四
淡々と述べる凌雲の考えに、まず最初に反応したのはオランダ医学を修めた宗哲だった。その表情は、まさに鳩が豆鉄砲を食ったような驚きに満ちた顔だった。
「凌雲殿、もしもそれが事実ならば由々しき事態だぞ?」
宗哲は桐の箱からビードロ制のグラスを取り出し、そこに舶来物の葡萄酒を注ぐ。御役目中に酒を食らう。本来ならばとんでもない話だが、ここではそう珍しくはない様だ。養生所は無償の診療所、貧困層向けの診療所と言えば聞こえはいい。だがその実、素行の悪い貧乏人の吹き溜まりでもあった。快方に向かった患者がサイコロや花札を持ち込んでちっぽけな賭場を開帳したり、見舞いの者に禁じられている嗜好品を持ち込ませたり、中には医者が患者に酒や煙草を売りつけて小銭を稼ぐ者が現れる等、とても治安は 良いとは言えなかった。養生所には二人の与力の下に十人の同心が置かれ、彼らが差配している。しかし、 役人の存在は合ってない様な物と言っていいだろう。
注がれた葡萄酒を一口啜ると、肴として出したチーズを楊枝に差して食べる。いい心持になれるはずだが、話の内容のせいでちっとも酔えない。
凌雲は重い口調で、話を続けた。
「直接見た故に間違いない、俺も我が目を疑ったよ。」
「薬で眠らせて、五臓六腑を切り取ったか、それとも殺した後で切り取ったのか?」
「銀簪を用いて薬品が用いられているか調べたが、薬品の反応は見られなかった。他に外傷があるか見てみたのだが、そう言うたぐいのものは見られない。」
「じゃあ、生きたまま開腹が行われたと言うのか?」
「そう言う事になる。」
「本来腑分けや外科治療は麻酔薬を用いる者、それを生きたまま人を切り刻むなど、正気の沙汰ではない。それだけでも信じられぬと言うのに、生きたまま腑分けだと。そんな気違い野郎がいるのか・・・。」
外科治療をよく知る宗哲は凄惨な事件を起こした犯人に驚愕し、同時に怒りを覚えている様だった。
「一体誰が何の為に、名立たる先人たちの働きのお陰で無用な腑分けは必要ないはず。」
「それは流石に俺でも解らぬ。快楽なのか、それとも他に何か思惑があるのか・・・。いずれにしても、鬼の所業だ。」
「そうだな・・・・。」
生きたままで五臓六腑を切り取る、鬼か魑魅魍魎の成せる所業が江戸で巻き起こったと言う事実に宗哲も言葉が出ない様だった。
何よりも愕然としているのは、泰然自身だった。
「祝言はもう少し、幸せな暮らしを送っただろうに・・・。儂も久しぶりの仲人の大役、張り切って準備をしていた所へこの一件。やり切れぬよ。」
「泰然先生の心中、お察し申し上げます。」
悔しそうな面持ちで、泰然も目の前の葡萄酒を煽り飲む。理由はだいぶずれている様だが、今回の事件に関し腸が煮えくり返る思いであるらしい。
酒交じりの生暖かい息をはぁと吐き、泰然は言葉を発する。
「養生所内でも、噂程度だが広まっていたよ。何を絵空事をと思ったが、事実とはな。」
「御役人衆も、驚きを隠せない様でした。」
「怪しからぬ、近頃の奴は何かと理由を付け簡単に人を殺める。命を軽んじる者のなんと多い事か・・・。」
いい具合に酒が回り、次から次へと怒りの言葉を発する泰然。腕を組み、眉間に皺を寄せるその姿。医者として、一人の人間として、凌雲たち同様に人の命を弄ぶものの存在に憤慨している様だった。
「しかし凌雲殿、許しちゃ置けねえなあ。こんな事をしやがった奴。」
「ああ、俺とて許せぬ。人を生かすべき医学を術を悪事に悪用する者がいるなど。」
「黙ってられねえな。」
凌雲の顔は三人の中で最も怒りに満ちていた。実際に死骸に対面し、その凄惨な姿を目の当たりにしているからだ。芸者として苦労を重ね、ようやく人並みの幸せを掴みかけた所で、惨たらしく嬲り殺された。叶うならば、自らの手で相手を仕置したいと言う思いさえ込み上げてくる。宗哲もまた、同じ考えの様だ。
しかし凌雲は、思わず取り乱しそうな感情を律して言った。
「いや、俺の役目は死骸を備に調べる事。後は町方の仕事だ。俺の様な物が下手に出しゃばれば、要らざる騒動を生む。」
その言葉に、「確かにな」と宗哲も頷いた。皆まで言わなくても、宗哲には凌雲が何を懸念しているのかが解っていた。
その懸念が、宗哲の口から言葉になって出た。
「凌雲殿、今は北町の月番だったな?」
「ああ、其れだけが救いだ。だが油断は出来ん、目だった事をすれば南町の連中がどっと押し寄せてくる。」
「お前さんが懸念しているのは、其れだけじゃあるまいよ。」
「ああ、この一件に外科医師が絡んでいるのではと言う疑念だ。その噂を聞きつければ、妖怪奉行は黙っていまい。」
「今の南町奉行所は町の治安よりも、奢侈禁制を唱える改革に反する者の摘発、それにオランダ医学を修めた蘭方医、蘭学者の監視けん制に躍起になっているからな。俺だって、小さく縮こまって仕事をしている有様よ。」
「検死に向かった時、早速南町のゲジ伝が嫌味を言いに来た。」
やはり彼奴か来たかと、宗哲は鼻で笑って呆れた。
「ゲジ伝か、あの男に月番は関係ないな。」
「神田川でも邪魔をされたよ。今回も邪魔をされるかと思ったが、途中で介入した御典医様のお陰で助かった。」
「御典医?」
「柴山悦堂と言う御典医だ。」
「ああ、名前だけは聞いている。」
「儂も知っておるよ。技量人品ともに優れた医者らしくてな、老中の阿久津長門守様の推挙で御典医に任命されたとか。」
「老中のお気に入りとは、相当な御方だな。」
奥医師は大概世襲制が多かったが、柴山悦堂の様に幕府閣僚の推挙を得て外部から迎えられて奥医師になると言う事例もあった。過去に若林敬順と日向陶庵が将軍の急病に伴い町医者の身から奥医師になった事例がある。余程人品技量共に優れていなければ、こうした話は舞込まない。悦堂が優れた医者であると言うのは、間違いない様だ。
「流石のゲジゲジも、大物にはプチンと潰されたか。」
泰然も伝助同心をよく思っていない。普段偉そうにしている悪徳同心が、権力者の前でへこへこする滑稽な様が浮かんだと見えて高らかに笑った。
「村垣の旦那があれだけ平伏すると言う事は、悦堂先生とは余程はぶりのいい医者なのだな。」
「そうともよ、悦堂先生は今幕閣の御歴々からも期待されているのだ。」
「如何なる事で?」
悦堂と言う医者に興味が湧き、凌雲が更に宗哲に聞く。
「永命丸だ。」
「永命丸?」
名前からして薬、丸薬の類の様だが凌雲は聞いた事が無かった。
「新たな丸薬だ。まあ俺も、この間出入りの薬屋から聞いたのだがな。」
「新たな丸薬か・・・。」
「何でも覿面らしいぞ、一粒で悪くなった場所に効果が表れる様だ。大名旗本のお内儀や、大奥のお偉方からも欲しいと言う声があるそうだ。」
大奥に大名の親族と、大物の名前がずらりと並んだ。だが、凌雲は直ぐに信じる気にはなれなかった。近頃大物の名を無断で失敬し、売り文句に利用する紛い物の丸薬が増えているのも事実だからだ。
「何だか眉唾に思えるが、もう巷に広がっているのか?」
「いいや、まだ金持ち止まりだ。どうやら新しい薬を試す事が出来るのは、金持ちが最初らしいな。凡人が買って使用していると言う話は、まだ聞いた事がない。」
「最初に試す事が出来るのはやはり金持ちか。製法は効いたことが無いか?」
凌雲がそう聞くと、今度は泰然の方が答えた。
「知っていればとっくに儂が作っておるよ。養生所見回りにもそれとなく聞いておるのだが、何も情報が入って来ぬ。一子相伝、門外不出と言う訳でも無かろうにな。」
「早々に真似をされては困ると、悦堂先生は御考えなのでしょう。」
「どうであろうか。」
「兎に角、噂を聞きつけた江戸庶民が完成を待ち望んでいるのは事実だ。養生所に通う与作爺さんなんかは、いちいち養生所に来るのは億劫だ、医者に掛からず治る薬があるのなら全財産は炊いても惜しくないと言っておった。」
「そいつは危険だ、簡単な丸薬であればいいが、成れない薬を飲んでは逆効果だ。薬屋ないし、我々医者の意見を聞かねば。」
そう言う凌雲の言葉が終わらぬうちに、勢いよく襖が開けられた。其処に立っていたのは白い作務衣を身に纏った女医。スラリとしながらも魅力的な体つき、美人画にしても可笑しくない様な美貌、薄汚い養生所には不釣り合いな女。
この養生所の女医、本道医の藤川美沙だ。
「泰然先生、宗哲先生も何時まで話しているんです!?」
「おお、美沙殿。凌雲殿が来ていてな。」
美沙は怪訝な目付きで、凌雲の方をギッと睨むように見る。
「美沙殿、立派に働いている様だな。玄瑞先生は達者か?」
「凌雲先生、来ていたのですか?貴方が来ると、いつもお酒が始まってしまいますね。」
「そいつは悪かったな。」
「全く、博打をしたり酒を持ち込んだり、無法街も良い所ですわ。」
気さくに声を掛ける凌雲だが、美沙の怪訝な態度は変わらない。「昔はもう少し可愛げがあったのだが・・・。」と、小さく溜め息を付く。
「相も変わらず、死骸を弄って回っている様ですね。」
「弄っているなどと、俺は子供では無いぞ。」
美沙は凌雲の恩師である藤川玄瑞の娘だ。幕府御典医、時に老中の駕籠さえも譲らせかねないと言う大物を父に持つ令嬢。本来ならば同業の家、望めば旗本等の名の在る家の妻にもなりえる身だ。だが本人はそれを良しとせず、親の反対を押し切ってこの小石川養生所に意思として押し掛けてきた次第だ。
無論凌雲の事も良く知っており、小さい頃はよく懐いていた。だが物心がつき、二十を超えるなり考え方の違いか反発する事が多くなった。
「天下の藤川家の御令嬢、良く働いてくれとるよ。それにこの様な器量良し、患者からの評判も良くてのう。」
「その様な紹介は控えてくださいまし、私は卑しき遊女では御座いませぬ。」
ニコニコと紹介する泰然を、凛としてけん制する美沙。上役であり師匠である泰然を前にしてもこの態度、さぞや患者たちは戦々恐々としている事だろう。
「ところで宗哲先生、先程永命丸がどうとか仰っていたようですが。」
「ああ、凌雲先生が永命丸造りで有名な柴山悦堂先生とあったと申してな。」
「悦堂先生と・・・。」
「美沙殿も知っていたか。」
「ええ、余計な事をなさるお医者様と。」
「余計な事とな。」
新薬を作り出そうとする医者の活動を余計な事と言い放つ美沙、何故にとこちらが聞かぬうちに美沙が理由を答える。
「永命丸は永遠に医者いらずと言うのが売り文句、これが気に入りませぬ。その様な薬、
眉唾に決まっています。」
「ほお、眉唾と。」
「近頃多いじゃありませぬか、飲むだけで体の不調が治るだなんて歯の浮く様な売り文句の薬が。日本橋の河内屋などは、最初は無償で差し上げます薬を差し上げその後は銭を取り、取ってからも聞かなければ金を返すと言葉巧みに客を信じ込ませてインチキ臭い薬を売っているとか。永命丸もその類です。」
凌雲がにわかに抱いた疑心を、美沙が一言一句違わず言う。その美沙に対し、偏見は止せと宗哲が言う。
「だが、現に覿面に聞いたと言う声もあるぞ?」
しかし、養生所における上役である宗哲に対しても美沙は一歩も引かない。
「高価な物を買っただけで、治った気になったのでは?」
「美沙殿、そう決めつけては。」
「いいえ、そうに決まっております。」
ぴしゃりと言い放つ美沙。美沙は医者、人一倍この仕事に誇りを持っているのだ。それだけに、医者を蔑ろにするような事は許せないのだ。今回の様な「医者いらず」を謳い文句にしている薬が現れると途端に機嫌が悪くなり、憤慨するのだ。
「美沙殿のお怒りも御もっともだが、世のため人の為に新たな薬を生み出そうとしているのも事実だ。一見しただけだが、悦堂先生は中々の人物の様だ。」
「であろうな、出なければ御典医に推挙されるわけがない。儂も医者達の噂に関しては早耳の方じゃが、悪い噂は一向に聞こえて来ぬよ。」
良くも悪くも、同業の間は同業者の間にすぐに伝わる者。聞こえてこないと言う事は、悦堂は好人物と見て間違いないのだろう。そうした好人物が手掛ける新薬ならば、自身も政策に携わりたい、敵わぬまでもせめてお目に掛りたい。
凌雲の胸中は、その居ても立っても居られぬ気持ちで一杯だった。
「凌雲殿、お前さんとしてはお目に掛りたいと思っているのではないか?」
「解るか?」
「お前さんの考えてることは、手に取る様に解るさ。」
宗哲は養生所における先輩医師と言うだけではなく、同じ外科を専門とする者として気が合う友人だ。それだけに、一風変わった凌雲の心情も宗哲には理解できる様だ。
「それ程に世のため人の為に役に立つ妙薬なら、手に取ってみてみたい。それは医者の性ではないか?」
「そうだな、俺も養生所の医者として見てみたい気もする。医者の手が多ければ多いほど、その薬は多くつくられ、多くの患者に出回る。そう考えているのだろう。」
「御明察、手にした者の話聞かせてくれぬか?」
「そうだなあ。最近の話では、紺屋町の太物問屋、海老屋市兵衛が手に入れたと自慢していたな。」
「海老屋、あの海老市か。大店だな。随分と羽振りのいい商人だと、竹島町の百間長屋にまで噂が聞こえてくる。」
「話が聞けるかどうか解からぬが、行ってみて損は無いはずだぞ。」
「太物に用はないが、行ってみる価値はありそうだ。」
永命丸について思いを馳せていると、あからさまにイラついた様子の美沙が痺れを切らせた様に声を荒げた。
「皆さん、何時までくだらない話に花を咲かせているのです!患者が待っていますよ!?」
「おお、そうじゃったな。では行くとしようか。」
少しばかり酒を煽ったが、泰然は酔った様子は無かった。しかし、美沙にはお見通しである様だ。
「泰然先生、長屋を回る際は水を飲んで酒を抜いてください。酔っ払いに診察されては、治る患者も治りま せぬ。其れから宗哲先生、綺麗な患者を前にしても妙な気は起こさぬよう。奥方様に叱られますよ。」
「はいはい。」
「解っておる解っておる。」
「返事は一度で充分です。」
泰然も宗哲も、痛い所を付かれて押し黙る。全く、これではどっちがこの養生所の主だか解らぬ。動作で 「済まぬ」と言って薬煎所を出て行った泰然と宗哲。
その様子を見ながらくすくすと笑っていると、美沙はギロリと睨みつけて言い放つ。
「凌雲先生。確かにあなたは父が特に目を掛けた弟子、私にとっても兄のような存在かもしれませぬが、 この養生所では関係ありません。私はここの医師ですが、言わばあなたはよそ者なのです。あまり調子に乗って、養生所の存在を危ぶむような真似はしないでくださいまし。」
「解ったよ、用事も終わった故に失礼する。もし手が足りぬと言うのなら、俺も診察に当たるが如何かな?」
「お気遣い無用です、我々のみで充分診察は出来ます。凌雲殿はどうぞ、物言わぬ患者の相手をなさってくださいませ。」
嫌味たっぷりに冷たく言い放つと、美沙は薬煎所を後にした。美沙と自分とは根本から考え方が違う様だ。ああ言う相手には、下手に言い返すのは逆効果だ。ここは一つ、後ろに一歩引いておくことにした。
「あの性格のきつさ、後々苦労せねば良いがな。」
医は仁術を重んじた玄瑞と美沙は似ても似つかぬ性分、今後の事を考えると先が思いやられるが、今は宗哲より聞いた永命丸と言う薬についてだ。海老屋市兵衛方に行けば、何かが解ると足早に薬煎所を出た。門前の役人に声を掛けると、凌雲は徐に門の外の周りを見渡す。実は養生所に差し掛かった辺りから、何者かにつけられている気がしていたのだ。
「如何致した?」
「いいや、何でもない。邪魔をしたな。」
役人に会釈をし、このまま紺屋町の伊豆屋に向かおうかとも思った。徐に懐中時計を見ると刻限は未の刻(十四時)になっていた。
「いかんなあ、患者が来ているかもしれぬ。」
紺屋町ならばそう遠くはない、患者を診察してその後で訪れた方が良いだろう。謎の気配に時々気を張りながら、凌雲は竹島町へと向かった。




