07. 恋人たち1
「偶然に近くを通りかかったから」
照れを隠すように青年は微笑んだ。
血に赤く濡れた剣をひと振りすると、剣先はもとの白さを取り戻した。
足元に転がった森狼の屍骸を見下ろした青年の黒い瞳に、一瞬だけ悲しそうな色が浮かんで消える。
「危ないところだった。間に合って良かったよ。怪我はない?」
大丈夫よ。そう返答しようとして、リィザはあらためて青年を見た。
初めて見る顔だった。
年齢はリィザよりも少し上の、二十歳くらいに見える。
しなやかな若木といった印象の、青年というよりはむしろ少年に近い雰囲気を持っている。
静かな夜みたいな黒髪が風に少しだけ乱れている。
瞳も同じ漆黒だった。象牙色のきめの細かい肌をしている。
よく見ると驚くほど綺麗な顔立ちをしていたが、少女めいた印象は微塵も感じられなかった。
青年のおだやかで優しい顔立ちは、背にある白い翼によく似合っていた。
「……あ」
青年を、ほのかな光が取り巻いている。
空にある雲や白い花、リィザは今までいろいろな白を目にしてきたが、これほどまでに純粋な色を知らなかった。
例えるなら雪に似ているのかも知れない。
誰も足を踏み入れることの叶わぬ遠い地の、高い山頂にゆるやかに降り積もる、けがれを知らぬ清らかな純白に。
そよ風にふわりと浮かぶ翼の白さに何故だか切なさが込み上げた。
淡雪のような羽毛が風に吹き上げられ、遊ぶように舞い踊っている。
うっとりとして手で胸を押さえ、そのときになって初めてリィザは自分の置かれた状況を絶望的な思いで把握した。
「……神魔」
声は喉に絡みつき擦れて消えた。
背の翼は神魔のあかしだった。こんな場所で神魔に出遭うなんて。リィザは我が身の不運を呪った。
「おれは神魔だけど、でも、君に危害を加えるつもりはないよ」
途方に暮れたように青年は呟いた。
「ち、近寄らないで!」
一歩を踏み出そうとする青年に向けて、リィザは鋭く言った。
落ちていた小剣を拾って立ち上がろうとしたとき足に激痛が走った。
反射的に左の足首を押さえリィザは痛みに顔を歪めた。
どうやら痛めたらしい。傷口が青黒く変色し、腫れあがっている。
「痛むの?」
驚いたように立ち止まり青年が問う。心配そうな表情だった。
「近寄らないでよ。言ったでしょう! それ以上、一歩でも近づいたら殺すわよ」
精一杯の虚勢をはった。
リィザは下草にへたりこんだまま、それでも油断なく身構えた。
「何もしないよ」
「近寄らないでって言っているでしょう!」
「でも、怪我をしている」
青年は言った。
「その足じゃ歩けないだろう。折れているのかもしれない。それに君をこんな場所に置いてはいけないよ。森狼が襲ってくるかもしれない」
「放っておいてよ。あっちへ行ってったら! そう簡単にはだまされないわよ」
リィザが言い捨てると青年はひどく傷ついたような表情を見せた。
「君をだますつもりなんかないよ」
「何を言ってるのよ! あなたは神魔じゃないの。神魔はあたしたち地上人を殺すわ。つい最近も隣のルニ村が神魔に襲撃されたばかりだもの」
そのときの襲撃で村は燃え落ち、全滅こそまぬがれたものの、屈強な男達だけでなく戦えない女や子供までが、何人も犠牲になっていた。
建物は打ち壊され田畑は荒らされて、食料を略奪された。
そんなことは昨日や今日に始まったことではない。
それはリィザの生まれるもっと前から繰り返されて来た、神魔と地上人との変えようの無い歴史の一部でもあった。
「おれは、いや、神魔のすべてがそんなことをしているわけじゃないよ……君たちには同じことかもしれないけど」
リィザは激昂して青年に食ってかかった。
「だから何だと言うの! あたしの両親は、あなたたち神魔に殺されたわ! 自分はやっていないと、無関係だとでも言うつもり? あなただって略奪していった物の恩恵を受けているでしょうに」
重苦しい沈黙が訪れた。青年の顔には苦悶の色がありありと浮かんでいた。
「神魔は神魔だわ。あたしたち地上人にとっては、どちらも同じことよ」
声を落としてリィザは言った。
「ごめん」
「なによ、それ」
苛々としてリィザは言った。やりにくくて仕方がなかった。
「やめてよ。別に、あなたに謝ってほしくなんかないわ」
神魔と馴れ合うなど冗談ではない。
けれどこんな神魔に出会ったことは皆無だった。
神魔は冷酷で恐ろしいもの、そうリィザは思っていた。なのに、これはどうしたことだろう。
うつむいた青年をリィザは見た。
本物の神魔を、こんなに間近で目にするのは初めての経験だった。
姿形、瞳の色と髪の色、そして肌。
地上人と神魔は驚くほどよく似ていた。
背の翼がなければ、両者を見分けるのは難しいだろう。
だがそれらは表向きの事実に過ぎない。
地上人にはない翼が神魔にはあるように、二種族間には無視できない大きな差異があった。
「どう言ったらいいのかな? ……そうだ」
ふいに青年は笑みを見せて、腰の剣を抜き、それを地に放り投げた。
背中の白い羽根がバサリと音をたてて広がり、それきり見えなくなった。
「え?」
折り畳んだのとも違う。
背にあったはずの翼は完全に消え失せていた。
どうやったのだろう。リィザは目をしばたいた。
「そっちに行ってもいい?」
そう言いながら、いつのまにか青年は目の前に立っていた。
リィザが驚いて声をあげかけたときには、すでに膝を付いて、同じ高さで視線を合わせている。
ほんの数瞬の、まばたきほどの時間だった。
「近寄らないでって言ったのに……」
構えていたはずの短剣までがいつのまにか奪われて、今は青年の手の中にあった。
その動きの速さに、リィザの反射神経はまったく追い付かなかった。
「ごめん、驚かすつもりはないんだ」
図々しくも青年はにっこりと微笑んだ。
邪気のない笑顔に驚くよりも毒気を抜かれ、リィザは諦めて溜息をつく。
「いいわよ、もう」
目の前の神魔を完全に信用したわけではなかったが、だからといってどうなるものでもなかった。
どちらにしても力の差は歴然としていたし今更騒いだところで手遅れだろう。
「足はだいじょうぶ、折れてはいないよ」
リィザの靴を脱がせ、傷口を一通り調べたあと青年は言った。
「あ、ありがと」
「うん。あ、そのまま、もうちょっとだけ動かないでいて」
リィザが頷くと、青年は手をかざして目を閉じた。
その場所がゆっくりと熱を持ち、温かくなる。
驚いたことに青年の手のひらが淡く発光していた。
「どう? ほんの気休め程度だけど」
「痛みがひいているわ」
痛みどころか腫れもおさまり、青黒く変色していたはずの肌が普通の状態に戻っている。
青年に改めて礼を言うと、リィザは慎重に立ちあがった。
「驚いたわ。神魔は皆こういうことができるの?」
「いや、力は人によってさまざまかな。一族の誰もが出来るわけじゃないし……おれのこの力も中途半端だから」
「これで中途半端ですって? 傷をあっという間に治したのに」
驚いて、リィザは青年の整った造作をまじまじと見返した。
「見かけほど万能じゃないよ。できることも限られている。それよりも、じきに暗くなる。村の近くまで送るよ」
辺りには黄昏がにじみはじめていた。
青年は剣を拾って腰にもどした。
短く風を切る音がして、その背に、ふたたび翼が現れる。
「急ごう。掴まって」
「掴まれって簡単に言われても」
青年の言葉にリィザは顔を赤くした。
恥ずかしがっている場合じゃないのは承知していたが、リィザは首を横に振る。
「い、いいわよ……わたし歩いて帰るわ」
「なんで?」
大らかなのか無神経なのか、青年は首をかしげた。
「夜になる前に帰らないと、また奴らに襲われるかも知れない。それに完全に暗くなったら、おれも飛べなくなる」
そう言って青年は、抱き合うように向かい合い、自分の首に両腕をまわして掴まるよう、頑固に主張した。
「でも、そうだけど……」
なおもモジモジとしているリィザにしびれを切らしたのか、例のごとく一瞬で近寄って、抱きしめるようにして手を伸ばす。
避ける間もなく腰を引寄せられ、リィザは羞恥に頬を染めた。
「飛ぶよ、しっかり掴まっていて」
「は……!」
放して。そう抗議しようとしたが、果たせなかった。
帆が風を孕んで翻るように、真っ白な翼が後方へ広がる。
抜け落ちた羽根がリィザの頬を掠め、ふわりと空に舞い上がった。
足が地を離れた。リィザは悲鳴をあげて青年の首にしがみついた。
いったん空高く舞い上がると後は翼に風を孕ませるだけでことたりた。
空の上は思ったより風が強い。
だが不快感はなく、ときおり髪を吹き抜けてゆく突風はむしろ心地良い。
恐る恐る目を開けると、青々と茂る森の木々が眼下を流れていくのが見えた。夕焼けが西の空を鮮やかに染めていた。
「怖い?」
驚くほど近くに青年の横顔があった。
いまにも互いの頬と頬が触れあいそうな距離だった。
気づいた途端、胸の鼓動が大きくなってリィザはいたたまれなくなる。
不可抗力とはいえ、こんな風に誰かに抱きしめられるのは初めての経験だった。
「ちょっとだけ……でも、大丈夫よ」
リィザはぎこちない笑みを浮かべた。
「うん。絶対に落とさないから安心して」
腰にまわされた腕に力がこもる。
リィザの鼓動が速くなった。
頬が熱い。だけど同時に奇妙な安心感を覚えた。
相手は信用のならない神魔だというのに、それがリィザには不思議でならなかった。
「あそこよ」
やがて森を抜けた所に見覚えのある村を見つけた。まだ陽は沈み切っていない。青年の言葉のとおり、リィザは無事に村に帰りついたのだった。
村から少し離れた所で、リィザは降ろしてもらった。森の中の、水場からそう遠くない、けれども誰も来ない場所だった。
神魔が村の周囲をうろついているのを村人が知ったら、何よりもその神魔と一緒にいるところを誰かに見られでもしたら大騒動はまぬがれなかった。
「ありがとう」
礼を言うと、青年の顔から笑みがこぼれた。
「うん。不謹慎かも知れないけど、今日は色々と楽しかったよ」
「……あたしも」
理由も解らぬままに、リィザは青年と離れがたい思いにとらわれていた。
青年の背を覆う純白の翼が、あまりに綺麗だったからかもしれない。もう少しだけ青年と一緒にいたかった。
「あの……名前、聞いてもいい?」
「……え」
一瞬、思考が止まった。
信じられない思いでリィザは青年を見返した。
ただ名前を尋ねられただけなのに、リィザは嬉しくて気持ちが押さえられなかった。
「リィザ……リィザよ」
リィザか、と青年が言う。
綺麗な名前だなあ、と笑顔を見せる。
その笑顔を見ただけで、なぜかリィザは幸せな気持ちになった。
「おれはシオン……忘れないで、シオンだ」
シオンは手を振ると、黄昏が滲み出した空の彼方へ消えていった。
「……シオン」
別れ際にそう名乗った青年のことをリィザは考えていた。
あれから二日が経っていた。
リィザは家の前にある小さな畑に水をまいていた。
ポケットから出した白い羽根を、じっとリィザは見つめた。
もう二度と青年に逢うことはないだろう。
不思議な巡り合わせだった。
シオンという名の神魔の、夜の色をした瞳がリィザの脳裏をよぎっていった。
お守りのように羽根を胸に抱きしめ、そっと目蓋を閉じる。
風が吹きぬけ、リィザの長い髪を揺らしていった。
リィザは目を開けた。
「……あ」
はらはらと舞い散る純白の中に、シオンが立っていた。




