プロローグ 「籠の中の思い出」
足を止めて、涙をぬぐう。
見上げた空は澄みわたっていた。少しだけ、気持ちが落ち着く。
道の先に、アヴニール教会が見えた。
不安と悲しみに追いつかれないように、ルーティは再び駆け出した。
教会の奥にある霊園。
静謐な空気。建ちならぶ石碑。ここには、たくさんの人が眠っている。
――怖がる子もいるけど、わたしは、ここが好き。
柵で囲まれた敷地の中に入ると、そこは緑にあふれていた。
暖かい陽がふりそそぎ、柔らかな風が草花と木々の枝をゆらす。涼やかな葉ずれの音が、心を洗いながしてくれる。
ここには、両親はもちろん親戚の誰一人も眠っていない。二年前、真っ黒な怪物に呑みこまれてしまったからだ。それでも、児童養護施設「ブルーム寮」を抜け出してここに来てしまうのは、広い霊園の中央にある、この女神像と会うためだった。
彼女は、豊かな髪をなびかせ、ローブをまとい、両腕で何かを抱きかかえるような姿勢で台座の上に立っている。瞳を閉じ、唇の両端を少し上げた微笑みを浮かべ、身寄りのない人たちが埋葬された区画を見守っている。
女神像の裏側に回り込み、台座に背をあずけてうずくまる。
寂しさや恐怖に襲われたとき、それらが過ぎ去るまで見守ってもらうのだ。
黒く蠢く怪物がまた脳裏に浮かぶ。かき消そうと頭を振ってみるが、いなくならない。怖くて不安で寂しくて、涙が溢れてくる。こんなところを施設の職員に見られたら心配されるし、他の子に見られたら馬鹿にされてしまう。
「誰か、いるんですか?」
幼い声が耳に届く。驚いて声の方を確認する。寮で共に暮らす、同い年のリアがいた。
「ルーティ?」前髪を留めるヘアピン。そこに付いた葉っぱのチャームをゆらしながら矢継ぎ早に尋ねてくる。「泣いてたの? 何かあった?」
ルーティは立ち上がり、顔を伏せて涙をふく。
「……泣いて、ないよ」
リアの顔を覗く。彼女は、何かに気づいたように目を細めうなずいた。
「安心して、誰にも言わないよ」
突然、彼女に抱きしめられた。ふわりと優しく頭も撫でられる。目の奥から涙が溢れてきた。
「何があったの?」
リアが再び尋ねる。ルーティは肩をふるわせて応えた。
「いっしょに、遊んでた、ユウが、お母さんのところに、泊まるって……」
「そうだね。一時外泊するって言ってた」
「楽しそうにしてるユウが、うらやましくて……行ってしまって、さびしくて……」
「ひとりは、さびしいね」
「そしたら……わたしのお母さんとお父さんが、いなくなったときを思い出して……」
「そっか。怖かったね」
「でも……ここに来ると安心するの。女神様に包み込まれているような気がするから」
「こんなふうに?」
少しきつく抱きしめられる。心臓の音がかすかに聞こえる。
「そう、かも」
リアの身体の温かさにまどろんでいると、彼女が急に抱擁を解いた。そして、今度は両手でルーティの右手を祈るように包む。
「じゃあ、さ……あたしたち家族にならない?」
「家族……?」
「そう! それならもう寂しくないし、怖くならないと思う」
まだ思考が追い付かないけど、すごくドキドキしてきた。
「家族って……そんなのでいいのかな……変じゃないかな?」
「ぜんぜん変じゃないよ。家族になれるよ」
「じゃあ、わたしがリアのお母さんとお父さんの子どもになるの?」
「違うよ。あたしの両親は……いるけど、いないんだ」ほんの一瞬だけ、リアの顔から微笑みがなくなる。「だから、あたしとルーティだけのふたり家族」
彼女の顔が曇ってしまうのは嫌だった。
「リアは本当にそれでいいの?」
「もちろん。ルーティのお誕生日はあたしより早いよね? だからルーティがお姉ちゃん」
姉という聞き慣れない言葉に戸惑ってしまう。しかし、嫌な気はしないし、そうなれたらうれしいと思った。ルーティがうなずく。
「リアがいいなら……家族に、なりたい」
「本当? うれしいっ!」リアがその場でぴょんぴょんと跳ねる。握っていたルーティの右手を引いて、まぶしいくらいの笑顔で言った。
「じゃあ、お姉ちゃん! いっしょに帰ろ?」
「うん」
ルーティはリアと手をつなぎ直す。
「お姉ちゃん、顔が真っ赤だよ」
リアにそう言われて、さらに顔が火照ってきた。しかし、そんな恥ずかしさは少しも気にならない。この手の温かさを、それと同じ心の温度を、再び失ってしまうことに比べれば。
放したくない。閉じ込めていたい。
それが、ルーティの願いだった。




