第十三章 「百鬼夜行」
「甲斐! 僕の近くに来て!」
ナタリーの声で目を覚ました。見覚えのある光景と嗅ぎなれた匂いに驚く。
ここは、かつてのブルーム寮の自室だ。そのひんやりとした床に、ヴィヴィアンにさらわれたときと同じアヴァロン・プロダクションの制服で転がっていた。
「クレアさん! 囲まれています!」
「リン! すぐに輝化や!」
部屋の外から、伊奈、環の声が聞こえてきた。ナタリーの声も外からだったようだ。
キャメロットと那由多による合同のライブを行っているのだろうか。その通りならとても危険な状況であることが推測できた。
窓から外を覗く。濁ったように黒ずんだ霧で何も見えない。
状況はまだ理解できていないが、とにかく六人に合流しようと、立ち上がって部屋のドアへ向かう。しかし、コン、コン、というノックの音に驚き、足が止まった。
「入っていい? お姉ちゃん」
心臓が跳ねた。声を詰まらせながら「いいよ」と応える。
ひらいたドアの先に、リアがいた。幼い姿ではなく、病院へお見舞いに行ったときと同じ、淡い色の寝巻姿だ。ルーティは後ずさりながら誰何する。
「あなたは……?」
「ひどいな、お姉ちゃん。リアだよ」
「わたしの中にいたイドラは、もう排除したはず……」
「あぁ、二日前までお姉ちゃんの身体に寄生していたイドラ? あんな偽物じゃないよ。あたしは、『お姉ちゃんの思い出』のリア。現実のあたしが死んで、お姉ちゃんが悲しみすぎちゃったから存在感がちょっと強くなったんだ」
「ほら、あやしくないよ」と言って、リアが腕を大きく開く。寝巻に体の線が浮かんだ。
「二日前までって……わたしが誘拐されてから二日ってことなの?」
「そう。お姉ちゃんは、あのヴィヴィアンって人に眠らされたまま監禁されてる」
「監禁? この部屋に……? ここは、わたしの聖杯の中でしょ?」
「現実世界で監禁されて、自我を聖杯の底に落とされているの。だから、こうして思い出〈あたし〉とはなすことができる」
部屋の外から環の声が届いた。
「急がな、ルーティがイドラ化してまうで!」
「……はなす時間、少なそうだね」
リアがさみしそうにぽつりとつぶやく。
「わたしがイドラ化って……?」
「現実世界で何が起こっているか、説明するね」
――ヴィヴィアンにさらわれたあと……
彼女の輝化武具、リアファルの能力「ボード」で、閉じた世界に監禁されたらしい。
ボードとは、現実世界をベースに、エリアを区切って閉じた世界を創造し、その世界を思い通りに飾りつけしたり、新しいルールを付与したりできる能力。
彼女は、その力で「那由多の討ち入り」の舞台と同じ武家屋敷と広い庭園を用意した。
そして、ルーティの身体は、庭園の片隅にある蔵に巣くう妖怪型イドラ・ジョロウグモの胎の中に閉じ込められており、万が一を考えて、さらに自我が聖杯の底に縛り付けられている。
そういう状況のようだ。
ヴィヴィアンが那由多に招待状を送り、ルーティを人質として、キャメロットをこの場に連れてくるように脅した二日後、集結した六名とマーリンは、罠があることを承知で踏み込んだ。
彼女たちを出迎えたヴィヴィアンは、ルーティを解放する条件を提示する。
それは、「百鬼夜行」と名付けられたライブに勝利することだった。
そのライブで行うのは、キャメロットと那由多が協力して、庭園に配置された多数のイドラを倒し、閉じ込められたルーティを解放する「鍵」を見つけ出すこと。
鍵は、群の中に潜むいずれかのイドラが持っており、そのすべてを消滅させて鍵を入手すれば、ルーティは解放され、キャメロットと那由多の合同チームの勝利となる。
しかし、イドラの群に押し切られて、合同チームの内一人でもイドラ化してしまった場合、もしくは鍵の入手に時間がかかり、ルーティがイドラの胎の中で完全にイドラ化してしまった場合、合同チームの敗北となる。
そして今、「百鬼夜行」は既にはじまっていた。どうやら二人ずつの三つのグループに分断され、盤面の上でイドラの群と向き合っているようだ。
人質を盾にして行動を強制し、確実に消耗させる。全員が疲弊したときに、新手のイドラに襲われればひとたまりもない。
ルーティの脳裏を黒糸縅の鎧武者がかすめた。嫌な想像に寒気を感じて、ぶるりと震える。
「みんなが心配?」リアが、伏し目がちにルーティに伝える。
「……うん」
「そうだよね。みんな、危険を承知でルーティを助けに来たんだもんね」
リアは瞳を閉じて、左手にアドミレーションを集束させ、それを差し出した。
「この手に触れて」ルーティの怪訝な顔を読み取ったのだろう。リアがつづける。「お姉ちゃんに外のことを、キャメロットと那由多のライブを見せてあげる」
ルーティはうなずいて、リアから差し出された手に右手を乗せる。
「ちょっと変わった視点だから気を付けてね」
「それって……?」リアの方へ意識が引っ張られる。初めての感覚に戸惑いつつも尋ねた。
「イドラの視点。これしかできないんだ。ごめんね」
その瞬間、すべてがホワイトアウトした。
意識が戻ったとき、ルーティは不思議な感覚を味わっていた。
真っ暗な場所で、どろどろの粘膜のようなものに全身を包まれている。そして、自分自身がそうされていることを他人のように認識している。そんな状態だった。
――これがイドラの胎の中……?
怖気立つ不快感とともに、膨大な感覚情報が濁流となって、怒涛の如く迫ってきた。
――うぅぅ――――っ!!
甲斐の聖杯で観た「那由多の討ち入り」。その舞台と同じ庭園が見える。
しかし、それは、およそ百八十度のひとり分の視界ではなかった。十数の視界が混ざり合い、物陰の先や自分の背後さえも見えている。
視覚だけじゃない。聴覚にも異常な感覚があった。いろんな場所の声や音が聞こえてくるが、それらがどこから聞こえてくるのか、その立体感がはっきり聞き取れる。
嗅覚と味覚も常軌を逸していた。その場に残された微かな匂いと味が、それらを発する存在がどこから来て、どこへ行ったのかを教えてくれる。
触覚に至っては、接触している対象の、どんなに小さな動きであっても感知できた。そのかすかな動きが、次の行動を雄弁に物語っている。
――気が、狂いそう……
五感の海に沈んでいく。海面へ顔を出そうとして必死にもがく。
(落ち着いて、お姉ちゃん。新しいコンクエストスキルを使ってみて)
聖杯から、リアの声が届いた。
彼女の言うとおりに、「オブザーブ」を発動する。
いったいどこで現象が発生するのかわからなかったが、発動に成功したという反応が聖杯に届く。その直後、おぼれかけた海は一滴も痕跡を残さず消えていた。
一息ついて立ち上がり、周囲を見渡す。そこは真っ白な世界だった。
目の前に六本の青い杭がある。尖った先を下にして浮かび、整然と並んでいる。
そして、接続された青い糸がピンと張っていた。糸はどこから来ているのか。それをたどってみたが、真っ白な空間の奥へ溶けこんで、ようとしてわからない。
(その杭が『鍵』)リアの声が、どこか遠くの方から聞こえてくる。(触れることで、それを隠し持つイドラの感覚とつながるよ)
固唾を呑みこむ。さっきの異常な感覚を思うと怯んでしまうが、みんなの無事を確認したい。
(キャメロットと那由多のみんなに会ってきて……)
さみしげにつぶやくリアの声を聞きながら、ルーティは一番右の杭をつかんだ。
杭に意識が吸い込まれる。すべての感覚が黒で塗りつぶされていく。
全身を、ザラザラとした感触が包む。不快なかゆみが背筋を伝う。
ルーティは直感した。
――五感が、書き換えられた。
意識が身体に閉じ込められる。それは、イドラだった。
自分が何者であるか、ルーティは自分の身体を「聞いて」、理解した。
分厚い筋肉におおわれた小柄な鬼だ。特に、その腕の筋肉は奇怪に見えるほど太い。
この姿は妖怪型イドラのヤナリ。目は光を映していない。その代わりに、発達した聴覚で視覚を補っている。目を引くほど大きな手で拍手をすると、特殊な音波が発生する。その反響を聞き分けてエコーロケーションを行い、周囲の状況や相手の姿、動きを捕捉するのだ。
我らヤナリ八体で、二人のアイドルを取り囲んだ。
その一人、ナタリーと呼ばれた少女が声を上げる。
「甲斐は、ここからフォローを!」
甲斐と呼ばれた少女を囲うように、ナタリーが障壁を生成する。アドミレーションの壁で八畳一間ほどの空間ができあがった。壁には縦横にスリットが入っている。さながら、弓射のための防御陣地だ。甲斐は短く「了解」と応える。
障壁の前に立つナタリーと、その奥で矢をつがえる甲斐。ヤナリは甲斐に向かって突撃した。
早速、風を切る音をさせて甲斐の矢が届く。腕を盾のようにして矢を防いだ。大きな衝撃だったが、異常発達した筋肉が食い止める。
甲斐を護る障壁に迫る。同胞たちもナタリーと近接格闘の間合いに入った。
ヤナリは両腕を振りかぶり、障壁へ突き立てた。
ギッ、ギギィィイイイイッ――――!!
鉄塊のような腕と障壁が擦れ合う。きしる音がけたたましく鳴り響く。その音が高く大きく頂点に達すると、障壁はガラス板のように割れ砕けた。
向こうでは、ヤナリたちが、同じ「音波による共鳴」でナタリーの手甲を砕いた。彼女は歯を食いしばりながら、つづく攻撃をなんとかかわす。
甲斐も、あわてることなく弓の輝化解除を行い、悠然と構える。
太い腕が彼女の身体に届く。そう思ったときにはすでに庭園の地べたに倒れ伏していた。甲斐の身体の動きを聞いて、合気道によるものだとわかった。
ヤナリはすかさず立ち上がり、甲斐と距離をとる。
ナタリーが甲斐の元に駆け寄り、背中合わせになって、取り囲むヤナリたちを順に睨む。二人の少女はそれぞれ逆の方向を向いたまま、言葉を交わす。
「ちょっとピンチか……もっ!」
ヤナリの張り手を、すんでのところでかわし、突きを入れたナタリーが弱気な言葉をはく。
「あなたの障壁、フェスのときも環さんに真っ二つにされてた。盾役がしっかりしてくれないと、ふっ! 後衛が困るの」
甲斐は今の言葉の間に殺到してきたヤナリの攻撃をいなして投げ飛ばした。
「なんか、僕に対して冷たい?」
「気のせい。だから、ルーティの心労が絶えないのかな、なんて思ってない」
ナタリーが失笑する。
「手厳しいな。でも、ありがとう。ルーティのこと好きになってくれたんだ」
「なっ!」甲斐の声が上ずる。「ひ、皮肉を言っただけよ」
「とてもしぶとそうなイドラだよね……倒せるかな」
ヤナリたちは一斉に両手を、バチン、と合わせた。
障壁を破った音波の性質を付与されたアドミレーションが両手にまとわりつく。
「もしかして、あきらめるなんて言ったりしないよね?」
「まさか!」
盾を砕く腕を振りかぶり、ヤナリは、ナタリーに躍りかかった。
堅い意思を宿したナタリーの顔が迫る――
プツン、と一瞬のブラックアウトが起こり、ヤナリの身体から意識が解放された。
気づくと、六本の杭が並ぶ、真っ白な世界へ引き戻されていた。
――誰か、サポートを……!
ルーティは、右から二番目の杭をつかんだ。
先ほどと同じザラザラが意識を包み込む。五感が書き換えられる。
次に閉じ込められたのは、妖怪型イドラのテノメだった。
のっぺらぼうのマネキンのような外見をしていて、左右の手のひらには、それぞれ一つの目玉が埋め込まれている。この瞳に映る多角的な視覚情報を処理して、個体同士で視覚を共有することができるのだ。
テノメは、自身と同じ姿のおよそ五十体のイドラの包囲をものともせず、目の前で舞いつづける二人のアイドルの驚異的なライブをつぶさに観測していた。
夜天から降り注ぐ月華が、紅い槍と蒼い刀を閃かせ、黒い影を討ちはらう。
二体のテノメが弾き飛ばされた。その穴を埋めるように別の個体が殺到する。
ふっ、と軽く息をはいて、紅い槍の少女が槍を突き出した。それと同じ勢いで槍を扱き、右脚が弧を描く。三方から襲い掛かってきたイドラを、ほぼ同時に突き飛ばした。
もう一人の少女の蒼い刀とテノメの強化された腕が火花を散らす。軽やかに刀をさばき、腕の力をいなす。体勢が崩れたイドラへ気合一閃。少女が刀を振り下ろした。胴体に刀傷が刻まれたテノメが群れの方へ転がっていく。
二人の舞のどこかにつけ入る隙はないか。そんなことを本能的に考えながら、テノメたちは、遠巻きに観察をつづける。
「クレアさん、きりが、ありませんね!」
「うん、そうだね……」
「早く、ルーティさんの元へ行かないと、いけないのに……」
「伊奈? それは……大丈夫なの?」
クレアの言う「それ」は、伊奈の刀や羽織が黒く染まっていることのようだ。彼女の視線がしっかりと指し示している。
「はい! 輝化防具がイドラ・アドミレーションを吸収しているだけで、問題ありません」
「それで、あのフェスみたいにハラキリを?」
「それだとイドラ化の危険があります」伊奈が、漆黒に染まった刀を身体の前に掲げる。「こういうときは……」
伊奈の左手が刀身を拭う。黒いアドミレーションが反りのない短刀に凝縮された。それを逆手で把持してすぐ、彼女は取り囲むイドラの群れへ向かって走り出した。
「伊奈!?」
クレアの驚きを置き去りにして、伊奈がこちらへやってきた。
テノメは右腕を硬化し、手刀を本物の刃に変えた。目玉がぎょろりと覗くそれを振り下ろす。
「ふっ!」伊奈は、右手一本で構えた刀で手刀を受け止める。「やっ!」
はじき返された。後ろに倒れそうなところをなんとか踏みとどまり、残った左腕を薙ぎ払う。
そこにあったはずの少女の顔が、ない。
左腕は、宙にたなびく空色の帯をかすめた。伊奈のポニーテールを結わえるハチマキだ。
「はっ!」
下方からの大音声。伊奈の黒い短刀が腹部に突き刺さった。突き飛ばされ、庭園に倒れる。短刀はテノメのつるりとした腹に、溶けるように吸収された。
クレアが伊奈に駆け寄る。
「ハラキリは、自分を対象にしなくても、いいの?」
「これは『短刀を形づくるアドミレーションを持つもの』の注意を『その短刀が刺された相手』に引きつける能力です! 対象を変えることで同士討ちを誘うこともできます」
テノメは起き上がった。腹部から未知のアドミレーションが侵入する。抗いがたい力で疑似聖杯が侵される。そして、この意識が留まる場所も埋め尽くした。
「これなら、何とかなりそう」
そう言ったクレアは、伊奈と互いに背後をかばい合うかたちで長槍を構える。
「はい! がんばりましょう!」
空色の刀を正眼に構える伊奈の元気な声を聞きながら、短刀を刺されたテノメは、同胞たちと向き合う。意識がはなれる瞬間に感じたのは、二人の少女と共に戦えることへの安堵だった。
――いくら白兵戦に長けた二人でも、あの数が相手では……
テノメの身体から意識が解放されると、三度、純白の世界に戻ってきた。
――リンと環さんは、どこに?
ルーティは、少し迷った末に、真ん中の二本の杭を両手で同時につかんだ。
五感の書き換えが行われた直後、針が突き刺さったような痛みを感じた。
思わず手を当てたのは、鼻だ。
しかし、大型犬ほどの大きさで、前脚が二本、後脚が四本あり、尻尾が二股に分かれた妖怪型イドラのライジュウにとっては、日常的で慣れた感覚だったことを思い出した。
この嗅覚でにおいの元や道筋を感知し、狩りの対象を捕捉。次にどう動くかを予測する。そして、この脚で宙を蹴り、雷のような速さで迫って、鋭い爪で獲物を切り裂くのだ。
この庭園に配置された四体の同族は、柑橘系の香りを振りまく少女と向き合っていた。この意識を内蔵したライジュウが、その匂いの元へ飛び込む。
「くっ!」
咄嗟にバックステップして、突撃をかわした少女は、その勢いのまま跳躍した。足と腰の防具からアドミレーションの羽を生やし、宙に滞空して投げ槍を構える。
「リン、止まったらあかん!!」
少し離れた場所でテノメに囲まれている少し大人の女性の声。彼女の匂いは金木犀だ。甘い果実の香りと、その奥にのぞく木の香りに親しみを感じた。
グルルゥッ!
金木犀の彼女の言葉を肯定するように、ライジュウは、頭上のリンに向かってうなった。
他の三体が一斉に、四本の後脚で宙を蹴る。三つの黒い雷が閃いた。
リンは、咄嗟にアドミレーションの羽でその身を包む。しかし、三方からの爪の一閃が橙色の羽を切り裂き、彼女の鎧を傷つける。
「ぐっ! うぅ……っ!」
リンが庭園に墜落する。追い打ちするように、黒い雷が彼女に降り注ぐ。
「リンっ!」
打掛が翻る。月光を怪しく反射し、濡れるように輝いていた。
その仕立ての良い生地には刺繍が施されている。触れてみれば、さらりとした生地と精緻な意匠の組み合わせが極上の肌触りを伝えてくれるはずだ。
打掛をまとった女性は環と呼ばれていた。彼女がリンの方へ駆ける。しかし、八体のテノメが阻んだ。通常の個体よりも屈強な体つきの強化型の個体だ。
リンは雷に刺し貫かれる前に、すんでのところで退避できたようだ。しかし――
「……連携させへんつもりか」
彼女の言葉に応えるように、テノメたちが奇声を上げ、躍りかかる。
ギギャァアァッ!
中段に構えていた環が一歩退いた。黒い拳が空を切る。無防備な姿勢をさらしたイドラを薙刀で貫いた。疑似聖杯が体外に露出し、砕け散る。
「なめられたもんやね……こんなん、足止めにもならへんわ」
次々と襲い掛かってくるイドラの波状攻撃を優美な脚さばきでかわし、上段に構えた薙刀を振り下ろす。脳天を痛打されたテノメがよろめくと、今度は袈裟懸けに切り伏せた。刃の痕から、真っ二つになった疑似聖杯が浮かび上がり、黒い身体が崩れる。
気配を消して、焦らずじっと静かに、環が隙を現わすタイミングを見計る。
その時がやってきた。環が、薙刀を右に大きく振り抜いた。
彼女の背後に黒い粒子が急速に凝集し、イドラの姿を形づくる。ライジュウからこの個体に意識が転移していたことにようやく気づいた。
妖怪型イドラのカマイタチは、のっぺらぼうの顔に、マネキンというよりは大きめのフィギュアとも言える小さな人間の上半身で、それを渦巻く黒い粒子が支えて宙を泳いでいる。
とても貧弱な姿だが、一つだけ例外があった。それは右手だ。手のひらや指の代わりに、身体の二倍以上の長さを誇る大きな鎌を備えている。
カマイタチは右腕を振りかぶると、環にめがけてその巨大な鎌を振り下ろした。
声にならない呻きを聞きながら、アイドルを切り刻む。あの愉悦の時間がもうすぐ訪れる。しかし、鎌の軌道をさえぎるものが現れた。雲の壁だ。
ギシィッ――!
黒白のアドミレーションの火花が飛び散る。白い壁の形が変わり、雲の左手となった。指で刃を挟んで押し返してくる。
カマイタチは、負けじとさらに黒い粒子を鎌に注ぎ込む。アドミレーション密度が高まり、均衡が崩れた。その瞬間、目の前の光景に黒い線が描かれる。
雲の左手を真っ二つにし、その向こうにいたテノメの胴も断っていた。しかし、肝心のアイドルを断ち切った感触はない。
「はっ!」
鎌が描いた線の下側。そこに、身をかがめた環がいた。彼女が気合とともに薙刀を突き上げる。三日月の先っぽのように鋭い白刃が、カマイタチの身体に突き刺さる。
キシシ、キシシシ――
カマイタチの声が漏れた。環がくやしげに唇を歪ませたからだ。薙刀は小柄な腹を貫いていたが、それはただの空洞だった。咄嗟に腹の部分を黒の粒子に戻したのだ。
再び身体のすべてを黒い霧に戻して、周囲の空間に溶け込む。
「へぇ、こういうのもおるんやね。ちゃんと対策しとかんと――」
残り五体のテノメが再び環に襲いかかった。
環は、長さ二メートルの薙刀で優美な半円を描きながら、三体のテノメを次々と切り伏せた。しかし、不意打ちを警戒してなのだろうか、先ほどの美しい舞には及ばない。左手を胸にあてたりして無駄な動きが多かった。
カマイタチは、意識だけでほくそ笑みながら、周囲に漂う自身の一部である黒い粒子を最後の二体となったテノメに付着させた。浸透した粒子がイドラの触覚を刺激する。
突如、二体の黒いマネキンが異常なほど機敏な動きをはじめた。
人形遊びのように二体のイドラを操り、捨て駒として環の身体に組み付かせた。
「なっ!? くっ……放せ!」
動きを封じられ、もがき、焦る環の前に、カマイタチが姿を現わす。
キシシシ……
上等な打掛を断ち、きめ細かな肌を裂き、聖杯を砕く。その甘美な瞬間を思うと、笑いが止まらない。期待を込めて右腕を振りかぶった。
ふとした違和感に腕の先を見やる。
鎌が、消えていた。手首にあたる部分で、すっぱりと切断され、地面に落ちている。
「あらあら、ご自慢の雄々しいもん、落ちてしもたねぇ」
二体のイドラの拘束から、するりと抜け出した環が薙刀を中段に構える。
何が起きたのかがわからないカマイタチは再び黒い粒子に戻ろうとしたが、失敗した。身体を分解することができない。
「種明かしといこか」
環は片手間に二体のテノメを斬り伏せて、つづけた。
「朧雲をこのステージ全体に展開してたんよ。あんたが姿を現すとき、自然と朧雲の粒子を取り込むようにな。思たとおり、あんたの身体に、うちの『あらゆるアドミレーションの作用を減衰させる』粒子が入り込んで、あんたの自在に姿を消す力を無効化できた。そして――」
環が左手を掲げた。その手のひらには、きらきら、ちかちかと輝く粒子が渦巻いている。
「あんたの鎌を断ち切ったんは、これや。朧雲を、聖杯で錬成して作り上げた『玉雪』。アドミレーションの減衰作用を極大化させた、うちの秘密のちから」
カマイタチは体内の浄化を試みる。しかし、混入した異物を排除することはできなかった。
環は、薙刀に玉雪の粒子をまとわせて振りかぶる。打掛の裾が艶やかに翻る。
「ほな、さよならや」
高速振動する粒子が身体を引き裂く。一度、二度、三度。体内の疑似聖杯ごと切り刻まれる。最初で最後。今わの際に味わえる極上の快楽がやってきた。
あまりの快楽に気を失う寸前。この意識は、カマイタチの身体から離脱した。
「はっ!」
地を踏みしめて、リンが槍を投擲する。その槍に追随して周囲に浮かぶ四本の槍も射出された。しかし、雷の速度で駆けまわるライジュウにとっては、その弾幕をかいくぐるのは造作もないことだった。そのままリンに向かって突っ込んでいく。
「くっ! ……っもう!! 当たらないっ!」
苛立つような声を上げて、彼女が地面を蹴った。スキルを発動して高速移動をはじめる。
グルゥッ!
匂いを追跡して先読みし、他の三体へ向けて意思を伝える。
リンの向かう先でライジュウの爪が彼女の鎧をえぐる。違う方向からもう一度。新たに、二本の傷が増えた。三度目をかろうじて回避した彼女は、地を蹴ってその場から離脱する。
リンのよろめく姿を目の当たりにして、追い込むのも時間の問題だと確信したとき、周辺に霧が立ち込めてきた。やがて、視界からリンが消失する。
しかし、ライジュウは視界を必要としていない。
彼女の匂いの元は、頭上。霧に覆われているその場所に、同胞の一体が飛び込んだ。
バチィッ!
期待した音ではなかった。さらに詳しく匂いを探ろうとしたとき、リンが姿を現した。
白い粒子で形成された大きな左手と、その左手に爪を喰い込ませて、橙色の槍で身体を貫かれたライジュウと共に地に降り立つ。
そして、その隣にもう一人。金木犀の香りを振りまくアイドルが現れる。
「待たせてしもたな」
「はぁっ、はぁ……たいへん、でしたっ……」
「残り三体。みんな待ってる。はよ合流や」
「はいっ!」
環が左手を掲げる。そこかしこで霧が小さな渦を巻き、白い粒子が凝縮して球状になった。ライジュウたちを取り囲むように、その白い球が宙に浮いている。
あの宙に浮かぶ球が何なのかを悟った。触れればただでは済まない攻撃用のアドミレーションだ。行動を制限されてしまった。
グルゥゥッ……!
低く小さくうなり、自分の意思と決意を乗せた匂いを放つ。
他の二体は迷うそぶりも見せず、六本ある脚をたわめて飛び出す準備を行う。自身も同じように、力を示す最後の機会をじっと見極める。
「さぁ、決着つけよか!」
環の言葉を引き金にして、ライジュウたちは一斉に地を蹴った。雲の球を的確に避けることができる唯一のルートをたどり、それを待ち構えるリンと環に向かって――
この道しか進めないのなら、渾身の力を込めて一矢報いる。
決死の黒い雷が環の薙刀で斬り伏せられ、リンの投げ槍に撃ち落とされる。
そして、彼女たちが見せる一瞬の隙を待っていた最後の一体が、はるか上空から本物の雷のごとく、柑橘系の匂いの元へ向かって、自らを投げうつ。
「リン! 上やっ!」
環の叫びで、リンが頭上の脅威にようやく気づいた。しかし、もう遅い。そう確信した瞬間、ライジュウは、信じられないものを見た。
リンの身体が、橙色のアドミレーションとなり、ゆらりと形が崩れて、ライジュウの落下地点から飛び退く姿だ。
何もない地面に突き刺さったこの身に向けて、リンが投げ槍を突き出す。
高速移動するライジュウの視点と体感速度を考慮すれば、アドミレーションとなったリンは雷に匹敵する速さで動いていたことになるだろう。
なぜ、そんなことが。それを思考する間もなく、ライジュウの身体は灰となり、崩れ落ちた。
「これは……ルーティさんのっ!」この意識が、リンの声を聞いた。
彼女は、ライジュウの灰から杭を拾い上げる。
杭が青い輝きを放つ。輝きがルーティの嗅覚を満たす。
ふと漂ってきたのはベルガモット。爽やかで甘くて、ほんの少しだけ苦みを感じる。リンの大好きな香りだ。
リンの想いが、杭を伝ってルーティの聖杯にとどく。
――ルーティさん。今、そちらに行きますよっ!
五感が元に戻ったとき、そこは、あの純白の世界だった。
目の前に並んだ杭に変化があった。右から三番目の杭が消失している。おそらく、さきほどリンが拾い上げたからだろう。
――リンと環さんがサポートに入れば、他のみんなも!
ルーティは、ナタリーたちの無事を願って、左から二番目の杭をつかんだ。
残る五体のヤナリが、二人のアイドルを取り囲んでいる。
ナタリーと甲斐は、紙一重の攻防をつづけていた。
黄色の肩当が、音波をまとった拳で弾け飛んだ。ナタリーは、それを犠牲にしてヤナリの懐に飛び込み、強烈な突きをたたき込む。
甲斐は、黒い拳に触れないようにして、丸太のような二の腕に組み付き、ヤナリを投げ飛ばす。しかし、音波による衝撃の余波が彼女の上衣の袖を削り取った。
「ようやく三体撃破」
破れおちた袖の生地が、臙脂の輝きに戻るのを眺めながら、甲斐がつぶやく。
「もう、疲れちゃった? 僕は、まだまだいけるよ」
ナタリーが拳を握りしめてうそぶいた。
「そういう意味じゃない。このままじゃ、ルーティが手遅れになるってこと」
バチバチィッ――! 突然、橙色の閃光が降り注いだ。
炸裂するアドミレーションをまとった四本の投げ槍が、二体のヤナリを貫く。
「援護しますっ!」
頭上に、リンが滞空していた。あそこなら、ヤナリの音波は影響しないだろう。
「一気に決めよう!」
ナタリーが声を上げ、飛び出した。
「了解」
甲斐の応答とともに、リンが上空からヤナリをさらに一体狙撃する。
ナタリーが、ヤナリにインファイトを仕掛けた。巨大な拳が黒い巨漢を塵に変える。
輝化武具を現した甲斐が、弓射の姿勢を整える。
最後のヤナリが彼女に向かって一歩踏み出した。弦に手をかける。のしのしと意外な速さでイドラが迫る。弓を引き分ける。黒くて大きな腕を振りかぶった。拳に音波が圧縮される。
矢が放たれる前に、この拳がとどく。ヤナリは勝利を確信した。
しかし、臙脂の矢が、胸の中の疑似聖杯を射抜いていた。
いつのまに射たのか、と驚くこともできなかった。ヤナリは地に倒れ、灰となって崩れた。
拳で粉砕したヤナリの灰に杭が埋もれていた。ナタリーが大切そうに拾い上げる。
杭から、まばゆい輝きが放たれた。ルーティの聴覚を満たす。
「僕は、ルーティといっしょにいたいんだよ」
ナタリーの凛々しくて優しい声音と、あのとき伝えてくれた言葉が鼓膜を揺らす。彼女がすぐそばにいるような気がして、心があったかくなった。
ナタリーの想いが、杭を伝ってルーティの聖杯にとどく。
――ルーティ、必ず助けるよ。
残り一体となったテノメが、まるでやけを起こしたかのようにクレアに襲い掛かった。それを難なく紅い槍が突き倒す。
どさり、と倒れたテノメが灰となり、その中から青色の杭が転がり出た。
バイザーを上げて、クレアが杭を拾い上げた。優しくつよく握りしめる。
青のアドミレーションが視覚を満たす。
クレアが、まっすぐこちらを見つめている。
前髪で隠れがちの紅い瞳が、強い決意を揺らめかせる。こちらが照れてしまうくらいの凛々しい顔だ。彼女のこんな表情は初めて見た。
クレアの想いが、杭を伝ってルーティの聖杯にとどく。
――ルーティさん、無事でいてください。
「あらら、もう終わってたんやね。助太刀しよ思てたんやけど」
環が合流したとき、クレアと伊奈は、それぞれ槍と鞘を地に突き立て、寄りかかるようにして肩で息をしていた。
「ごくろうさんやったなぁ。ふたりとも、ようがんばったわ。えらいえらい」
環が、突然クレアを抱きしめた。
「えぇっ!? わっ私、汗くさい、ですから……」
「かまへん、かまへん。ええなぁ。抱き心地、最高やわ。鎧ごしなんが、ちぃと残念やけど」
「た、環さん!」
「拗ねんでもええんやで、伊奈。あんたは次やし、ちぃと待っててな」
「そういう意味じゃありません! こんなときにこんなところで、おさわりはダメですよ!」
伊奈が、困り顔で環をたしなめる。
「まぁまぁ、ええやんか。これもアイドル同士の交流や」
「もう!」伊奈のポニーテールが微かな風で揺れた。
「……はぁ」環の声音が変わる。「大事なスキンシップの時間、邪魔する子は、おしおきや」
伊奈の背後にカマイタチ現れた。左腕の長大な鎌を、彼女の首に静かに振り下ろす。しかし、またしてもそれは届かなかった。
巨大な雲の左手が、大鎌ごとカマイタチを捕獲していたからだ。
白い指の隙間から、黒い小人がもがいているのがわかる。霧となって離脱しようとしているのだろう。しかし、手の中の檻からは逃れられないようだ。
雲の五指に力が込められる。やがて、カマイタチを捕らえた左手全体がきらきら、ちかちかとまばゆく輝きだす。アドミレーションの減衰作用を極大化した玉雪だ。
ギィアアッ! アアァアッ――!
粒子が高速振動して、触れているイドラを生きながらに削りかすに変えていく。
キィィィッ! というけたたましい振動音が、イドラの悲鳴をかき消す。指の隙間が狭まり、やがて雲の左手の中が静かになった。
イドラの灰がさらさらと流れ落ちる。雲の手の中に杭が残されていた。
杭から青のアドミレーションがあふれ出す。触覚が満たされた。
あの温泉旅館の脱衣所で、髪を梳いてもらったときの感触がよみがえる。思わず吐息が漏れ出てしまうほどの心地よさが、この意識をかけめぐる。
環の想いが、杭を伝ってルーティの聖杯にとどく。
――あともうちょいや。待っててな、ルーティ。
庭園の向こうから、ナタリー、リン、甲斐の三人が走ってきた。甲斐が口をひらく。
「みんな、無事?」
クレア、環、伊奈の三人は、戦闘態勢を解く。環が応えた。
「問題あらへん」環が左手に持った杭を見せる。「たった今、これ手に入れたとこや」
「こちらも」ナタリーも杭を見せる。「二本あります」
「はいっ」リンが元気よく声を上げて、杭を掲げる。
「クレアさんのも合わせて四本。あと二本ですね! どこにあるんでしょうか……」
そう言いながら、伊奈が周囲を見回す。他の五人もぐるりと庭園を見回し、イドラ・アドミレーションの気配を探査する。
そんな六人のアイドルたちを俯瞰して見ていた。
ライジュウが消滅したあと、次に宿ったイドラの身体を認識できなかったため、この意識が個を自覚することがなかった。しかし、今初めて認識できた。
これまでに憑依してきたイドラの中でも、この個体が一番奇妙だった。
このイドラは「味」を視て、聞いているのだ。
六つの味が一か所に集まっている。
黄、赤、橙、空色、臙脂色、白。それぞれのアドミレーションの味が一瞬ごとに変化する。そのわずかなゆらぎが、視覚や聴覚などに置き換わって認識しているようだ。
六つの味が会話をする。クレアが言った。
「ルーティさんを救う鍵は、イドラが持っているはずです」
今度は、甲斐が声を上げる。
「手分けして探しましょう」
散開されたら面倒だった。どの味も個性的で極上のはず。それらすべてが混ざり合えば、至高の快楽をもたらしてくれるのではないか。そんな期待がこの意識を急かし、突き動かす。
六つの味を一度に楽しむには、このタイミングしかない。
ヤナリがいたステージ、ライジュウがいたステージ、そしてここ、テノメがいたステージ。三つの区画全体に引き伸ばし、張り巡らせていた自身の身体をこの場所に引き戻す。もっと静かに行いたかったが、仕方がない。地面が鳴動する。ナタリーが反応した。
「地震っ!? この感覚は……っ?」
「イドラ・アドミレーション!」環が周囲を機敏に見回す。「足元や!」
可能な限り迅速に口を開く。
庭園に大きな穴が空く。集まっていたアイドル六人が、その穴に落ちる。無事に六つの味を一度にほおばることができた。
妖怪型イドラのアカナメが姿を現す。
手足のない巨大な不定形のイドラは、さっそく六つのアドミレーションの咀嚼を始めた。
黄色のアドミレーションでできた硬いものがある。アカナメは口内の感覚に集中した。
ナタリーが二枚の防御壁を展開している。カーペットのように敷いた足元の一枚、そして両手で支えるようにした頭上の一枚。それぞれが口内の粘膜から分泌される消化液を防いでいる。
黄色の壁が少しずつ溶けだしてきた。完熟した南国の果実を思わせる蜜の甘さだ。
これはこれで良いのだが、なんとももどかしい。消化液を濃くして、咀嚼をつづけても、黄色の飴はなかなか溶けてくれない。
「みなさん、少し離れてくださいっ!」
伊奈の大きな声とリンの元気な声が重なる。空色と橙の輝きが口内をまばゆく照らす。
空色が鞘に納められた、と思いきや、すぐに鋭い輝きとともに解き放たれる。
アカナメの身体が、内側からざっくりと大きく裂ける。そこから、次々とアイドルたちが脱出する。最後に、振り抜いた刀を鞘に納めた伊奈が口内から飛び出し、元気よく告げる。
「全員、脱出しました!」
「了解ですっ」
伊奈に負けない溌溂とした声を上げ、膨大なアドミレーションを身に帯びたリンがこちらを向く。右手に、橙色に輝く巨大な投げ槍を掲げていた。
「いっけぇっ!!」
かけ声とともにリンが圧倒的な光の奔流を放った。
槍の突端が裂け目を突く。口内に侵入した橙色の輝きは、一瞬にして粘膜を焦がし、アカナメを内部から焼き尽くす。
不定形の身体を貫いた橙色の槍は、そのままの勢いで背後にあった武家屋敷に突き刺さり、この身体と同じように壁や屋根を貫き、吹き飛ばした。
アカナメは、身体がさらさらとした灰に変わっていくさまを味わった。消えゆく味覚が感じたのは、イドラの灰の不快な苦さ。
この意識が飛び立つとき、ふと、これが後悔の味なのかもしれないと思った。
伊奈が、アカナメの遺灰の中に、きらりと光るものを見つけた。
「ありました! ルーティさんの杭です!」
拾い上げると、これまでと同じく、青の輝きが味覚を満たす。
囲炉裏で味わったおしるこの優しい甘さと、門前町で体験した抹茶の爽やかな苦みがよみがえる。どちらも伊奈が用意してくれたものだ。本当に美味しかった。
伊奈の想いが、杭を伝ってルーティの聖杯にとどく。
――ルーティさん、絶対に間に合わせてみせます!
ルーティの意識が、純白の世界に帰還する。
目の前に並んだ杭は、残り一本。その他の五本は、すべてルーティの聖杯に戻っている。
――みんな、ありがとう。でも、最後まで気を付けて……
ルーティは、最後の一本をつかみ、ナタリーたちの元へ意識を放った。
瓦礫と化した武家屋敷の向こう側に、六人のアイドルがいる。その内の一人、橙色の投げ槍を放った小柄な少女がこちらを視認した。
「巨大なイドラがいますっ!」
疑似聖杯が高揚する。力を示すことができる充実感にこの身を浸して、イドラ・アドミレーションを発揮した。大きな獣の身体が黒雲に包まれる。
漆黒の雲が次から次へと生まれ、庭園の上空を覆いつくし、さらには地面にまで下りてきた。この空間が、濃密なイドラ・アドミレーションで満たされた。
刀を構えた少女が声を上げる。
「こちらに向かってきます!」
黒雲に紛れ、ヒョォォッ、と鳴き声を上げて、アイドルたちの方へ向かっていく。
「ものすごい、イドラ・アドミレーション……」
そう言った少女の紅い槍の穂先は、あの瓦礫の方を向いていた。彼女だけじゃない。六人のアイドル全員が、何もいない空間に向かって構えている。何度見ても滑稽な姿だった。
背後から音もなく前脚の爪を振り上げて、無防備な彼女たちを奇襲する。
打掛に身を包んだ女性が、びくっ、と背中を震わせて、突然後ろを振り向き、叫んだ。
「後ろからや! ナタリー!」
あの白い雲のコンクエストスキルのおかげだろうか。しかし、この黒雲の中で正常に機能することはない。あの程度の探知能力では彼女たちの全滅は時間の問題だ。
急ごしらえの黄色の障壁に前脚の爪が突き刺さる。ぐぐっ、と力を込めると障壁にひびが広がった。ナタリーと呼ばれた少女が言った。
「みんな、離れて!」
他の五人のアイドルが飛び退き、すかさず雲の左手が、ナタリーをつかんで退避させる。支える者がいなくなった障壁はあっけなく砕け散った。
猿の頭、猪の胴、虎の脚、蛇の尾。イドラは自身の姿をさらす。
「あれは、私たちの国で伝承される合成生物〈キメラ〉。神話型イドラのヌエです」
甲斐と呼ばれた少女の言葉に応えて、ヌエはニタリと口角を上げる。
ひと際甲高い声で、ヒョォォッ、と鳴くと、再び黒雲をまとって周囲の闇に溶けていった。
【登場人物紹介】
■アヴァロン・プロダクション
〈キャメロット〉
ルーティ・ブルーム
[青色/杖/魔法使い/ランク3rd]
十八歳。主人公。情報処理能力を高めて、戦術を立案する。
リン・トライスト
[橙色/投げ槍/遊撃手/ランク2nd]
十六歳。高速移動して、舞台を縦横無尽に駆ける。
ナタリー・セレネス
[黄色/手甲/盾役/ランク3rd]
十八歳。障壁を展開して、ユニット全体の防御を担う。
クレア・アトロン
[深紅色/長槍/白兵戦担当/ランク2nd]
十七歳。高い回避能力を駆使した白兵戦が得意。
■ISCI(国際対イドラ現象機関)
〈那由多〉
小松 伊奈
[空色/刀/侍/ランク2nd]
十七歳。相手の意識を引き付けて、ヘイト操作を行う。
成田 甲斐
[臙脂色/和弓/長弓兵/ランク2nd]
十八歳。遠距離攻撃を絡めとり、自身の攻撃手段に変える。
細川 環
[白色/薙刀/行動阻害役/ランク4th]
二十二歳。汎用性に富んだ粒子を操り、舞台を掌握する。




