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Dark of the moon 〈another episode〉  作者: 五十鈴 りく


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15/15

*リュリュの野望*〈Last〉

 タイトルでわかるかと思いますが、リュリュの視点です。

 改革から十年が経ってます。

 

 どれだけ時が経とうとも、あの日を忘れることはない。

 まだ幼かったあの日、私を呼び出した『おばあ様』ことクランクバルド公爵は、小さな私に向けて、まるで大人に接するかのように尋ねられた。


「お前は、どうしたい?」


 おばあ様は大変厳しい方だ。

 その薄青い瞳を向けられると、まるで石になってしまったかのように動けなくなる。大の大人であってもそうなるのだから、たった四歳だった私も例外ではなかった。

 けれど、目に見えて怯えた私の様子に、おばあ様は落胆されたようだった。小さくため息をつかれる。


「どうしたいのか、はっきりと自分の口で答えなさい。他の誰でもない自分のことなのだから」


 私は、おばあ様にとって、本当の孫ではなく、私は再婚した母の連れ児だった。ただの平民であったはずの母が、公爵家の娘婿の後妻という立場に納まったのだ。

 ただ、美貌だけを武器とする母は、一時だけ私の父となったその男性と共に、結局はこの家を追い出されることとなった。本来であれば、そのまま私は母たちと共に家を出るだけのことだっただろう。

 この家に残るか、母親と共に去るかを選ばせてもらえることもなかったはずだ。


 母は先夫の子である私を疎んじ、省みなかった。その事実に目を向けて下さったからこその問いだったのかも知れない。少なくとも、私はそう感じた。

 おばあ様の問いに対する答えは、はっきりと私の中にあった。


 ただ、それを口にしていいと思えなかった。

 びくびくと震えるだけの子供に対しても、おばあ様は容赦がない。

 だから、私は結局のところ覚悟を決めるしかなかった。

 どうしても譲れないものが、その時の私にはあったのだから。


「ここに……」


 敬語すら満足に知らない小さな声は、うつむいていては届かなかった。だから、顔を上げ、再び声を張り上げる。


「このおうちにのこりたい!」


 口にした途端、止め処なくあふれる想いがあった。


「このおうちで、ずっと、にいちゃまといっしょにいたい!!」


 この公爵家には、おばあ様の血を受け継ぐ、たった一人の存在があった。

 それが、『お兄様』。

 私よりも十一歳年上の、聡明な方。

 凛とした気品と佇まいを常に崩さないけれど、それでいて誰よりも優しい方。

 母にさえ疎まれたはずの私を、お前は要らない子なんかじゃないと言って守ってくれた。

 お兄様だけが、私の味方だった。


 一度知ってしまったぬくもりは、二度と忘れられない。

 もう、お兄様と離れるということだけは耐えられなかった。

 それでも、お兄様は公爵家の総領息子。お兄様のそばにいるためには、私はただの子供であってはいけなかった。

 おばあ様は、顔色ひとつ変えずに私に問われる。


「あれと共にあろうと思うのなら、お前はそれに相応しい人間にならねばならぬ。ほしいものがあるのなら、それをつかみ取るための努力をなさい。それがお前にできるのならば、私から申すことは何もない」


 ほしいものは、自らの手でつかみとらなければ、誰も与えてはくれない。

 お兄様のそばにいるために、私はこの公爵家に相応しい人間にならなければならないのだ。


「リュリュ、がんばるから、だから……っ」


 私の必死の決意を、拙い言葉の中からおばあ様は拾って下さった。


「わかった。それならば、努力を見せるといい。お前の努力次第で、お前の望みは叶うのだから」


 私は感情があふれ、声が出せずにただ大きくうなずいた。おばあ様も微かにうなずかれた。


「どれほどの時を、あれと共有するつもりであるのか――」

「?」

「いや、今は何も言うまい」


 おばあ様は、厳しい方だけれど、決して理不尽なことは仰らない。子供だった私の言い分を、馬鹿なことだと嗤われたりはなさらなかった。真剣に、耳を傾けて下さった。

 そのことに、私は生涯感謝してもし切れない。心からそう思った。



         ※※※   ※※※   ※※※



 そうして、私は来る日も来る日も稽古事に励んだ。

 この家に相応しい人間になるため。お兄様のそばにいるため。

 家庭教師の先生が厳しくても、叱られても、つらくはなかった。先生方は、私の母のように理不尽な怒りをぶつけることはなかったから。すべて、納得の行く叱責だった。できない自分が悪いのだ、と私は私なりに考えて、修練を重ねるだけだった。


 そんな日々の合間に、お兄様とお話しして、お茶を飲んで、共に過ごせる時間が、私にとって何よりのご褒美だった。そうしてまた、がんばろうという気持ちが湧く。

 とある事件がきっかけで知り合った、『ある組織』の方々は、小さいのに大変だと仰ったけれど、私はとにかく幸せだった。



 このシェーブルという国がお兄様やおばあ様、そして、『ある組織』――レジスタンスの皆様の奮闘の結果、王制を廃止し、民主国家シェーブル共和国へと生まれ変わったのは、私が五歳の時だった。

 おばあ様と、レジスタンス活動をされていたザルツさんという男性が、国の代表という地位に就き、国はそこから大きな変化を向かえた。


 その時から、多忙を極めたおばあ様は、その二年後、お兄様が成人されたのを機に、公爵家当主の座を退き、お兄様に家督を譲り渡された。

 歳若くも聡明だったお兄様は、公爵家最後の当主として奮闘された。


 そう、民主政を軌道に乗せるためには、やはり貴族制度は廃しなければならなかった。おばあ様もお兄様もそれを承知で活動されていたのだから、今更驚くことでもない。


 事実、貴族制度が廃止されたのは、改革から遅れること四年。

 今、このクランクバルド家は公爵家ではない。

 それでも、人々に深く根付いている貴族意識は、制度を廃したところですぐに消えるものではない。その選民意識を捨てられず、旧体制にすがる人々も多い。


 お兄様は、そんな人々とも極力交流を持った。本来ならば、苦手としていたはずだけれど、お兄様はみんなで目指した理想の国のために、自らもそうして戦い続けておられる。人々の理解を深めるべく、奮闘されているのだ。

 お兄様の戦いは、まだまだ続くと思われる。

 だからこそ、私は心配でならなかった。



         ※※※   ※※※   ※※※



 その日は、お兄様が主催して下さった、私の誕生パーティーだった。

 私は、ようやく十五歳になった。

 この時、お兄様は二十六歳。優美で、それでいて、家督を背負う威厳も兼ね備えられている。

 私のひいき目がなくとも、年頃の女性なら見惚れてしまうような男性だ。

 もちろん、私にとって、お兄様は理想の男性そのもの――。



「――リュリュおねえちゃん!」


 お兄様に見立てて頂いた、優しいベビーピンクのドレスの裾を意識しながら、私はそのかわいらしい声に振り返った。


「ラーナちゃん、来てくれたのね? ありがとう」


 駆け寄って来た女の子に微笑むと、彼女を飛び越えて駆け抜けて来た男の子が私のドレスに埋もれるようにして抱き付いて来た。


「こら、ティール」


 ラーナちゃんは、九歳。かわいいフリルの付いたドレスがよく似合っていた。彼女は四歳年下の弟をたしなめる。

 弟のティールくんは、無邪気な笑顔をこちらに向けて笑っていた。


「おめでと、おねえちゃん」

「ありがとう」


 かわいい。

 私が和んでいると、二人の背後から親御さんがやって来た。


「ほら、ティール、お行儀よくしなさい。お兄ちゃんでしょ?」


 お母様にそう言われると、ティールくんは私から慌てて離れ、ピンと背筋を張った。けれど、お母様に手を引かれている弟のルーレくんはまだ一歳。きょとんとした表情だった。

 三姉弟の母――プレナさんは、美しく微笑まれた。


「リュリュちゃん、お誕生日おめでとう。あの小さかったリュリュちゃんがもう十五歳だなんて、時が経つのは早いわね。それも、こんなにきれいになって」


 私には、美貌を誇っていた母のような、生まれ持った美しさはない。自分でそれをわかっていた。

 だからこそ、きれいになるための努力は怠らなかった。外見だけでは駄目だけれど、女性として魅力的であるためには、外見だって磨かなければいけない。


 ただ、私にそう言うけれど、三人もお子を産まれて、プレナさんこそますますきれいになったように思う。私にとっては憧れの方だ。


 そうして、その傍らに寄り添う男性こそが、プレナさんの旦那様にして、この国のもう一人の代表、ザルツ=フェンゼース様。出会った頃からのトレードマークの銀縁眼鏡は今も健在だ。けれど、表情はずっと堂々とされたように思う。


「おめでとう。もう、女の子というよりは、すっかり女性だな。才色兼備の令嬢だと評判になっているよ。ユミラ様も気苦労が絶えないことだろう。これでは、噂も否定でき――」


 ザルツ様はプレナさんの視線を感じてその言葉の先を自嘲されたように思う。

 けれど、噂とは?

 それを訊ねたいけれど、それははしたないこと。だから、私は何事もなかったかのように振舞った。


「いえ、とんでもございません。ですが、お褒め頂いて嬉しいです。ありがとうございます」


 小さく私が笑うと、その話は流れた。

 そうしていると、楽師が奏でる音楽の中、ホールの床に靴音を響いた。私には、振り返らずともわかる。この足運びはお兄様だと。


「ようこそお越し下さいました。リュリュの誕生日をお祝い頂き、ありがとうございます」


 そっと振り返ると、お兄様が優しい微笑を浮かべてこちらにやって来られた。赤褐色の長い髪をシルクのリボンで束ね、宵闇のような色合いの礼装がとてもよくお似合いだった。背筋がピンと伸びて、所作が美しいからこそ、どんな格好も様になる。

 十五歳になった今日、今初めてお兄様に会う。特別何かが変わったわけでもないのに、とてもドキドキした。


 おかしいところはないだろうか?

 このドレスに、ふわりと下した髪型はおかしくないだろうか?


 アップにした方が大人っぽかったかも知れない。そう思うと、無性に不安になったけれど、お兄様は私に対してもそっと微笑を向けて下さった。お客様の手前、お言葉は期待できないけれど、それでも十分嬉しかった。

 ふわり、と体と心が軽くなる。


「クランクバルド議長は挨拶だけを済ませて行ってしまわれたみたいですね。家のことはユミラ様にすべて任せたと常日頃から仰っていますから」


 ザルツさんが言うと、お兄様は苦笑した。


「ええ。祖母には随分と自由にさせて頂いて来ましたから。今も変わらず、頭は上がりませんが」


 あのおばあ様に堂々と意見できる人は、同じ立場のザルツさんくらいだ。仕方がない。


「ユミラ様はご立派にご当主としての責務を果たされています。口出しすることもないのでしょう」


 そう。

 お兄様は誰の目からも優秀なお方。

 でも、ひとつだけ、皆が口をそろえて訪ねることがある。


“何故、未だにご結婚されないのでしょう?”と――。


 縁談は、それこそ星の数ほどあった。今だって、途切れたことはない。

 公爵家でなくなったとはいえ、議長であるおばあ様の縁戚として繋がりを持ちたいと願う人ばかりなのだから。

 だからこそ、お兄様は縁談に対して慎重だった。


 私は、この現状を、心の中では喜んでいた。

 お兄様に一番近い存在であり続けたい。

 私たちの間に誰かが入り込むなんて耐えられない。


 本音は、そうなのだ。

 いつまでも優しい、私の大好きなお兄様でいてほしかった。

 我がままな私の幼い心が、常にそう叫んでいた。私はいつも、笑顔の裏にそんな想いを抱えていた。

 私が独占していい存在ではないのだと、どこか冷静な部分が警鐘を鳴らしていたとしても。



 そうして、パーティーは無事に終えた。

 私のお祝いとは名ばかりで、お兄様が目当ての方ばかりだった。それは仕方のないことだけれど、私はお兄様に視線を投げかけるきれいな方々を見ていると、とても――。



 とにかく、疲れた。やきもきするばかりだった。

 お兄様は、どういった女性がお好きなのだろう。

 これは常に考えるけれど、まるでわからない。


 ……レヴィシアさん。


 お兄様が参加されていたレジスタンス活動を牽引した、組織のリーダーだった女性。

 彼女は明るく、女性の私から見ても魅力的で好ましかった。

 太陽みたいにあたたかくて眩しい、そんな方だった。

 だから、もしかするとお兄様はレヴィシアさんに惹かれていたのではないだろうか。


 けれど、レヴィシアさんには決まったお相手がいたから、今もお兄様は諦め切れず……。

 そう考えて、いつも気持ちが重くなる。

 勉強や作法、そうしたお稽古事はがんばれば身に付くけれど、レヴィシアさんのような求心力は、望んで手に入るものではないから。

 

 ザルツさんとプレナさんに出会った今日、改めて思い出した。

 あの二人の結婚式に参列したことを。

 それは、レジスタンス活動の最中でのことだった。だから、式は挙げないと言った二人だったけれど、仲間たちが手作りの式を挙げてくれたのだ。この屋敷の庭で。

 それは簡単で短いものだったけれど、私の子供心に深く刻み込まれた。


 私は、花嫁のヴェールを持った。

 幸せそうな二人。

 きれいな花嫁。


 結婚がなんなのか、まだよく知らなかった私は、純粋に憧れた。

 結婚は、ああして誓い合った男女が、一生を共に過ごすのだと教わった。後から思えば、母のような例もいる。必ずとは言えない。


 でも、私は、一生を共に過ごせるのなら、お兄様と結婚したいと思った。

 成長するにつれ、それがどんなに難しいことなのか、理解しなかったわけではない。

 それでも、今も、その想いは胸にある。


 お兄様がレヴィシアさんを好きだったのではないかと思ったのは、実は勘違いで、お兄様の想い人は別にいるのだとしたら。


 もしかすると。

 もしかすると、お兄様が結婚なさらないのは、私が大人になるまで待ってくれているのではないか。

 そんな風に期待してしまう。

 誰よりも大事だと、いつも仰ってくれた。

 だから――。


 けれど、そんな子供じみた思い込みは、すぐに現実の冷たい風にさらされるのだった。



 疲れたけれど、このドレスを脱ぐ前に、お兄様ともう一度お目にかかりたいと思った。ご感想をお聞きしたかった。ただ、それだけだった。

 今のお兄様のお部屋は、以前はおばあ様のお部屋だった。つまり、当主の間なのだ。

 私は階段を上がり、ドキドキと胸を弾ませながらその扉の前に立った。そうして、その細々とした会話を聞いてしまうのだ。


「――では、まだ話されていらっしゃらないのですか?」


 その声は、使用人頭のグレースという女性だ。私がこの家にやって来るずっと前から勤めていて、おばあ様にもとても信頼されている。お兄様も、もちろんそうだ。だから、重要なお話もグレースには相談されるらしい。


 盗み聞きなんてはしたない。いけないことだ。

 そうは思うのに、動けなかった。その場を立ち去ることもできない。

 ただ、私はその場に立ち尽くしていた。

 核心に触れる前から、私はその会話の内容が不穏なものだと思えた。


「うん、そうなんだ――」


 お兄様のお声は困惑されていた。


「どう切り出せば、傷付けずに済ませられるだろう……」

「それは無理だと申し上げます。ユミラ様がリュリュ様のことをどれほど思い遣っておられるか、理解されたところで、こればかりは」


 どくん。

 胸が大きく高鳴った。

 嫌な汗がじわりと滲む。


「そう、だね。けれど、僕はこの家の当主として――いや、そればかりではないけれど、このまま独身を通すわけには行かないんだ。婚約の話は、明日にでもちゃんと話すよ」


 こん、やく。

 誰と、誰が。

 誰の――。


 頭が真っ白になった。


「あなた様方は近付き過ぎてしまわれた。けれどもう、潮時なのです。私共としましても、お二方の仲睦まじいご様子にもうお目にかかれないのかと思うと、寂しくはございますが……」


 聞かなかったことにすれば、明日、何事もなく過ぎるかも知れない。

 どこかで現実逃避する自分がいた。

 けれど、もしかすると、私が嫌だと言えば、お兄様は考えを改めて下さるのでは?


 今まで、我がままは言わなかった。

 最初で最後の我がままだから。

 私は、ノックも忘れて扉を開いた。


「お兄様!!」


 お兄様とグレースは、私の剣幕に驚いて固まっていた。それから、お兄様はゆっくりと困ったように、それをごまかすように微笑まれた。


「聞いてしまったのか」


 否定して下さらない。

 私は、体の震えを止めることができなかった。


「それなら、仕方がない。こっちにおいで」


 そっと、部屋に踏み入る。そうして、私は窓辺のお兄様のそばへ歩み寄った。そんな私を、グレースは心配そうに見つめている。


「リュリュ、僕は近々婚約する」

「!」


 面と向かって口にされた時の衝撃は、私の心臓をひと突きにする。それでも、お兄様は私の目を見て仰られた。


「僕は兄としてリュリュをこれまで一番身近で見守って来た。けれど、これからは、僕はリュリュのことばかりを気にしているわけには行かない。妻や子ができたなら――」

「お兄様!!」


 涙があふれ、耳を塞いだ私の両腕を、お兄様はいつになく強い力でつかまれた。塞ぎ切れなかった耳から、お兄様の悲しい声が浸透する。


「聞くんだ。それでも、僕にとって、リュリュが大切であることに変わりはない。だから、僕の代わりに――いや、僕以上にリュリュを真剣に想い、守ってくれる人間が必要なんだ」

「え……?」


 お兄様が何を仰るのか、私には段々とわからなくなって来た。ぽかんと泣きながら口を開けてしまった。そんな私に、お兄様は残酷なことを仰った。


「リュリュ、お前にも縁談がある。ちゃんと僕が選んだ、信頼の置ける相手だ。……まだ早いのはわかっている。だから、婚約という形で、お前の決心が付くまでは――」


 私に縁談?

 お兄様が選んだ?

 そんなこと、知らない。

 知りたくもない。


「今日、お見えだったのですよ。クレイメル様のお孫様ですよ」


 知らない。覚えていない。

 お兄様以外の男性なんて、目に入らない。

 私は、お兄様に腕をつかまれたまま、今度は私がお兄様にすがり付いた。ぼろぼろと、みっともなく涙を流す。

 子供の頃は、泣くことはいけないことだと我慢し続けた。今は、どうしても我慢ができなかった。

 もう、自力では止めることができないから。


「お兄様、どうか、どうか、お考えを改めて下さいませ。私を、どうかおそばにおいて下さい。どうか……」


 お優しいお兄様。

 母に要らない子だと言われた私を、大事な妹だと仰って守って下さった。

 誰よりも大切な、お兄様は私の世界そのもの。

 けれど、お兄様は私の嘆願を聞き入れては下さらなかった。


「すまない。けれど、こればかりは駄目だ。お前を悲しませたくないと先延ばしにしたけれど、僕たちはもう、お互いの道を歩まなければならない。……さあ、今日はもう休むといい。このことは、落ち着いたらまた話そう」


 そっと、壊れ物を扱うような、そんな声音で、お兄様はそうささやかれた。けれど、その言葉は、厳しい決意だった。


「グレース、リュリュを部屋まで送ってくれ」

「かしこまりました」


 心配そうに私に手を添えたグレースに促されるまま、私は部屋を出た。

 もう、すべてがどうでもよかった。

 私のして来たことは、一体なんだったのだろう。


 心に、大きな穴が開いた。

 その穴は、二度と塞がることはない。

 私にも、誰にも、どうすることもできない。

 お兄様の他には、誰も――。



 その晩、私はベッドの中で声を殺して泣いた。

 翌朝、朝食も採らずに部屋にこもる。初めて、稽古をボイコットした。

 けれど、誰も咎めに来なかった。

 私は部屋で一人、呆然と過ごした。

 夜になり、食事だけは採るようにと、扉越しにお兄様が心配そうな声で仰った。それでも、私は食事がのどを通る気がしなかった。食事を採る意味が、わからない。

 

何も要らない。

 一番大切なものが、どんなに望んでも手に入らないのなら、他には何も要らない。

 それは、ひどく幼い感情なのだろう。

 それでも、私は――。



 ただ泣いているばかりではつらい。

 だから、私は立ち上がるとピアノの椅子に座った。艶やかに木目の浮かび上がった茶褐色のピアノ。その表面に、目を腫らした醜い私が映る。

 それから目を背けるため、私はそのふたを勢いよく開き、指先を痛め付けるように激しく音を奏でた。感情のままに、この旋律は私の慟哭だ。ひどい音……。

 お兄様はこの音をどのような心持で聴かれているのだろう。きっと、お優しいお兄様は苦しまれていると思う。


 そのお心に傷を付けるように、刻みたい。

 そんな愚かしいことを願ってしまう。

 私の想いが少しでも届けばいいのに、と。



 どこまでも勝手で、馬鹿な私の演奏を中断したのは、強く叩いたわけでもないのに高く響くノックの音だった。そうして、それに続いた一声。


「いい加減になさい」


 ぴしりと背筋に鞭を打たれたように、私は椅子から飛び退いた。

 おばあ様。

 いつ、いかなる時であろうとも、おばあ様にこんな拗ねた対応はできない。それを許して下さる方ではないから。

 私が慌てて施錠を解いて扉を開くと、普段と変わらない厳しさでおばあ様が佇まれていた。就寝前だったご様子で、髪を下ろされ、ガウンを羽織られている。


「騒音を撒き散らかすのはお止めなさい」

「も、申し訳ございません……」


 お忙しいおばあ様がこのリレスティの屋敷に滞在していることは珍しい。だから、すでに王都に向かわれていると勝手に思っていた。

 ただただ頭を下げる私に、おばあ様は溜息をつかれた。


「話は聞いた。それで、お前はどうしたい?」


 いつもながら、簡潔におばあ様は問われる。

 この問いは、あの時と同じ。

 そして、私の答えも、あの時と変わらない。変わることができない。


「私は――お兄様のおそばに置いて頂きたいのです。それがいけないことだとしても、私は……」


 涙がこぼれてしまいそうになるから、私は瞬きを堪えて軽く上を向いた。そんな私を、おばあ様は変わらず眺められている。そうして、一言仰った。


「望むものがあるのなら、努力なさいと私は常に言って来た。お前は、最後の最後でその努力を欠いた。私には、そうとしか思えぬ」


 努力を欠いた。


 あんなにも、毎日毎日稽古を続けた私だったけれど、まだ努力が足りないとおばあ様は仰る。

 呆然とする私に、おばあ様は一切の感情を浮かべられなかった。


「お前の望みは、民主国家の実現よりも難しいことだとは思わぬ。それくらい、勝ち得てみせろ。私の孫であるのなら」


 ああ、そうだった。

 すとん、と私の中で何かが収まった。


 ごく普通の女性だったレヴィシアさんが、あれだけの困難を乗り越えた。プレナさんだって、ザルツさんとの仲は順調ではなかったと、一度断られたのだとこっそり教えてくれた。

 誰もが、困難の中で幸せを勝ち得て来た。私は、何を甘えていたのだろう。


「そう、でした。私はおばあ様の孫で、そうありたいと願ったのでした。みっともない真似を致しました。……お兄様と、話し合います。もう、二度とこのようなことは致しません」


 私の決意を、おばあ様は無言で受け止められ、無言のままに去られた。私は、気合を入れるため、一度顔を洗い、それから頬を叩いて背筋を伸ばした。

 さあ、ここからが私の今までとこれからを決める戦いだ。



 私は勢いのままにお兄様のお部屋へ向かった。その扉を叩く。もう、ためらいはない。


「……はい」


 中からお声がした。心なし、元気がない。

 扉がうっすらと開かれた。私は、その隙間からお兄様を見上げる。お兄様はそんな私に驚いたようだった。


「リュリュ……」

「お話があります」


 私がはっきりとそう言うと、お兄様は一瞬戸惑ったお顔になった。


「ええと、いくら兄妹でも、この夜更けに異性の部屋に入るというのは――」


 嫁入り前の娘としては感心できないというのだろう。けれど、そんな言葉、私には通用しない。

 私は強引に中へ押し入った。お兄様は私のそんな行動に唖然とされている。

 それでも、私が出て行く意志がないことを目で訴えると、お兄様は嘆息して扉を閉められた。話をまず聴こうと観念して下さったのだろう。


「……その表情を見る限りで、話というのは、例の件に対する了承ではないのだろうね」


 うなずいて見せると、お兄様は少し疲れた風に笑われた。


「今は悲しく思えるかも知れない。それでも、いつか、これでよかったと思える日が来る。僕は誰よりもリュリュの幸せを願っているから」


 私の幸せを願って下さっていることは知っている。

 けれど、私はあからさまなほどに話を切り替えた。


「お兄様」

「うん」

「お兄様はあの、改革を終えたあの日、その想いの醒めないうちに私に語って下さいましたね。ご自分の夢を」


 いつも涼やかなお兄様が、頬を染め、目にした改革の一部始終を私に語って下さった。

 そして、ご自分が見定めた、お兄様の成すべきことを、私は誇らしく聴いていた。


「この国の歴史を、後世に正しく伝えたいのだと。それが自分の役割なのだと」


 それ相応の地位と権力を持つ人間だけが、歴史を後世に記すことができる。逆に言うのなら、それを伝えることこそが、権力を持つものの役割であるのだ。

 お兄様は、そう仰った。


「庶民であるレヴィシアさんたちは、あれだけの働きをしたにも関わらず、歴史に名を残すこともできません。ですから、お兄様は、陰に消えたその真実を正しく伝えると――」


 すると、お兄様はほんの少し微笑まれた。


「レヴィシアたちは自分の偉業を残したいとは思っていない。伝えたいと思うのは僕の勝手だけれど……」


 そこで一度言葉を切ると、お兄様はまっすぐに私を見据えた。


「だから、僕にはどうしても子孫が必要なんだよ。僕の死後も、正確に僕の遺志を守り、伝えてくれるように。歴史とは、僕一人が短い生涯で語り尽くせるほど浅いものではないから」


 事実を守り、伝えて行く。

 それが、お兄様にとってとても大切なこと。


「……勝手なことを言っているのはわかっている。だからこそ、僕は自分の都合を押し付けてしまう、僕の妻になる女性のことを大切にして行きたい。……すまない、リュリュ」


 私は大きく深呼吸をした。また、私が泣き出すと思ったのだろう。お兄様は不安げに私を見据えていた。

 私は、まっすぐにお兄様のもとへ歩む。そうして、言った。


「私、お兄様よりも十一歳若いんです」

「うん?」

「ですから、お兄様よりももっと長く生きられます」


 そうして、私はお兄様の胸に飛び込んだ。お兄様はぎくりと体を強張らせる。それでも、私は離れなかった。


「長く生きて、子供もたくさん産んで差し上げます。ですから、私と結婚して下さい!」

「いっ!?」


 意を決して言った私の告白を、お兄様はすり抜けようとされた。


「いや、あの、リュリュ? 血の繋がりはなくとも、僕たちは兄妹で、僕にとって、リュリュは大事な妹だから――」


 予測の付いた、優等生な言葉。お兄様らしいけれど、私はそれくらいでは引けない。

 ここで諦め切れるのなら、この家に留まったりはしていないのだから。


「でしたら、私、お兄様の妹は卒業させて頂きます。私はいつまでも子供ではありません」

「そ……えっと、少し落ち着いて考えよう」


 私を宥めるように、お兄様は私の肩に触れた。その体温が心地よい。

 うろたえるお兄様の姿は、とても新鮮で、私はそんなお兄様の一面が見られたことが、こんな状況だというのに嬉しかった。だから、笑ってしまう。


「お兄様、お兄様が知らなかっただけで、私はずっとそう決めていたのですよ。プレナさんのヴェールを持って歩いたあの頃に。何も、昨日今日の考えではありません」

「……僕はあの時、リュリュを嫁に出す覚悟をしたよ」


 そう言って、お兄様は目を閉じて深く息をつかれた。そっとまぶたを伏せられた隙に、私は背伸びをしてお兄様の首に腕を回した。ぎゅっと、祈る気持ちのままに力を込める。


 努力が足りないと仰ったおばあ様。

 これで駄目だったとしたら、おばあ様はがんばったと認めて下さるのでしょうか?


 私なりに、精一杯気持ちをぶつけた。心臓が張り裂けそうなくらいに、痛い。

 この気持ちをお兄様が受け入れて下さらないとしたら、私は明日からどう生きるのか、それすらもわからない。

 お兄様は私の行動に呆然とされながらも、私が泣き出すとそっと背中を叩いて下さった。

 子供の頃とまるで変わらない対応だ。


「……リュリュ、お前は自分が思う以上にまだ子供なんだよ。身近な僕に対してそういう感情を持つのも、他の男性を知らないから。ただ、それだけで――」

「お兄様が私を子供だと思いたいだけです。私は、いつまでも子供ではありません。自分の言っている言葉の意味くらいわかっています」


 体が震えるけれど、ここで諦めたくない。

 すると、頭上からお兄様の声が柔らかに降った。


「僕たちは、世間的には兄妹だからね。リュリュが思う以上に、障害がたくさんある。それらをすべて乗り越えようと思うなら、その頃にはリュリュはズタズタになるだろう。それは、険しい道のりだから」

「おばあ様ならご理解頂けます。その程度で怯まれる方ではございません」

「そう……だとしても、たくさん……」


 口調だけが優しくて、それでも私の気持ちを挫こうとなさる。私は涙に濡れた瞳でお兄様を軽くにらむように見上げた。


「たくさん、ですか? どうぞ、すべて並べてみて下さい。全部乗り越えて差し上げます。私はこの夢のために十年かけて生きて来たのです。今更、何ひとつ怖くはありません」


 すると、お兄様は声を殺して笑われた。その様子に、今度は私の方が驚いた。


「リュリュ、突然君を女性として見ることは、僕にとってはとても難しいことなんだよ」


 ズキリ、と心臓が疼く。

 妹だから。

 大切なのは妹だから。

 妹でないのなら、私の価値はまた違って来るのだろうか。


 そこで平然と振舞えるほど、私は強くなり切れなかった。苦痛に歪めた顔を、お兄様は困ったように眺め、それから言葉を続けられた。


「だから、もう少しだけ時間を置こう。僕とリュリュと、お互いの婚約の話は白紙に戻す。そうして、その間に、僕は冷静にリュリュを見つめ直すよ。だから、リュリュは――」


 耳を疑うような瞬間だった。けれど、今のお兄様には精一杯の誠意だったのだと思う。

 そのお気持ちが嬉しかった。大切にされていると思えたから。


「わかりました。お兄様に相応しい女性になれるよう、ほんの少しでも急いで大人になります。お互いに、この時間を有意義に過ごしましょう」


 私は心からの笑顔をお兄様に向けた。

 すると、お兄様は応えるように微笑まれてから、やはり嘆息された。


「……これじゃあ、噂通りだな」

「え?」

「いや、なんでもない。リュリュはいつも笑顔でいてくれ」

「お兄様のそばにいられるのなら、私はいつだって笑っています」



 後日、グレースに噂のことを訊ねた。

 そうして、その内容に驚いた。

 クランクバルド家の青年当主は、奥方に相応しい娘を探すのではなく、幼い頃から手もとに置いて、一から育てている。どうやら、そんなことをささやかれていたらしい。

 知らぬは本人ばかりだったのだから、おかしな話だ。


 けれど、その噂が事実であってくれた方が、私は嬉しい。

 たったひとつの我がまま。

 私の、ただひとつの願いだから。

 お兄様の隣だけは、誰にも譲れない。


 私はその後で、お兄様の手を握り締めた。

 生涯寄り添って行こうという決意を込めて――。

 〆が乙女な話になりました(笑)

 とりあえず、ここで区切りとさせて頂きます。

 気が向いたら足すかも知れませんが。

 ここまでお付き合い頂き、ありがとうございました!

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