第8話 交換
隣の集落が見えたとき、最初に気づいたのは若いのだった。
「あった!」
「あるに決まってるだろ」
「だって、ずっと森しかなかったじゃん」
言いたくなる気持ちは分かる。予定なら昼過ぎには着いているはずだった。それがラプトルにつられて逃げ、道を外れ、死んでいる土地を大きく迂回したせいで、もう日が傾き始めている。
森の切れ目から見える集落までは、まだ少し距離があった。
古い建物を利用した家が十数軒。その周囲に畑が広がり、外側を木の柵が囲んでいる。遠目には、俺たちの集落と大して変わらない風景だった。
「今日中に着いたな」
誰かが言う。
「お前、途中で野宿する顔してたじゃん」
「してねえよ」
「薪拾ってただろ」
「あれは休憩の火に使おうと思っただけだ」
「同じだろ」
そんな話をしながら歩いているうちに、向こうもこちらに気づいたらしい。柵の上に人影が立った。
しばらくして、声が飛んでくる。
「遅かったな!」
知っている声だった。俺は手を上げる。
「道が混んでた!」
「何に!」
「恐竜!」
「いつもだろ!」
その通りなので、みんなが笑った。
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門まで行くと、中から男が二人出てくる。一人は何度も取引をしている顔見知りで、もう一人は見たことのない若い男だった。
「六人いるな」
「減ってると思ったか?」
「遅いからな」
男は俺たちより先に荷車を見る。
「荷物は?」
「ある」
「全部?」
「あるよ」
「ならいい」
「俺たちはどうでもいいのか」
「お前ら食えないだろ」
歓迎されているのか分からないが、少なくとも追い返されることはなさそうだった。
門を通り、荷車を引いて中へ入った途端、子供が何人か駆け寄ってきた。小さな手が次々と伸びてくる。
「塩?」
「塩だよ」
「見せて」
「見るだけな」
「舐めていい?」
「駄目」
「ちょっとだけ」
「駄目だって」
荷車に伸びた小さな指を払う。
「ケチ」
「これと薬を替えるんだよ。お前が舐めた分だけ薬が減る」
子供は納得していない顔をした。
「どのくらい?」
「何が」
「一回舐めたら」
「知らん」
「また知らんって言った」
後ろで若いのが笑った。
「こいつ、ずっとそれ言ってるよ」
「うるさい」
子供たちは今度は若いのへ寄っていく。
「途中で恐竜いた?」
「いた」
「何?」
「トリケラトプス」
「それだけ?」
「ラプトルも」
「何頭?」
「一頭」
「じゃあ普通じゃん」
若いのが俺を見る。
「普通なんだって」
「普通だろ」
子供たちはもう興味を失い、別の話を始めていた。昨日、俺たちが何も分からず逃げたラプトルも、この子たちには一頭なら話の種にもならないらしい。
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「ほら、仕事するぞ」
荷車を倉へ向ける。持ってきた塩を袋ごと台に載せると、向こうの男が秤を出してきた。天秤の片側に塩を載せ、反対側へ金属の重りを置く。
「減ってないな」
向こうの男が塩袋を睨みながら言う。
「だから全部あるって言っただろ」
俺がむっとして言い返す。
「途中で食ってるかもしれない」
「塩を?」
「お前ならやる」
「やらねえよ」
次は干し肉だった。紐で束ねたものを一つずつ数えていく。俺たちはその間に水をもらった。朝から何度も飲んでいるのに、集落に着いてから飲む水は妙にうまい。
「で、薬は?」
年長の男が聞く。向こうの顔つきが少し変わった。
「あるにはある」
「少ない?」
「前よりな」
奥から木箱が運ばれてくる。中には布に包まれた薬と、小さな瓶が入っていた。見ただけでは何の薬か分からない。俺たちには読めない文字の残っているものもある。だから毎回、何に使うものなのかを聞いて持ち帰るのが習わしだった。
「熱の薬は?」
年長の男が聞く。
「これ」
向こうの男が布包みを指差す。
「腹は?」
「こっち」
「傷に使うのは?」
「それ」
年長の男が一つずつ確かめていく。
「前に持ってったやつは?」
「ない」
「なんで」
「なくなったからだよ」
「次は?」
「知らん」
「どこから来るんだ」
男が肩をすくめる。
「東から来る奴が持ってきてた。そいつらが来ない」
「いつから?」
「定期便なのに、もう二回来てない」
俺たちは顔を見合わせた。ここの薬は、ここで作っているわけではない。そんなことは知っている。だが、誰がどこから持ってきているのかまでは、俺たちも知らなかった。
「別のところから取れないのか?」
「取れるなら取ってる」
男は箱の中身を指で分ける。
「この塩なら、これくらいだな」
「少ないだろ」
「薬が少ないんだよ」
「塩は同じだけ持ってきた」
「だから?」
「前と同じだけ出せよ」
「ないものは出せない」
年長の男と向こうの男が睨み合う。喧嘩になるような話ではない。どちらもそれを分かっているから、余計に話が進まなかった。
塩は必要だ。薬も必要だ。俺たちは薬が欲しい。向こうは塩が欲しい。なのに、欲しいもの同士を並べただけでは、同じ量にならない。
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「工具は?」
俺が聞いた。二人がこちらを見る。
「薬が減るなら、その分、工具を増やせない?」
向こうの男が顎を掻いた。
「何が欲しい」
向こうの男が聞く。
「鋸」
「ない」
「斧」
「ある」
「釘」
「ある」
「車輪直すやつ」
「何だよ、それ」
「俺が知るか。荷車の車輪が曲がってんだよ」
「見せろ」
男を連れて外へ出る。荷車の右側を見せると、しゃがんで車輪を触った。
「軸じゃないか?」
「直る?」
「たぶん」
「何がいる?」
「これ外してみないと分からん」
「じゃあ外して」
「今?」
俺は思わず聞き返す。
「今」
「もう夕方だぞ」
「明日帰るんだから」
「泊まる気かよ」
「この時間から帰れって?」
男が空を見る。
「飯は出さないぞ」
「塩持ってきたのに?」
「塩は食えない」
「食えるよ」
「じゃあ塩食ってろ」
俺たちの後ろで笑いが起きた。
結局、荷車は明日の朝に見ることになった。
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夕飯は出た。
「飯出さないって言ってたじゃん」
「俺は出さない」
さっきの男が、自分の椀を持ったまま言う。
「じゃあこれ誰が出したの?」
「うちの婆さん」
広い家の土間に十人以上が集まっていた。俺たち六人に、取引をしていた連中。それから家の持ち主らしい婆さんと、子供が三人。鍋には豆と芋が入っている。肉はなかった。
「干し肉あるぞ」
俺が言うと、婆さんが睨んだ。
「明日持って帰る薬が減ってもいいなら入れな」
「やめときます」
「分かればいい」
若いのが隣で笑っている。
「何」
「怒られてる」
「お前も同じ荷物運んできたんだぞ」
「俺、肉入れろって言ってないし」
子供の一人が俺たちを見ていた。
「向こうって、何いる?」
子供が無邪気に聞く。
「向こう?」
俺が聞き返す。
「おじさんたちのところ」
おじさんと言われる歳ではないと思ったが、子供から見ればそうなのかもしれない。
「何って?」
「恐竜」
「いろいろ」
俺が答える。
「ティラノいる?」
「いない」
「なんで?」
「なんでって言われても」
「こっちもいない」
子供が得意げに続ける。
「じゃあ同じだな」
「つまんない」
「いる方が困るだろ」
子供は首を傾げた。
「見たいじゃん」
子供が羨ましそうに言う。
「遠くからならな」
「近くで見たことあるよ」
「何を?」
「トリケラトプス」
「どのくらい近く?」
子供は箸を置いて、両手を広げた。
「このくらい」
「嘘つけ」
俺は笑った。
「ほんとだよ」
婆さんが笑った。
「柵の向こうにいただけだよ」
「それでも近いだろ」
「珍しくもない」
俺たちの集落でも同じだ。なのに、子供がそう言うと、なぜか少し変な感じがした。
俺が子供だった頃、恐竜はまだ珍しかった。珍しいというより、怖かった。名前を知らない恐竜を見れば大人を呼んだし、夜に鳴き声がすれば窓から離れた。今、目の前にいる子供たちには、最初から恐竜がいる。それが当たり前として、この子たちの世界には最初から組み込まれている。
「おじさん、恐竜怖い?」
子供がずけずけと聞く。
「だからおじさんじゃない」
「怖い?」
「怖いのは怖いよ」
俺は素直に認めた。
「なんで?」
「食われるから」
「食わないのもいるじゃん」
「食わないやつに踏まれても死ぬ」
子供が笑う。
「弱っ」
「人間は弱いんだよ」
「銃あるじゃん」
「弾がもったいない」
「槍は?」
「近づかないと届かない」
「じゃあ弱いね」
「だからそう言ってるだろ」
子供は満足したらしく、芋を食べ始めた。
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婆さんが俺を見る。
「お前ら、帰りは同じ道か?」
「たぶん」
「やめときな」
箸が止まる。
「なんで?」
「西の方から来た奴が、昨日ここを通った」
「誰?」
「知らない男が二人。荷物もほとんど持ってなかった」
「どこへ行った?」
「東」
俺たちが帰る方向だった。
「何かあったの?」
年長の男が聞く。
婆さんは少し考えてから首を振る。
「知らない。ただ、急いでたよ」
「恐竜?」
「さあね」
それ以上は誰も聞かなかった。知らないなら、聞いても答えは出ない。
俺は芋を口へ入れた。
昨日なら、その一言だけで嫌な気分になったかもしれない。
ラプトルが逃げた。恐竜たちも同じ方向へ移動していた。今度は人間まで西から来た。
何かあるのかもしれない。何もないのかもしれない。
「帰り、南回る?」
若いのが小声で聞いてきた。
「遠いぞ」
「死んでる土地の近く通るよりいいじゃん」
「それもそうだな」
年長の男が聞いていたらしい。
「明日の朝決める」
それで話は終わった。
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食事の後、俺たちは空いている家を一軒借りた。屋根の一部が壊れていて、そこから夜空が少し覗いている。
「雨降ったらどうすんの」
若いのが言う。
「降らないだろ」
「なんで分かるの?」
「雲ないじゃん」
「夜中に出るかもしれない」
「じゃあお前そこ寝ろ」
「嫌だよ」
結局、屋根に穴がない場所を六人で取り合った。俺は壁際を取った。
横になると、身体が思っていた以上に疲れていることに気づく。昨日からずいぶん歩いた。
目を閉じる。
「なあ」
暗闇から若いのの声がする。
「何」
「薬、減ってたじゃん」
「うん」
「うち、大丈夫?」
若いのの声が少し不安げになる。
「何が」
「薬」
「知らん」
「またそれ」
「明日持って帰るだろ」
「でも前より少ないんでしょ」
「その次は、また取りに来る」
「なかったら?」
誰かが寝返りを打った。
「寝ろ」
年長の男の低い声が飛んできた。
「聞いただけじゃん」
若いのが口を尖らせる。
「明日考えろ」
「明日になったら分かる?」
「分からん」
「じゃあ今考えても同じじゃん」
暗闇の中で、誰かが笑った。
「お前、面倒くさいな」
「だってさ」
「寝ろ」
今度は俺も言った。
若いのはまだ何か言いたそうだったが、やがて静かになる。
屋根の穴から星が見えた。昔は町の明かりで、こんなに見えなかったらしい。それが本当なのかは知らない。俺が知っている夜は、ずっとこうだった。
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目を閉じようとしたところで、外から足音が聞こえた。
一人ではない。
起き上がる。隣で年長の男も身体を起こしていた。
「聞こえた?」
「ああ」
外から声がする。この集落の人間ではなかった。
「頼む。少しだけでいい」
俺たちは顔を見合わせた。
「水を分けてくれ」




