05. 地上へ
翼が風をはらんで波打つ。
足元に広がる白雲に目をやり、雲の切れ間からのぞく下界をレイダールは見下ろした。
色鮮やかな平原の緑。なだらかに横たわる大地と、岩肌のくすんだ灰色。幾本もの川が網目のようにからみあって広がり、やがて青い海原へと流れ出している。
この風景のどこかにシオンがいる。地上の女と一緒に。
次代の長を継ぐことを条件に手に入れたのは一日という短い期限だった。
それがごまかしのきくぎりぎりの線だろう。
陽の沈む前にシオンを連れて神魔界に戻らねばならない。
神魔が飛べるのは太陽のある日中だけで、夜闇での飛行は自殺行為に等しい。翼有種である神魔とて万能ではない。神魔は地上人ほどに夜目はきかないのだ。
シオンを探すのはそれほど難しいことではなかった。
シオンが立ち寄りそうな場所はだいたい見当がつくし、気配を追えばいいだけのことだ。神魔と地上人とでは纏う気配がまったく違っている。
ふいに、レイダールは視線をあげた。近づいてくる気配に気づき、後ろを向く。
「フレアリカ殿」
レイダールから少し離れた位置に青いドレスに身を包んだフレアリカが立っていた。
フレアリカはレイダールの目の前まで歩み寄ると、躊躇いがちに名を呼んだ。
「レイダールさま……あの」
いつもは綺麗に結いあげてある薄茶の髪が、吹き抜ける風のためにかすかに乱れている。
その乱れを気にするように手で髪を押さえフレアリカは視線を落とした。供の姿はない。名家の令嬢が従者も連れず一人きりで出歩くなど珍しかった。
「供の姿がないようですが。フレアリカ殿、ここまで一人でいらしたのですか?」
驚いたように身を震わせてフレアリカは顔をあげた。緑の瞳に不安げな影がよぎる。
「はい、あの……わたくし」
言葉を捜すように言いよどみ、しばらくの沈黙の後、意を決したように口を開く。
「わたくし屋敷を抜け出してまいりましたの。レイダールさまが今日の朝早く地上に降りられると聞いたものですから。その前にどうしてもお逢いしなくては、と思い……」
名家の令嬢とは思えない大胆な行動だった。珍しいこともあるものだ、とレイダールは内心で思った。それともこれはディーティアの影響だろうか。
近く政略による婚姻を結ぶことになる彼女のことを、妹の友人でシオンの従兄妹であるという以外、レイダールはほとんど知らない。興味が無いと言ってもいい。
緑の瞳、やさしい顔立ち。金糸を思わせる薄茶の髪。フレアリカはディーティアと同い歳だったが気の強い妹と比べ、いかにも深窓の令嬢といった雰囲気を持っている。まるで強い陽射しの下ではしおれてしまう高価な観賞花のようだった。
幼いころのレイダールは、ディーティアを伴ってコルダー邸を幾度となく尋ねたが、それはシオンと遊ぶためだった。
コルダー家当主の娘であるフレアリカと遊んだ記憶はほとんどない。レイダールやシオンが広々とした屋敷の前庭ではしゃぐのを、ひとり離れた木陰のベンチに座って眺めている。それがフレアリカだった。
年齢を重ねるにつれ、子供たちの遊びは変化してゆく。
レイダールやシオンに付いて外を駈け廻っていたディーティアは、いつのまにか男の子に混じって遊ぶことをしなくなりフレアリカと過ごすことが多くなった。
その結果、月琴や裁縫などの少女らしい遊びに興じる少女達から自然と距離は遠くなり、そのぶん少年たちは急速に仲良くなった。その頃のレイダールはシオンを一人占め出来たことに有頂天だった。
幼いころのレイダールはフレアリカのことをあまり好きではなかった。
自分達の遊びに参加しない彼女には興味を持てなかったのもある。そして、それは初めて出来たたったひとりの幼い親友が、この一歳下の従兄妹のことをいつも気にしていたからかもしれない。
自分との遊びを中断してまでフレアリカの様子を見に木陰にあるベンチに駆け戻るシオンの後姿に、レイダールはよく苛立ちを覚えたものだ。
思えば独占欲の強い子供だった。もっともあの頃ほどあからさまではないにしろ、根本的なところは今も昔も変っていない。
「関心しませんね。高貴な身分の女性が従者のひとりも連れず神魔界の外れをうろつくなど。なぜ、こんなことをなさったのです」
問う口調が刺を帯びている。
理由など聞かずともおおよその検討はつく。シオンの身を案ずるあまりの軽率とわかっていたが、だからといってフレアリカを気遣ってやれるだけの心の余裕も、またその気持ちも今のレイダールは持ち合わせていなかった。
フレアリカの失踪に気づき、今頃コルダーの屋敷は大騒ぎになっているかもしれない。
彼女をコルダー邸に送り届けなくてはらない。面倒なことだ。どんな理由かは知らないが、なにもこの時間のないときに、と思わずにいられない。
「軽率なことをなさいますねフレアリカ殿。あなたまでが姿を消したことで、きっと御父上が心を痛めていらっしゃいますよ」
我ながら子供じみていると思う。これでは八つ当たりだ。本当は時間が惜しいというよりも、たんにシオンのことでの鬱憤をフレアリカ相手に晴らしているに過ぎない。そうレイダールにはわかっていた。
「ごめんなさい」
かぼそい声で言って、フレアリカは悲しげに目を伏せた。
「わたくし、シオンのことでお詫びを……」
「あなたには関係のないことだ」
フレアリカの口からシオンの名が出たことで、なおさら苛立ちが込み上げた。見当違いの憤りだと承知していながら、レイダールは一方的に話題を打ち切った。
「もう、お帰りなさい。フレアリカ殿」
「はい……」
俯いていて、その表情までは見えない。だが、今にも泣き出しそうな声だった。
「送りましょう」
義務感から出た言葉に、フレアリカは首を横に振る。
「ひとりで帰れますわ」
「そういうわけにも行きません。お送りしましょう、フレアリカ殿」
「いいえ、だいじょうぶです。……ひとりで帰れますから」
フレアリカはおもてを上げると、無理に微笑をつくる。
「これいじょう、レイダールさまにご負担をかけたくはありませんもの」
負担? とうに負担になっている。
喉まで出かかった言葉を飲み込む。それを言ってどうなる? 我ながら最低だと思ったが、フレアリカを相手に口を開けば今度こそ酷い言葉を浴びせてしまいそうだった。
とはいえ、彼女をこの場に放置したまま地上に降りるわけにもいかない。
「わたしにも立場というものがあるのはご存知でしょう。お送りします」
感情を押し殺し、レイダールは言った。それでも苛立った声の調子までは隠せなかった。
「はい」
フレアリカは諦めたように目を伏せた。
これ以上いくら言葉を重ねても、それだけレイダールの負担を増やすだけと判断したようだった。
話を終えたレイダールは、もと来た道を戻ろうとフレアリカを見下ろしていた視線を上げ、そこに人影をみいだした。
「ディーティア」
フレアリカが背後を振り返る。
「やっぱりここだったのね、フレアリカ」
やはり供の姿はない。フレアリカと同様に、ひとりでディーティアは来たようだった。
レイダールは吐息をついた。
「おまえまで。いったい、どういうつもりだ? ディーティア」
「どういうつもりかですって? こちらこそうかがいたいものだわ。はっきり言わせていただくけれど、わたしたち、そんなふうに一方的になじられるいわれはなくてよ。わたくしたちにだって知る権利はあるはずだわ」
「だからといって、こう、はしから面倒を起こされてはかなわない」
「なによ、失礼ね!」
ディーティアは顎をそびやかして、そっぽを向く。
「兄さまの邪魔をするつもりはないわ。わたしはフレアリカを探しに来ただけよ」
ディーティアはフレアリカに向き直ると、言った。
「帰りましょう、フレアリカ。お父様が心配なさっているわ」
「……ええ。ごめんなさい、ディーティア」
安堵を滲ませてフレアリカは頷いた。




