一日の恋
2
*
「サユキはさ、もしここでワタシと話していなかったら、恋したいって思ってたかな?」
次の日も、私は夢の中でナナシちゃんと話します。夢の世界にやってきた私に、彼女はまずそう問いかけました。
「多分、思ってなかったと思うよ。意味を知りたかっただけで、自分は別にしたいとも思わなかったから」
正直言うと、今も別にしたいと心の底から思っているわけではありません。
「でもさ。恋、って本当に何であるんだろうね?」
ぽつりと私は呟きます。ナナシちゃんなら、最適解を道いてくれそう。
「サユキは、どう思う?」
「前も言ったけど、子孫を残すためのプロセスの一つだよね……。でも、それだけじゃない気もするんだよね……」
ふーん、とナナシちゃんは声を漏らします。
「別にね、生きていくうえでさ、恋は必要ないと思うんだよね。恋愛しなくても死ぬわけじゃないし、私の周りにも、恋人はいないけど楽しそうにしている人は一杯いるし。どうして恋したい、って思うのかな?」
ナナシちゃんはそれ以上、何も答えようとはしませんでした。姿は見えませんが、きっと唇を固く結び、何かを必死にこらえているのでしょう。僅かに、歯軋りするような声が聞こえたような気がします。
「……やっぱり、そこは価値観の違いだと思う。サユキみたいな人もいれば、そうじゃない人もいる。世界が一つの価値観から成り立っているわけじゃない以上、それは仕方ないことだよ」
しばらく間を置き、か弱い声で、彼女は言います。
「それは分かってる。でも、もっと……普遍的な? そういった答え、何かないかな?」
「……やっぱり、それはサユキが直に経験しないと分かんないよ。恋する理由なんて人それぞれなんだからさ……」
やや、呆れも交じっているように思えました。少し申し訳なくなって、私は「ごめん」と謝ってしまいます。
「とりあえず、次の土曜日。昨日ワタシが言ったように、近所の公園に行ってみて。多分、その時に、答えが導き出せると思うよ」
*
そして休日。私はナナシちゃんに言われた通りに、約束の場所へ向かいました。服装は普段と何ら変わらない。誰に見られても、何とも思われないような、普通の女の子の服装。……いえ、普通じゃないですよね。かなりダサいと思います。
一人で公園へとやってきて、私は手持無沙汰に、中を歩き回っていました。大した広さはなく、敷地の半分ぐらいは大きな木の影になっていて、そこは私の膝ぐらいの高さまで草が茂っていました。遊具も、風雨にさらされて至る所が茶色になっているブランコと、これまた同様になっている、滑り台があるぐらい。このブランコは、こぐと、きーこきーこと、泣くような声を出します。
しばらく何も起こらなかったので、私はそのブランコに腰かけ、きーこきーこと一人でそれを鳴らしていました。何となく、前の夢の、彼女の悲しそうな声を思い出します。謝ったとはいえ、申し訳ないことをしたな……と思っていると、こちらに向かってくる一人の少年の姿がありました。
「あ、サユキー。ごめんごめん、待った?」
彼は私と目が合うと、軽やかに笑いながら、こちらへ小走りで向かってきます。え、誰? と初めは思いましたが、その輪郭と声を感じるうちに、徐々に、記憶がよみがえってきました。
「え、サトシ!?」
少し大人びた……ってほどではありませんが、最後に見た時とは、やっぱりどこか違う印象を受けます。
彼は、私の小学校時代の唯一の異性の友人です。それまでずっと、「ほぼ一人」の状態で過ごしていた私に、僅かな時間でしたが潤いを与えてくれた。そういう、大切な存在の一人です。彼は、小学校卒業と同時に地元の私立中学へと進学し、それっきり出会うことはおろか、連絡すらも取っていませんでした。
「どうしたの? サトシは何でここに?」
私は驚き半分、嬉しさ半分で問いかけると、彼は実に不思議そうな顔をしました。
「何で、って……前から約束してたじゃん。今日は二人で遊ぼ、って。忘れてたわけじゃ……さすがにないよな」
そう言って、白い歯を見せて、サトシは笑います。
え、約束? そんなことしてたっけ? そもそも私は今日、ナナシちゃんに言われて、ここに来たのであって……。あ、もしかして。
ナナシちゃんがさせようとしたのは、こういうことだったのでしょうか。つまり、異性とどこかに言って、そうした気持ちを感じて来い、と……。
そういう結論に至ったので、私は少し彼で試してみようと思いました。サトシは、私と目を合わせるのがどことなく恥ずかしいのか、ずっと明後日の方向を向いています。
「つまり、今日はデート、ってこと?」
「…………ま、そういうことだな」
「そっか」
私は、照れながらぶっきらぼうに言う彼の様子が面白くて、くすりと、自然に笑いました。それを見て、一層サトシは、赤くなっていきます。
「……ストレートに言うなよ。こっちは結構緊張してんだから……」
そう言うサトシも可愛くて、私の方が身長は低いのですが、ついつい弟のように感じてしまいます。理性の歯止めが無かったら、平気で頭を撫でてしまいそうなぐらいに。
「ごめんごめん、それじゃ、どこに行く?」
私が話を戻すと、ようやく彼も見慣れた様子に戻り、スマホを取り出してこそこそといじりだしました。
「えーと……まずは……」
そうして、私の、一日限りの恋が始まったのです。
サトシとは、色々なところを巡りました。私たちが住む町は、決して広いわけではありません。でも、少し市街地に出れば、ゲームセンターはあるし、映画館もあるし、喫茶店もあります。つい先日、全国チェーンのアイス屋さんもできました。一度、行ってみたいです。
公園で、二人で話している時、私はいつもとそんなに変わらない、気丈な態度で振舞っていましたが、実は私も、結構緊張していました。彼は、私にとって特別な存在です。小学校時代、ひとりぼっちでいた私を笑いものにし、蔑んできた奴らとは違う、純粋な心を持った、少年です。私とは釣り合わないぐらいに、顔もいい。きっと、中学校ではモテていることでしょう。
そんな彼と並んで歩くのですから、緊張しないわけがありません。歩いているからなのか、それとも、別の理由なのか……。本来であれば、動悸というものは不快感を伴うものですが、不思議と、彼が横にいるからと思うとそんな気はしませんでした。
一日、サトシと歩き、出かけ、そして共に笑い、私は初めて、「彼ら」の立場から世界を見ました。いつも学校に行くとき、塾に行くとき、コンビニにふらっと立ち寄るとき、何の気なしに通る道とは、果たしてこんなにも広かっただろうか、と突然に思いました。休日ということもあって、人通りは学校がある日と比べて倍以上あります。何度か、すれ違う人とぶつかりそうになりました。「道」は、決して広くはありません。
きっと、「世界」が広くなったのです。私の、「心」という「世界」が、徐々に広がりつつあるのです。革新的な、大きな変化があったわけではありません。でも、休日の町中を、独りじゃない、ほかの誰かと並んで歩いている。そういった、異なる「世界」に自分は今いるのだという、微かな背徳感、微かな罪悪感、そして大きな喜びが、私の「世界」を広げているのでしょう。
なるほど、「彼ら」は、こうした景色の中で生きているんだな、と思いました。確かに、悪くはない気がします。
サトシと話しながら、私はふと、例のクラスメイトの女の子――どうしたもくそもないと言った――を思い出しました。口ではああ言っていましたが、彼と並んでいる時、彼女は確かに笑っていました。未だに私には、あれが偽物の、つくった笑顔であるとは思えません。そして今日、その想いが一層、強くなったように思います。
だって、私も笑っているから。私はきっと、あなたがあの時見せていた笑顔と、同じ笑顔をしています。楽しい。馬の合わないトモダチといるのよりも、独りでいるのよりも、ずっと楽しいです。果たして、これが恋なのかは、私にはまだわかりません。でも、自分が彼に見せている笑顔を勝手に想像しながら、思いました。
彼は、私にとって「友達」ではないな、と……。
最後に私たちは、くだんのアイスクリームショップへとやってきました。歩き疲れたと私がサトシに零したところ、だったら、と連れてきてくれたのです。
「折角だし、おごろっか?」
彼は財布を取り出し、笑顔でそう言ってくれましたが、私は丁重に断ります。「それだったら、割り勘がいい」
互いに苦笑し、そして互いに遠慮してか、比較的安めなのを二人して選びました。席に着き、早速一口食べてみます。
「あ、おいし……」
素直に、そんな言葉が漏れました。サトシも同じ感想を抱いているのか、言葉には出さないものの、幸せそうに微笑んでいます。周りの喧騒もありましたが、私たちには……少なくとも私にとっては、二人がいる空間は、そこからは切り離されているように思えました。
「サトシ」
私が呼びかけると、サトシはスプーンを咥えたまま、固まります。
「今日はありがと。一緒に遊んでくれて」
彼の片手が、ぴくりと震えました。
「……そんなことか。いいよ、そんなお礼なんて言ってくれなくても」
口から出したスプーンを静かに器に戻しながら、サトシは苦笑します。
「そんなこと、じゃないよ。私にとって、今日はとても良い日だった。私、今日まで生きてきてよかった、って思った」
それは、決して飾りでも偽りでもない、私の心からの想いでした。今まで、トモダチの意義が分からず、ましてそれ以上の概念を知ろうともせず、そんな自分が、まるで影のように私の意識の中で呻いていました。
「……そっか。ま、そう言ってくれるなら、誘った甲斐があったな、ホントに」
照れくさそうに、何か半分泣きそうな顔で、サトシは言います。
「だからさ、お返し、させてくれないかな? 私ばっかりこんな気持ちになってたんじゃ悪いから……。また、いつか……」
つっと、私は彼から視線を外しました。何かが、込み上げてきます。体の奥深い所から、心をすり抜けて、爆発でもしそうな感じで、湧き上がってきます。
「……そろそろ出よっか」
理由は分かりません。ですが、彼はそう提案しました。
外に出ると、既に暗がりになっていました。広い道路を行き交う車のヘッドライトが、私たちの輪郭を鋭く照らしだします。
「……さっきの話だけどさ」
そんな時に、サトシは話し出しました。
「お礼なんていらないよ。もう、十分お礼してもらってる」
ぽつ、ぽつ、とどこか寂しげにも感じる声が、響きます。
「でも……」
「いいんだって。ホントに」
その後も、しばらく私は抵抗しました。私なりの、感謝を伝えたい。その一心でした。それでも彼は、頑なに、受け取ろうとはしませんでした。どことなく気まずい沈黙が流れます。
やがて私も諦め、車の多い道から逸れ、私の家の方へと向かいます。街灯がぽつぽつと建っているだけの、少し怖さすら感じる場所。
「サトシって家、こっちじゃないよね?」
「いいじゃん。今日ぐらい送らせてよ」
まぁいっか……と思い、素直に従います。
そのまま二人は、何も喋ることなく、夜道を歩きました。誰ともすれ違いませんでしたが、傍から見たら、異質とも思えるであろう様子であったと、我ながら思いました。
私の家まで、残りあと数百メートル。このまま今日が終わってしまってよいのでしょうか? 私は物語の中の世界でしか知りませんが、男女が二人で出かけた時の終わり方は、こんな感じじゃなかったハズ。もっと、こう……少なくとも、こんな、張りつめてなかったような記憶があります。
「ねぇ、サトシ――」
「サユキ、ごめん!」
私が声を掛けようとした刹那、彼もまた言葉を発し、そして、私の身体を違和感が包みました。――いえ、身体じゃありませんでした。その、一部です。
「ごめん、って……」
私は何も言ってないのに……そんな言葉は、雪のように、溶けていきます。ほんの僅かな……吹雪の中で光る、一本のマッチのようなぬくもりが、私を握っていました。
「ごめん、サユキ……急に」
サトシは私に目はおろか、顔すらも向けぬまま、そんな謝罪の言葉を口にします。でも、それは間違っています。決して、過ちじゃない。謝罪しなければならないことじゃない。誰かが望んでいなかったことじゃなくて、きっと、互いに望んでいた、結末。私もそっと、彼の呼び声に、答えます。
「…………」
「…………」
ちらっと彼の横顔を見ると、頭上の街灯に照らされて、白く光っていました。儚くて、脆くて、弱くて。きっと、捕まえていなければ、すぐにでも遠くに流れていってしまいそうな存在。だからこそ、彼は私を大事にしてくれたのかな、って思いました。
「そろそろ、家……」
私が小さな声でそう告げると、「そうだなっ」と早口で彼は言い、相も変わらず私に顔も見せぬまま。二、三歩後ずさりました。
「じゃ、じゃあ、オレはここで……!」
そう言って早くも別れようとするサトシを、私は呼び止めます。「サトシ!」
「今日は……色々教えてくれてありがと! 楽しかったよ!」
その声には応えず、手を振りながら、彼は足早に去って行きました。
私は、寂しさ半分、満足半分といった気持ちで、空を見上げます。
どこかで、彼女は今も私を眺めているのでしょうか。暗い空の片隅で、そっと、彼女が笑ったような、気がしました。