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 隅田川の船上、そして麻布の吹き溜まりで交わされたどろりとした毒のような談合など知る由も無く、天竜堂の日常は変わらなかった。阿波屋治兵衛による昨日までの騒乱を嘘のように洗い流したような、清々しい朝の光が差し込んでいた。

 凌庵は早々に目が覚め、井筒屋万蔵の容態を気遣いつつ、薬研を回して生薬を挽いていた。ゴリゴリという一定のリズムが、彼の昂ぶった神経を鎮めていく。しかし、その耳の奥には、昨日丈太郎が吐き散らした「しま」という呻きと、阿波屋治兵衛の冷徹な笑い声が、澱のように沈んでいた。

 そして、丈太郎の狂気によって重傷を負った井筒屋万蔵の様態を思うと、とても酒を飲む気にはならず、簡単に夕餉を済ませると直ぐに布団を被った。だが、殆ど一睡も出来ずに薬研を操り薬草を調合しながらも、凌庵はウトウトとしていた。

 「おはようございます。」

 玄関から彩乃の声がする。

 「ああ・・・、おはよう。」

 「まあ先生、随分と眠そうですねえ。」

 「ちょいと、眠れなくてなぁ・・・。」

 「あら、お酒も召し上がらなかったんですか?珍しい・・・。」

 弄らずそのままの徳利を見て、目を丸くする彩乃。酒好きの凌庵にしては珍しい事だ。出来るだけの事はした。後は運命にゆだねるのみ。医学を志したころからそんな事は解っていたのだが、出来るのならば志半ばで死ぬ者が無くなって欲しいと願ってやまない。兄より、清く正しい物が凶刃によって命の灯が吹き消されようとしている事を考えると、一気に気が重くなる。

 「体を壊さないでくださいよ?」

 「ああ、大丈夫だ。」

 お仕着せの袖を捲り上げながら、甲斐々々しく掃除を始める。彼女の明るさが、今の凌庵にとっては唯一の救いだった。

 「眠いのでしたら、少しお休みになります?大抵の患者なら、私一人でも。」

 「構わぬ、今日の診察を始めようか。」

 ゴリゴリと珈琲豆を挽き、珈琲を飲み眠気を覚まそうとしていた。門が開くと、待っていたかのように町人たちがなだれ込んでくる。

 「先生、昨日の一大事、聞いたよ! 井筒屋の旦那を助けたんだってな!」

 「さっすが凌庵先生だぁ!」

 「頼りにしてるぜ!八丁堀のお助け大明神様!!」

 「煽てずとも診てやるから、座れ。」

 黙って患者を座らせて診察を始める。凌庵は微笑みを返しつつ、一人一人の脈をとり、舌の色を診て、丁寧に言葉をかけていく。

 「おばあさん、この前の咳止めは効いたかな? 胸の音は悪くない。だが、無理は禁物だ。」

 「あい、ありがとうございます。」

 「大工の熊さん、その足の傷、焼酎で清めてからこの膏薬を塗りな。少し沁みるが、腐らせるよりはマシだ。」

 「へーい、ありがとうございやす。」

 世間話半分、患者へのアドバイスを半分、何時も通りの診察。普段と変わらぬ凌庵の様子に、彩乃も一安心した様だった。

 この天竜堂での診察は医者にとっての「日常」であり「戦場」でもある。一人一人の命と向き合うこの時間が、彼を「高柳凌庵」という人間に繋ぎ止めていた。だが、そんな日常の合間に、ふらりと現れたのは、馴染みの「薬売りの弥太郎」―御庭番の梶野弥一郎であった。

 「毎度ぉ~、富山の薬売りでございます。今日はお勧めの『反魂丹』が新しく入っております。」

 「よぅ弥太さんかい、見せてもらおうか。」

 「へえ、お邪魔いたします。」

 「彩乃殿、珈琲でも淹れてやってくれ。」

 「はーい。」

 「先生のお陰さんで、珈琲好きになりやしたよ。」

 彩乃が珈琲を淹れに台所へ消えて行ったのを横目で確認し、一瞬の隙を突き、慣れた手つきで奥の間に荷を降ろした。そして剽軽な表情が瞬時に消え、御庭番の鋭い眼光へと変わった。

 「若、昨夜・・・麻布の山本屋仙之助と桔梗屋角右衛門の談合を盗み聞きました。」

 「そうか、聞かせてくれ。」

 弥一郎の声は、衣擦れの音よりも小さく、それでいて凌庵の耳に鋭く届いた。

 「奴らは、この天竜堂を『疫病の発生源』として封鎖しようとしています。南町の黒沢左門が裏で手を引いている。そして、奴らが最も恐れているのは・・・佐葦の露や夢一芝居を流行らせた思惑が露見する事・・・。」

 弥太郎が言う思惑、凌庵には予測が付いたようで口から出た。

 「水野忠邦の失脚か・・・。」

 弥太郎は黙って、うんとうなづいた。

 今や水野忠邦は、右腕として側用人の堀親寚(ほりちかしげ)、腹心に南町奉行の鳥居耀蔵や暦学者の渋川福堂(しぶかわふくどう)、金座および銀座を束ねる後藤庄右衛門(ごとうしょうえもん)と言った俗に言う「水野三羽烏」を初め、異母弟の跡部良弼を勘定奉行に据えるなど己の派閥で幕閣を固めた。今や大老でさえ、今の水野忠邦の権勢には太刀打ち出来ない。それゆえに水野は強引な改革を強行。他の幕臣を退く事も辞さない。他の幕臣はそれを敵視し、忠邦の失脚を虎視眈々と狙っているのだ。

 「人を人とも思わぬ改革によって悪しき商売が産まれ、悪しき嗜好品が産まれ、それによって人死にが出た。それを追求し、足元を掬うつもりなのだろう。上ばかり見ている人間は足元が留守になるものだ・・・。」

 「誠に・・・。それから若・・・、これはある筋から聞き入れた情報なのですが・・・。」

 「何だ?」

 仙之助、角右衛門のねぐらで聞いた、唐土国に伝わる新薬作成の秘宝について弥太郎が話始める。

 「人を腑分けする事に生きがいを感じる狂医」

 その狂医が作る新薬。その話の筋を聞いた凌庵の背筋を、氷のような悪寒が走った。医術を命を救うための術ではなく、命を弄び、贅を極めるための「部品」に変える。それは、凌庵が最も許し難い冒涜であった。

 「それは誠なのか?」

 現実にそんな暴挙が行われているとは信じられなかった。

 「角右衛門が申していました、誠の話でございます。その新薬制作の裏には、老中の本多様が贔屓にしている御典医の影がございます。」

 「誰だ?」

 「それは、聞き出せませんでした。あちら側も、大分警戒しており・・・。」

 「致し方ない・・・・。弥一郎、すまないが、これ以上は『薬売り』の仕事じゃない。楓と鬼岩に、京極一派の強行を調べてくれ。手出しはするな。・・・俺の方は、新さんたちを動かす。」

 「畏まりましてございます。」

 あらかた話し終えると、彩乃が茶を持って来た。更に乗った厚切りの羊羹と、茶が運ばれて来た。

 「茶にしたのか?」

 「ええ、折角の良い羊羹ですからお茶がよろしいかと。」

 「賢明だ。」

 「では、御馳走になりやす。」

 化け狸顔負けの変わり身で、御庭番の梶野弥一郎は薬売りの弥太郎に変った。弥太郎が玄関の端で寛いでいても、患者は待たない。彩乃も患者も、先程まで凌庵と弥太郎との間に聞かれてはならないやり取りが行われていた事。幕閣・・・、江戸市中の中でまた新たな陰謀が産まれようとしている事等、微塵も知る由も無かった。


 患者の治療を終えた凌庵は鶴亀屋の離れで、新太郎と仁吉を待っていた。月は雲に隠れ、街灯代わりの提灯の火も、湿った夜風に頼りなく揺れていた。

 御役目が忙しいのか、新太郎らは訪れない。凌庵は一人、窓を開けて隅田川の川風を感じながらまどろんでいた。傍らに置いた煙草盆から煙管を手に取り、一服燻らす。立ち上る紫煙の向こう側、川辺の道を歩く人々の足取りはどこか急ぎ足で闇夜の中に吸い込まれていく。普段と変わらぬ光景のはずだが、凌庵の胸には解剖学的に説明のつかない奇妙な胸騒ぎが去来していた。

 暫く一人で寛いでいると、おえんが代わりの酒と料理を運んで来た。

 「兄ちゃん、まだ来ないみたいだねぇ。」

 「彼奴らも忙しいからな。仁吉も立派な若親分になった。事件が立て込めば、飯を食う間もないだろう」

 「全然、まだまだだよあの子は。甘やかしちゃ駄目よ、付け上がるから。」

 「厳しいなおえんちゃんは、今に腐っちまうぞ?」

 「大丈夫大丈夫、そんなヤワな男じゃないようちの弟は。」

 ニッコリと笑いながら弟を上げたり下げたりするおえん、昔から変わっていない。この変わらぬ様子を見ていると、何だか気が休まって来る。並べられた好物を肴に、おえんが注ぐ酒を飲んでいると、襖の向こうで何やら気配がした。仁吉か新太郎かとも一瞬思ったが、感じる気配はそうでは無かった。潮の香りと土埃の中に、微かに混じる「鉄」の匂い。そして、訓練された者だけが発する、周囲の空気を凝固させるような鋭い殺気。 凌庵の指先が、無意識に刀掛けに置いた大刀に目が行った。

 「おえんさん、何食わぬ顔で奥の間へ引っ込め。」

 「え?客かえ?」

 「客は客でも、招かれざる客だ・・・・。」

 何時にない凌庵の真剣な目付きに、これ以上おえんは詮索しなかった。おえんは事の重大さを察し、顔を強張らせて足早に立ち去った。

 凌庵はその場で座り、手酌で酒を飲んでいるとガラリと襖があき二人の男が入って来た。一人は体躯の良い浪人者、もう一人は細身で太鼓持ちに扮しているが、鋭い眼光の男。浪人の方は岩永又右衛門、太鼓持ちの姿の方が疾風の久蔵であるらしい。

 「俺たちを前にしても物怖じせぬとは、いい度胸だ。……死を悟って腰が抜けたか?」

 又右衛門が、自身の長刀を鞘の中でわずかに鳴らす。

 「この世の名残酒か? 最後の晩餐にしては、ちと寂しい品書きだったな」

 久蔵もまた、懐に忍ばせた匕首の感触を確かめながら、ねっとりとした笑みを浮かべた。

 二人の嘲笑に対し、凌庵は盃を静かに置き、冷徹な医者の目線で二人を見返した。

 「わざわざ二人でお出ましとは、御足労を掛けたな。だが、俺を診るには、お前さんたちの腕では少し不足しているようだ。無駄足にならぬと良いがな。」

 「生き延びるつもりか? 面白え。その傲慢な舌ごと、喉笛を掻き切ってやるよ」

 その時、階下から「先生っ!」という新太郎たちの声が微かに響いた。凌庵は瞬時に判断する。こ こで戦えば、鶴亀屋は血の海になり、おえんや他の客に危害が及ぶ。

 「そんなにこの首が欲しけりゃくれてやる・・・ついてきな!!」

 凌庵は徐に窓を蹴破るようにして開けた。驚愕する久蔵が匕首に手を掛け、又右衛門が抜刀しようとした刹那・・・、「先生っ!」と言う声が聞こえたかと思うと、凌庵は迷わず夜の隅田川へと身を躍らせた。

 窓の真下、川面に待機していた小舟へと吸い込まれるように飛び乗る。

 「野郎っ!!」

 久蔵が窓から身を乗り出した時には、船はすでに竿一本分、届かない場所へと滑り出していた。二人は舌打ちし、玄関先へと駆け戻る。階段を飛び降り、裏手の船着き場へと息を切らして辿り着くと、そこにはすでに船を下り、月明かりを背にして悠然と立つ凌庵の姿があった。

 「ここだ・・・逃げも隠れもしねえよ。ただ、騒がしいのは嫌いでね」

 「・・・小癪な奴め。船を使って時間を稼いだつもりか」

 又右衛門が大刀を抜き放つ。研ぎ澄まされた刃が、月光を浴びて青白く光る。

 「オメエさん達、余程俺の首が欲しいようだな。阿波屋の黄金は、それほどまでに人を狂わせるか。」

 「これも商いなのでな。恨むなら、自分の運命を恨むことだ」

 凌庵は、腰に差した長曾祢虎徹の柄に、静かに、しかし確実な力を込めた。

 「成程・・・。歌之丞を殺したのはオメエか?いや、三島屋のおはつさんや甚助さんを殺したのもお前の仕業だな?」

 久蔵の眉がピクリと動く。どうやら図星らしい。

 「・・・そんな事を聞いてどうする? 知りたくば、自分であの世に行って本人たちに聞きな。奴らも寂しがっているだろうぜ。」

 「オメエら、俺を一介の医者だと高をくくっている様だが・・・油断は帰って死を招くぜ?」

 「歯向かうか!医者の細腕で何ができる!挑んでみよ、細切れにしてやる!」

 そう言い終わるや、久蔵が袖の中に隠し持った馬針を投げつけるが、凌庵はそれを交わして見せた。

すぐさま又右衛門が咆哮と共に踏み込んだ。一文字に振り抜かれる大刀。風を切る音が、鼓膜を劈く。

 「見切った!」

 凌庵の虎徹が鞘から走り、火花を散らして大刀を弾き上げる。

 「なっ・・・!?」

 衝撃に目を見開く又右衛門、この音はただ物ではないと驚愕していた。凌庵は刀の返りを利用し、その切先を最短距離で久蔵の喉元へ突き出した。

 「うおっ!」

 久蔵が紙一重で身を捻り、匕首を凌庵の脇腹へと突き刺そうとする。だが、凌庵の動きには一切の無駄がなかった。肘を僅かに畳み、匕首の軌道を虎徹の鍔で受け流すと瞬時に刃を返し、そのまま久蔵の腕の関節を打撃の要領で強打した。

 久蔵の腕が痺れ、匕首が地面に落ちる。

 「どけ久蔵!」

 再び又右衛門が、上段からの唐竹割りを放つ。その斬撃を足を引くように避けると、凌庵は虎徹を下段に構え深く息を吐いた。

 息を切らせて、ギリギリと切っ先を向ける又右衛門。

 「意識は時として技を鈍らせる。怒りで脈が乱れ、力みで筋肉が強張っている。これでは人はおろか、竹一本切れぬぞ。」

 「黙れ青二才がぁ!」

 血走った眼で凌庵を睨み、力任せに斬り込んでくる又右衛門。どうやらこの男には、何を言っても聞かぬ様だ。

 「そなたの人斬り病・・・、斬らねばならぬらしいな。」

 又右衛門の大刀が下りてくるその刹那、凌庵は体を沈め、刀身の腹を使って大刀をいなしながら、懐へと潜り込んだ。そしてすれ違いざまに、右腕の筋を斬った。二の腕の付け根―大動脈が通る急所。

 「うがあああああ!」

 鮮血が夜の空気中に舞う。又右衛門の腕から、鮮血が夜の空気中に舞う。又右衛門は長刀を落とし、傷口を押さえて呻いた。

 「おのれ、医者が人を斬るか!」

 久蔵が反対側の手で隠し持っていた礫を放つ。凌庵はそれを見向きもせず、飛んできた礫を刀身で叩き落とした。

 「俺は蘭医だ、病巣は斬る。オメエにとっての病巣は人斬りの病、当分人斬り包丁が握れねえ様に斬った。」

 転がった又右衛門の刀を拾い上げ、久蔵は荒っぽい構え方で凌庵に切っ先を向けた。

 「ここで引いちゃあ、疾風の久蔵の名が廃る・・・。」

 「だあああ!!」と力任せに斬り込んでくる所に、まるで獲物を捕らえた青大将の如く縄が巻き付いた。その縄を投げた主は、船頭の吉兵衛だ。昔取った杵柄、あらゆる忍びの術に長けた吉兵衛の秘技だ。右手には絵の短い手槍が握られている。

 「お、オメエは!?」

 「俺をご存じかぇ?大したものだ。」

 「吉さん、殺してはならぬぞ。」

 「合点っ!」

 芽にも止まらぬ技で縄を引き寄せると、久蔵はその場に突っ伏し右手からは大刀が取り上げられていた。暫くの間、周囲を取り囲んでいた民衆は、下手に介入して巻き込まれては叶わぬと、石像のように固まり息を潜めていた。しかし、凌庵の放った一撃が又右衛門の肩を裂き、鮮血が夜の闇に飛び散った瞬間、堰を切ったように一人が叫んだ。

 「斬り合いだぁ!」

 「人殺しだぁ! 誰か、役人衆を呼んでくれ!」

 その悲鳴が夜気を震わせ、静まり返っていた河原は一転して喧騒の渦へと叩き落とされた。野次馬たちが逃げ惑い、転倒する者や悲鳴を上げる女たちの声が重なり合う中、ようやく駆け付けて来たのが仁吉と新太郎であった。二人は肩で息を切らし、額には玉のような汗を浮かべ、ただ事ではない現場の惨状をその目に焼き付けた。

 「何だ何だ!? 穏やかじゃねえな!」

 「兄貴、大丈夫か! 無事か!?」

 新太郎の怒号と仁吉の悲痛な叫びが、隅田川の濁った流れをつんざくように響き渡る。流石に殺しの玄人として、いくつもの修羅場を潜り抜けてきた疾風の久蔵や岩永又右衛門も、公儀の役人と十手の登場には泡を食った。獲物を仕留める前に「公」の力が介入したことは、彼らにとって想定外であり、最悪の誤算であった。

 「ちっ、潮時だ! 骨の折れる仕事は御免だ、引くぞ又右衛門!」

 久蔵が鋭く合図を送り、身を翻して闇の奥へと消えようとする。しかし、そこは血気盛んな若き役人と、意地をかけた十手持ちである。逃げ道を塞ぐ動きに一切の迷いは無い。

 「待ちやがれ! お天道様が許しても、この新太郎の眼は誤魔化せねえ!」

 「江戸の街で好き勝手させねえよ、逃がすかよ!」

 深手を負い、右腕をだらりと下げた又右衛門は、往生際悪く無傷である左手で脇差を抜き放ち、狂ったように振り回して新太郎を威嚇した。片腕となってもその太刀筋には鬼気迫るものがあり、捨て身の気迫が空気を切り裂く。しかし、新太郎は冷静に間合いを測ると、一瞬の隙―又右衛門の重心が揺らいだ瞬間を突き、峰打ちでその左腕を的確に叩き折った。鈍い骨折音と共に脇差が地に落ち、又右衛門は獣のような呻き声を上げて膝から崩れ落ちた。

 一方、身軽さを活かして堤防を飛び越えようとした久蔵の背後には、仁吉が肉薄していた。久蔵が懐の暗器に手をかけようとした瞬間、仁吉の十手が唸りを上げてその側頭部を捉えた。

 「ぐえっ・・・・!」

 短い呻きと共に、久蔵は地面に転がり、泥水を啜りながら組み伏せられた。仁吉はすぐさま膝で相手の背中を押し付け、有無を言わさぬ速さで捕縛の縄を回した。見事な連携による捕縛劇であった。

凌庵は乱れた呼吸を整えながら、虎徹の刀身に付着した脂を拭い、静かに鞘に収めた。その視線は、捕らえられた刺客たちを、あたかも治療不能の患部を見つめる外科医のように、冷ややかに見下ろしている。

 「二人共、随分と遅かったな。待ちくたびれて、川風で風邪を引くところだったぞ」

 冗談めかして言う凌庵だったが、その瞳の奥にはまだ抜き身の刀のような鋭い光が残っていた。新太郎は捕らえた又右衛門を縄で縛り上げ、その拘束を確認してから、困惑と憤りが入り混じった表情で問い返した。

 「兄貴、一体何があったんだ? 鶴亀屋で穏やかに飲んでいるはずが、どうしてこんな物騒な奴らと・・・。こいつら、只の浪人じゃねえぞ」

 「見ての通りだ。阿波屋一派が本格的に俺を『排除』しにかかってきた。それにしても、お前たちが来るのが遅すぎた。何かあったのか?」

 仁吉が悔しそうに顔を歪め、地面に唾を吐いた。その手には、力みすぎたあまりに白くなった十手が握られている。黒沢左門と、闕所奉行の柴田監物、そして評定所の連中がねじ込んできやがった。闕所は御上が下した決定、木っ端役人がそれに口を出すのかとな。」

 「北町の行き過ぎた調べが目に余る、これからの調べは南町が請け負う故吟味書を渡せとな。まあ、神山様が突っぱねたみてえだがな。」

 新太郎も苦虫を噛み潰したような顔で頷いた。

 「奉行所の内側から情報が漏れたんだ。相手は老中と固く結びついた大目付。評定所を動かすのも簡単だ。新太郎さんに何かなくてよかったよ。」

 凌庵は黒々とうねる夜の隅田川を見つめた。南町奉行所や評定所という権力そのものが敵に回り、刺客を放ち援軍を遮断する。司法の正義がこれほどまでに汚染され、闇に加担している現状。凌庵は静かに、しかし激しく燃え上がる怒りを感じた。

 「・・・連れて行け。ただし、南町の連中には決して渡すな。このまま北町の平蔵さんのところへ直行するんだ。奴らに隙を見せれば、牢内で口を封じられかねないからな。」

 捕縛された久蔵と又右衛門の背後で、隅田川の波音が不気味に響いていた。嵐の前の静けさは終わり、ついに権力の心臓部を狙う戦いが、避けられぬ段階へと突入したのである。

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