第6話 恐竜のいる世界
「止まれ」
前を歩いていた男が右手を上げた。
全員が止まった。
「いた?」
「いる」
俺は荷車の取っ手を、音を立てないようゆっくりと地面へ置いた。
男が道路脇の茂みを指差す。
姿は見えない。
それでも、音はした。葉が擦れる音。何かを噛み切る音。時々、枝が折れる音が混じる。
「何頭?」
「三……いや、四かな」
「種類は?」
「角」
「じゃあ待つか」
それで話は終わった。
俺たちは道路脇に座り込んだ。全員で六人、荷車は二台。今日の目的は、隣の集落まで塩と乾燥肉を運ぶことだ。帰りには向こうから薬と工具を受け取る。片道三時間の道のりだった。
昔は車なら二十分もかからなかったらしい。少なくとも、俺の記憶が正しければ。
「出た」
誰かが言った。
道路の向こうから、大きな頭が現れた。三本の角、その後ろに続く巨体――トリケラトプスだ。一頭が姿を見せ、続いて二頭、三頭。最後に、ひと回り小さい個体が一頭、遅れて現れた。
「四だったな」
誰かが数える。
「子供いたのか」
「じゃあ近づかなくて正解」
「子連れは面倒だからな」
群れは道路を横切っていく。誰も武器を構えない。その必要がないからだ。
向こうも俺たちに気づいたらしく、大きな一頭がわずかに頭をこちらへ向けた。
「見るなよ」
誰かが小声で言う。
「見てない」
「目合ってるぞ」
「向こうが見てんだよ」
「同じだろ」
笑い声が漏れる。
子供の個体が途中で足を止めた。道路脇の草を食べ始める。
「あー」
誰かがうんざりした声を出す。
「始まった」
「長いぞ、これ」
親らしい個体も歩みを止めた。
「迂回する?」
「やめとけ。子供いる」
「だよな」
仕方なく、待つことにした。十分、二十分、三十分――時間だけが過ぎていく。
「今日、帰れるかな」
若い奴がぼやく。
「帰れるだろ」
俺は適当に返した。
「昨日もアンキロで一時間止められたぞ」
「あれは道路の真ん中で寝たからだ」
「起こせばよかったじゃん」
「お前が起こせよ」
「嫌だよ」
「じゃあ待て」
また笑いが起きた。
恐竜が道路を塞ぐのは、別に珍しいことじゃない。雨で道がぬかるむのと同じ、橋が壊れるのと同じだ。面倒ではあるが、それだけのことだった。
ようやく群れが森へ入っていく。
「行くぞ」
荷車を持ち上げ、また歩き始める。
トリケラトプスが通った場所には、大きな足跡がくっきりと残っていた。その横に、ひと回り小さな足跡も並んでいる。誰も気にせず、その上を踏んで進んだ。
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十分ほど進んだところで、今度は俺が足を止めた。
「待って」
「今度は何だよ」
「これ」
地面を指す。足跡があった。
「ラプトル?」
「たぶん」
「何頭?」
しゃがみ込んで確かめる。古いものと新しいものが重なり合っていて、数はすぐには分からない。
「分からん」
「こっち向かってる?」
「いや」
足跡は道路を横切っているだけだった。
「ならいい」
「一応、槍出しとけ」
全員が背負っていた槍を手に取った。
銃も一丁だけ持ってきている。弾は十一発。
けれど、こんな移動で気軽に使うようなものではなかった。ラプトル一頭に銃弾一発――そんな贅沢はできない。
「行くぞ」
少し間隔を詰めて歩く。さっきまでの笑い声は、いつの間にか消えていた。
トリケラトプスなら待てばいい。アンキロサウルスも、まあ待てばいい。問題は、待っていても向こうから来る奴だった。
しばらく歩いても、何も起きなかった。
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道路脇に、古い車が転がっていた。
錆びつき、草に半分埋もれ、屋根は潰れている。若い奴が足を止め、それを覗き込んだ。
「これ、本当に動いてたの?」
若い奴が興味津々で聞く。
「動いてたよ」
俺が答える。
「これが?」
「これが」
十七歳。こいつが生まれた頃には、道路を走る車なんてほとんど残っていなかった。車が何なのかは知っている。昔の人間が使っていた乗り物――そのくらいの認識だ。
若い奴が、割れた窓から中を覗き込んだ。
「これ何?」
若い奴が窓から手を伸ばしかけて聞く。
「ハンドル」
俺が答える。
「何するの?」
「回す」
「回すと?」
「曲がる」
こいつはハンドルをしげしげと眺めた。
「なんで?」
「……なんでって」
考えてみる。ハンドルを回す。タイヤが動く。車が曲がる。そこまでは分かる。その間で何がどうつながっていたのかは、分からなかった。
「中でつながってる」
俺は苦しい説明を試みる。
「何が?」
「ハンドルとタイヤ」
「どうやって?」
「知らん」
「知らないの?」
若い奴が呆れる。
「知らなくても乗れたんだよ」
「怖くない?」
「怖くないよ」
「何も分かんないのに?」
「お前だって井戸の中どうなってるか全部知らないだろ」
「あれは水が出る」
「車も動いたんだよ。それで十分だったの」
後ろから笑い声がした。
「速かった?」
若い奴が聞いた。
「速かったよ」
「ラプトルより?」
「どうだろうな」
走っているラプトルと競争したことなんてない。
「普通に走ってれば、たぶん車の方が速い」
「じゃあ恐竜から逃げるの簡単じゃん」
「道が空いてればな」
「空いてるじゃん」
若い奴が道路を指差した。ひび割れて、そこかしこから草が生えている。見える範囲に人間は俺たちしかいなかった。
「昔は違ったんだよ」
俺は言った。
「何が?」
「ここ、車がずっと走ってた」
「何台?」
「何台って……いっぱい」
「十台?」
「もっと」
「二十?」
「もっと」
「そんなに?」
若い奴の声が跳ねる。
「朝とか夕方は、前にも後ろにもずっといたよ」
若い奴が道路を見る。遠くまで続く、誰もいない道が広がっていた。
「なんでそんなに?」
「みんな乗ってたから」
「みんな?」
「まあ、だいたい」
「一人一台?」
「家に何台かあったところも普通だったよ」
「嘘だろ」
若い奴が呆れた声を出す。
「本当だよ」
信じていない顔だった。無理もない。こいつにとって車は、草むらで錆びている箱でしかない。
俺にとっては――何だったんだろう。
父親の車の後ろの座席。窓の外を流れていく景色。かかっていた音楽。赤く光る信号。
覚えている。たぶん。
父の顔は、もうよく覚えていない。それなのに、車内の匂いだけは時々ふっと思い出す。
「いい時代だった?」
若い奴が聞いた。
「知らん」
「乗ってたんだろ?」
「子供だったからな」
「じゃあ昔の人じゃん」
「お前もそのうち昔の人になるよ」
「恐竜がいなかった時代の人って意味」
「ああ」
それなら、そうなのかもしれない。
こいつは車の中をもう一度覗き込んだ。
「動かせないの?」
こいつは未練がましく聞いた。
「無理だろ」
「直せば?」
「誰が?」
「カガクシャ」
「どこにいるんだよ」
「昔いたんだろ?」
「昔はな」
「じゃあ直せるじゃん」
「昔の奴をどうやって連れてくるんだよ」
「あ」
「馬鹿」
笑い声が起きる。
「カガクシャって何でも直せたんでしょ?」
若い奴がなおも食い下がる。
「そんなわけないだろ」
「何でも知ってたって聞いた」
「誰から」
「ばあちゃん」
「ばあちゃん話盛ってるぞ」
「デンキも作ったんだろ?」
「作ったのは一人じゃない」
「エーアイも?」
その言葉に、少し考えた。
「エーアイは……」
何だったか。聞いたことはある。昔、テレビか何かで。人間みたいに喋る機械――そんなものだった気がする。
「何?」
若い奴が急かす。
「忘れた」
「何も知らないじゃん」
「だからカガクシャじゃないって言ってるだろ」
「じゃあ誰なら知ってる?」
「知らん」
「カガクシャ?」
「だからどこにいるんだよ」
また笑いが起きた。
「行くぞ。日が暮れる」
先頭から声が飛んだ。
若い奴は名残惜しそうに車から離れた。俺たちはまた歩き出した。
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しばらくして、道路に何かが見えた。
先頭の男が足を止める。今度は、誰も笑わなかった。
「何?」
「前」
近づいてみる。
鹿だった。腹が裂けている。まだ新しい傷だった。
「食い残し?」
「触るな」
「分かってる」
周囲を見回す。森は静かだった。
「ラプトルかな」
「分からん」
「戻る?」
誰もすぐには答えなかった。
ここまで一時間半。戻れば今日の取引は無理になる。向こうでは薬を待っている人間がいるのだ。
「進もう」
俺が言った。
「いいの?」
「六人いる」
「槍だけだぞ」
「戻ったところで、明日またここ通るだろ」
「まあな」
「だったら同じだ」
先頭の男が頷いた。
「固まって行くぞ」
鹿を避け、誰も口を開かないまま森を見渡し、音を聞きながら一歩ずつ進んだ。
何も来なかった。
鹿から二百メートルほど離れたところで、ようやく息を吐く。
「いなかったな」
「食った後、どっか行ったんだろ」
「ならいい」
若い奴が槍を下ろした。俺も少し力を抜いた。
---
そのとき、森の奥で何かが動いた。
「待て」
全員が止まる。
木々の向こうに、灰色の体が見えた。一頭。
「ラプトル」
槍を構える。
そいつはこちらを見ていた。動かない。
「一頭?」
「見えるのは」
「一頭なわけないだろ」
「探せ」
左を見る。右を見る。後ろを見る。いない。見えているのは、最初の一頭だけだった。
妙だった。ラプトルはこちらを見ている。それなのに、狙っているようには見えなかった。
「……何だ?」
若い奴が呟いた。
次の瞬間、ラプトルが走り出した。
「来るぞ!」
槍を構える。
違った。こっちじゃない。横だ。道路を横切り、そのまま反対側の森へ消えていく。
「……逃げた?」
「俺たちから?」
「いや」
俺は、さっきまでラプトルがいた森の方を見た。
鳥が飛び出した。一羽、二羽、続けざまに何十羽と森の上へ舞い上がっていく。
「行くぞ」
「何?」
「いいから行け!」
荷車を掴む。全員が走り出した。
何から逃げているのかは分からない。それでも、分からなくていい。ラプトルが逃げた。それだけ分かれば十分だった。
荷車が跳ねる。
「待って、無理!」
後ろで誰かが情けない声を上げる。
「もう少し!」
先頭の男が振り返らずに怒鳴り返す。
「何がいるんだよ!」
若い奴が半泣きで俺に聞く。
「知らん!」
「知らないのに逃げんの!?」
「ラプトルに聞け!」
誰かが笑った。息を切らしながら。俺も笑った。怖いから笑ったのかもしれない。
---
この世界で生きるのに、恐竜の名前を全部知る必要はない。
戦って勝つ必要もない。
近づいていい相手か。離れた方がいい相手か。そいつが何から逃げているのか。それを見て、自分も逃げるべきなのか。
それだけ分かれば、だいたい何とかなる。
あの日から、二十五年。
恐竜は、まだいる。
いや――そんな言い方をする人間の方が、もう少なくなっていた。
恐竜は、
いるものだった。




