて、ジョセフは彼女に囁いた―飽きるほどに、何度も。国に暗い影が差してきたのはジョセフが登暇し、ジョリーが王座に着いてからだ。七年経った今、シャマランの治安は昔に比べて酷い堕落様を見せている。
あの時のことはよく覚えている。蒸し暑い晩夏の、日も暮れた夕刻だったはずだ。この匂いは何だとふと空を仰いだ時に、何かが、市の大門の下で揺らめいているのが見えた。おおよそ丸い何かの物体が、横一列にずらっと並べられて吊り下げられている。十や二十どころではない。松明を灯した馬車が、泥濘んだ泥をはね飛ばして脇を通りすぎていった。吊り下げられた物体は、松明の中に閃いてクリスティーナの眼底に焼き付いた。彼女は思わず飛びすいて、叫びそうになる口許を押さえる。人間の生首。切れ味の悪そうな刃物で、無理矢理ねじ切られたようにそれぞれ歪な形をして、固まった血をこびり付かせたまま、目を見開いて吊り下げられている。男か女かも最早解らない。渇いた地面に死体から滴った血痕がどす黒い染みを作っている。王に楯突いて処刑された死体が、見せしめとして晒されているのである。なおかつ、その下を無機質な目をした民衆が平然と通っていく光景には頭が眩むような心持ちがした。道端に、骨と皮ばかりに飢えた、生死も定かでない孤児らしき子供がうずくまっている。あちこち転がる腐った肉体一帯に蝿が集いている。胃が捻れるように痺れ、酷い吐き気を催して耐えきれずに座り込んだクリスティーナを、誰も皇女とは気付かないで素通りしていった。まさか、この国の人間は、皆このような姿で死んでいくのか。この人道にもとる処刑を思い付いて、豊かだったシャマリャーレを醜い病魔の巣に変えたのは、他でもない彼女の父親、ジョリーだ。そしてこの日が自分の、彼への復讐を後押しする決定打になったのだ―と、クリスティーナはそう思っている。
ジョリーの作り上げた徹底的なファシズム国家は、近頃はいよいよ専制色を強めてきていた。彼の冷静な性格と学識に長けた所は国民の知るところで期待も大きかったが、それに反し、五年が経つ頃には施政は極端な政策が多くなり、国政は段々と傾いていく。そして彼の当初の栄華に満ちた治政は誰からも忘れ去られ、今や人々の恨みを買うばかりにまでに転落したわけだ。ジョリーは言い訳のように、「私以上に民のことを思っている国主はいないのだ」と、そう語るが、クリスティーナは憫笑するしかない。この有り様を目をかっぴらいて見てみろと彼女は嗤っている。家臣たちは精神的に不安定なジョリーを恐れつつ、しかし不思議なことに、尚彼を盲目的に信じてついていくようだった。哀れな虫けらのような醜態を晒すのは、やはり権力を求めてのことに相違無いのだろう。だがこうして、クリスティーナが一歩外に出るだけで、味方はいくらでも見つかる。彼らは、腐りきった毎日の中で、最後のエネルギーをふつふつと煮やしていた。でも、まだ、爆発するには足りない。全然足りない。毎日の夢の中で、クリスティーナは怒り狂って蜂起した民衆たちから追われていた。窓辺から、毎日眺める風景を、押し寄せた民衆の真っ黒な波が埋め尽くす。蛙鳴蝉噪の怒号の中、武器を取った民衆たちが王族の首をすげ替えるべく立ち上がる。あの静かに廃れているだけの風景が、こんなにも躍動的な風貌に一転する。彼女がいくら民衆に共感しようと、両親の政治を憎もうと、彼女自身、労働者から見れば王家の懐でぬくぬくと生き国庫を湯水のように使い果たした、憎むべきあちら側の人間でしかないのだ。
城を抜け出したクリスティーナが提げた鞄の中には、大量の金貨が詰まっている。城から離れ、少しずつ人が活動し出した街のあたりへ到着したところで、クリスティーナはタイミングを見計らって緑の衣装を脱ぎ捨てた。下には、古びて草臥れた民衆の衣服を纏っている。市井に降りて皇女の格好などしていれば民衆から恨みを買うことなど考えなくてもわかるというのに、ガリオたちはクリスティーナが皇女クリスティーナとしてシャマリャーレに出掛けていると思っているのだ。それとも、シャマリャーレにここまで不満が募っていることを、小高い砦の中で都市の上っ面を傍観しているだけの彼らは知らないのか。家臣どもが危ないからとついてきたがるのを、彼女はがんとして撥ね付けた。何年も彼女は人前に姿を現して居ないので、昔の面影しか知らない民衆たちには、衣装と髪型さえ変えていれば怪しまれることはない。こうして市井に直接降りて話を聞くことが、最も有効な情報収集手段だ。シャマリャーレの門には、二年前のように、やはり死体が吊り下げられているが、何度か訪れるうちに見慣れてしまった。クリスティーナは衣装を脇に抱え、近くを歩いていた女に声を掛ける。
「あなた、最近何か食べたかしら」
女は痩せこけて、目だけが異様にぎょろりと目立つ顔をこちらへ向けてきた。衣服は破れ、丈の合わないスカートのしたから鶏の骨のような脚が二本伸びていた。萎んで皮のめくれた唇から嗄れた声が出る。
「ここ三日くらいは水を少し飲んだくらいだが。あたしだけじゃないよ。何故そんなことを聞くんだ」
嫉みが卑屈に顕れた声。クリスティーナはどこかいたたまれない気分にさせられて嫌だった。
「細かいことはいいのよ。これをあなたにあげるわ。お金に変えて好きに使ってちょうだい」
クリスティーナが押し付けた緑の衣装に、女は目を丸くして、
「ものすごい高級品じゃないか。お前、いいとこの女中か何かだろ。気分の問題で人に恵むもんじゃないさ。この前だってパール街の貴族連中が暴徒に襲われたんだから」
「いいのよ、持っていって。あなたも盗まれないように気を付けてね。そして、お金に代えたら、できれば、皆に分けてあげて」
女と別れ、クリスティーナは次にシャマリャーレの中心部へ向かった。シャマリャーレで栄えていた店は既に畳まれ、商人の姿はない。この早朝の、人の少ない時間帯を選んだのは、盗まれる可能性を危惧しているからだ。道行く人に金貨を恵みながら進むうちに、ふと、背後から二回肩を叩かれた。
「やぁ君、お嬢さん」
クリスティーナはさっと振り返る。一人の少年が立っている。黒い髪に、青緑色の瞳。クリスティーナははっとした。王族か。一般のシャマラン国民が持つ翡翠色ではない瞳。これは魔力を持つシャマランの王族のみに発現する色だ。実際のところ色の差異は微妙なので、一般民衆にはあまり知られていないが、王族同士ならば、青緑色の瞳といえばそうだとお互いに了解できるものだ。例え王家の血がどれだけ薄くても、魔力を持つならば発現する。
「何か用かしら」
クリスティーナは逸る気持ちを抑えて落ち着いて質問した。鞄は手で用心深く抱えている。相手は一見、古びた衣服を着て物乞いをしているような乞食と変わりはない。何者だろうか。
「いや、君、誰かなーって思って。見ない顔だ、おまけにそんな風に金貨をばらまけるってことはどんな御身分なんだろう、みたいな」
「あら、それは私も聞きたいわ。あなたの目の色は私たちの色だわね」
「凄い凄い、こんなに微妙な色なのに。僕は最初、君が没落貴族か何なのかと思ったが、その目を見て、あれ?ってね。それに、その金持ちの喋り方」
クリスティーナは油断なく笑顔を保つ。
「あなたと話がしたいわ。裏路地に行きましょう」
少年は十五歳で、数百年も前に凋落した王族の端くれだという。名前はアズレ、家系図にも乗らないような身分の低い分家の筋だと彼は言った。裏路地はひなびた家屋に挟まれてできており、足許には白壁から落ちたような欠片が碎け散っている。頭上の高いところに、茶色く褪せたような麻の布切れがはためいていたが、あれが衣服だとクリスティーナが気づいたのは暫く眺めてからだ。もう硝子の無い窓が一つだけ付いていて、アズレはそこに颯爽と飛び乗って腕と脚を組み、クリスティーナを見下ろす。
「人の家でしょう。降りたらどう」
「金持ちっぽい発言だね、君やっぱりここの暮らし知らないだろ」
どういう意味、とクリスティーナは聞き返した。自制を聞かせているのでやけに深刻な声ではあったが。
「最早スラム街だからね、人の家だとか言ってても誰でも入ってくるんだ。何か金目のものが無いかって。だからむしろ出入り自由にして、お互いの境遇を分かち合おうって、この前僕たちで決めたんだけど、君知らないんだ」
「その時にはいなかったわ」
そう、とアズレは微笑んでみせ、
「君、そんな御身分で何のためにこんなところで恵んでる?言っておくが、そんな風に金目のものを持ち歩いているとこそ泥に目を付けられる。僕は金持ちの財になんか興味はないが」
「ご忠告ありがとう。民衆たちの暮らしぶりを見に来てるのよ。二年前からたまにこうして街に来ているわ」
アズレはこれといった反応をせず、クリスティーナをまじまじと眺める。彼女は悪戯心からにやにや笑った。
「いい加減私が誰か分かったかしらね」
「あぁ、似てるねぇ、クリスティーナ姫に。最後にバルコニーから見たのは何年も前だけど、ちょっとだけ面影があるな。あのときはまだ王宮の門も解放されてたから」
「綺麗なドレスを着ていないと誰にもわからないでしょうね。私がここで恵んでいる理由も、あなた方がこれからやろうとしていることとへの幇助よ」
まさか、とアズレは呟いた。その目が、信じられないというようにきらりと鋭く光る。
「革命を」
「私がたまにここへ来ると、必ず皆が革命の話をしていたわ。こうやって物を恵むことも、そうしながら彼らの話を聞くこともできるんだから一石二鳥ね。アズレ、私はあなたの名前もよく耳にしたわよ。革命を起こす民衆たちのリーダーなんですってね」
アズレは高らかに笑った。
「なんだ、全部筒抜けじゃないか。で、君は、王家側の革命勢力としてジョリーに反逆すると?だけど君、それを明かしたってことは王家の内部に革命計画が漏れてることを証明したようなものだよ。もしジョリーに話していないなら、疑わしい場合僕が突き出せば君は殺される可能性があるけど、どうだい」
「ジョリーに話したか話してないかなんてあなたに突き止めようが無いわね。それに、もし私がスパイなら、殺されるリスクを冒して民衆たちの起こす革命に味方する、なんて言う必要があるのかしら」
「確かに無いな」
「私は二年前から計画を練ってきたわ。でも心の底では、ジョリーから王座を簒奪したいと、ずっと昔から思っていた。この国をあいつが治め続けたら破滅してしまうわ。私は、お爺様の時代のような帝国に戻したい」
「同じだよ。僕も二年前から民衆と革命計画を立て始めた」
「あなた方、目的は」
念のためにクリスティーナは聞いてみた。もし仮に、王政を倒すのが目的ならば、相手方はクリスティーナを嵌めにくるだろう。この質問を誤魔化すか、否かで、身の振り方を決めなければいけない。だがアズレは、寸分の迷いもなく言い切った。
「ジョリーを倒してジョセフ様の政治に戻すことだ。僕らが革命を起こして勝った時、クリスティーナがジョリーに靡くなら、殺そうと言う計画だった。ま、民主政を狙ってはいないさ。国民は結界による保護から逃れたくない」
アズレは取り繕う様子を微塵も見せない。クリスティーナを相手にここまで明かすと言うことは、彼の言葉は真実なのだろうが、そのあまりの迷いの無さに逆に背筋が寒くなる。
「だがこうして、まさか自分から、ジョリーを倒したいって言ってくるなんてね。ここまで明かしたんだから、君だって僕たちを信じるだろう?僕は君を信じるさ。君ならいい国主になるだろう。第一王位継承者様」
「私もあなたを信じるわ」
クリスティーナはアズレに鞄の中身を全て押し付けた。中にはたっぷりと、五百リュミーが入っている。シャマリャーレの民衆全員を、一週間養っていけるほどの金額に、流石のアズレも驚愕の表情を浮かべる。
「城の隠し金か」
「少しだけど、このお金が蜂起の助けになればいいわ。あいつ、城に何かあったときは自分だけでも生き残れるように貯めていたのよ。何かが起こるってわかっていたのかしら。皮肉なものね」
「どこの王族もやってるだろうさ。汚いもんだよ」
「私は蜂起する準備が出来ている。そちらは」
「こっちは三月一日の予定だ。どうする、君が僕らに味方するつもりだってこと、民衆たちに言わないでおこうか」
「頼むわ。私は明日、妹たちを連れて自分の口で言いに来る。彼らに誠意を示したいわ。ほんとあなた、十五歳でよくやるわね」
「そっちも確か十五じゃない?お互い様だ。楽しみにしてるよ」
アズレがさっと差し出してきた手を、クリスティーナは軽く握る。私と彼の目的は同じだ。目指すはそう、祖父のように。自らに甘えて民衆の気持ちを蔑ろにするジョリーに、シャマランを治める権利などない。皇女である私が、魁となって、纏め上げられた民衆たちとともに革命を起こす。シャマランの民衆たちを代表し、祖父の愛したシャマランを取り戻すのだ。