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第5話 D-DAY

挿絵(By みてみん)

【記録 B6041E】


四個体が施設内部へ進入した。

当該個体からの質問に対し、保存情報を提供した。


---


 電気は戻らなかった。


 三日目の朝、友人の部屋で目を覚まして、最初に確認したのは天井の照明だった。


 消えている。


「まだか」


 隣では友人がまだ寝ている。


 カーテンを開けると、外は明るかった。当たり前だ。太陽は停電しない。昨日までなら何とも思わなかったはずのそんなことが、今日は少し腹立たしく感じられた。


 蛇口をひねる。何も出ない。ガスも止まったままだった。カセットコンロのボンベは、数えるとまだ三本残っている。水は、昨日俺が持ってきた分がわずかに残っているだけだった。


「起きろ」


「んー」


「水なくなるぞ」


「……何時?」


「六時半」


「早くね?」


「給水」


「あー……」


「昨日二時間待ちって言ってただろ」


「昼からでよくね?」


「昨日、昼でなくなっただろ」


「……行く」


---


 二人でポリタンクを提げて外へ出ると、昨日より道に人が多かった。


 車ではない。歩いている人間だ。


 背にリュックを負った男、キャリーケースを引きずる女、空のポリタンクを両手にぶら下げた老人。買い物袋を抱えた家族連れがいるかと思えば、荷台に何かを積んだ自転車が横を通り過ぎていく。誰もが手に、あるいは背中に、何かを運んでいた。


「避難?」


 友人が言った。


「どこに?」


「知らん」


「じゃあ避難にならないだろ」


「でもどっか行ってるぞ」


「給水じゃね?」


「キャリーケース持って?」


「……じゃあ避難か」


 最近、「知らん」で終わることが増えた。


 小学校まで行くと、すでに長い列ができていた。


「嘘だろ」


 校門から体育館の裏まで続いている。


「何時から並んでんだよ」


「俺に聞くな」


 最後尾に並ぶ。


 前にいた親子が、小声で話していた。


「一本だけ?」


「一本ずつ」


「喉渇いた」


「もうちょっと待って」


 子供が握りしめている空のペットボトルが、日差しを受けて白く光っていた。


 三十分が過ぎ、一時間が過ぎても、列はほとんど進まない。


「遅くね?」


「給水車一台しかないんじゃない?」


「水ってこんな貴重だったっけ」


「蛇口から出てたからな」


 自分で言って、変な感じがした。数日前まで、水はひねれば好きなだけ出るものだった。それが今は、こうして列を作って待つものになっている。


 列の前の方で、声が上がった。


「お一人十リットルまでです!」


 係員が声を張り上げる。とたんに周囲がざわついた。


「昨日二十だっただろ!」


 列の誰かが食ってかかる。


「申し訳ありません!」


「家族五人いるんだぞ!」


 別の誰かが悲鳴に近い声で叫んだ。


「次の給水車がいつ来るか分からないため――」


 係員がなおも続けようとする。


「なんで来ないんだよ!」


 答えは、怒声にかき消されて聞こえなかった。


 俺は自分のポリタンクを見た。十リットル。二人で並んでいるから、合わせて二十リットルは持って帰れる計算になる。


「二人だから二十だな」


「お前んちの分は?」


「半分持って帰る」


「歩いて?」


「……十キロか」


「昨日五キロで死にそうになってたじゃん」


「死んでない」


「死にそうだった」


「じゃあ五にする」


「判断早」


「合理的と言え」


 友人が笑った。俺も笑った。前に並んでいた母親も、つられたように少し笑った。


---


 そのとき、スマートフォンが一斉に鳴った。


 列のあちこちで、画面が同時に光る。


「また?」


 俺もポケットから取り出した。


 残量十九パーセント。


 画面に目を落とす。


 緊急速報。避難情報だった。ここではない。もっと北の地域だ。大型動物の群れを確認、周辺住民は指定避難所へ――そう表示されていた。


「また恐竜か」


 友人が言った。


「遠い」


「ならいいか」


「いいっていうか、今はどうしようもない」


 しまおうとした端末が、もう一度光った。


>『原子力発電所周辺地域に避難指示』


 手が止まった。


「これ、昨日の?」


 友人が横から画面を覗き込む。


「たぶん」


「止まってるんじゃなかった?」


「止まってる」


「じゃあなんで避難すんの?」


「知らん」


 記事を開く。回線が重いのか、なかなか表示されない。ようやく現れた文面には、外部電源、非常用電源、冷却機能、燃料、注水――そんな言葉が並んでいた。


 知らない言葉ではない。それなのに、頭の中で意味がつながらなかった。


「冷やせなくなったってこと?」


 友人が聞いた。


「……っぽい」


「止まってんのに?」


「俺に聞くなよ」


「お前こういうの理屈つけるの得意じゃん」


「原発は専門外」


「教授みたいなこと言うな」


「知らんものは知らん」


 初めて、それでいいと思えた。分からないことに無理やり理由をつけたところで、状況は変わらない。


 記事の最後の一行に、目が留まった。


>『現時点で周辺環境への影響は確認されていません』


「じゃあ、まだ大丈夫か」


 友人が言った。


 俺は答えなかった。少し前までなら、それは俺の方が言っていた台詞だった。


---


 列が動く。スマートフォンをしまう。


 だが、俺たちの番が来る前に、水が尽きた。


「本日の給水は終了します!」


 係員が言い切った瞬間、怒鳴り声が上がった。


「ふざけんな!」


「次いつだよ!」


「子供いるんだぞ!」


「水くらい持ってこられるだろ!」


 列にいた誰もが口々にまくし立てる。係員が何度も頭を下げている。


「次回については未定です!」


「なんで!」


「給水車が到着できるか分かりません!」


 係員が声を裏返らせながら言い返す。


「道路は通れるだろ!」


「通れない地域が増えています!」


 それ以上のやり取りは、怒鳴り声にかき消されて聞こえなくなった。


「どうする?」


 友人が聞いた。


「帰る」


「水は?」


「別の場所探す」


「どこ?」


「歩きながら考える」


 校門を出る。後ろでは、まだ怒鳴り声が続いていた。


 水がない。それだけで、人間はこんな声を出す。恐竜は一頭もいなかったのに、給水は止まった。


---


 帰り道、スーパーの前に人だかりができていた。


「開いてる?」


「行ってみる?」


 近づいてみると、店は開いていなかった。店員が入口で段ボール箱を配っている。中を覗くと、菓子、調味料、缶詰、それに売り物にならなくなった冷凍食品が詰め込まれていた。


「冷凍庫止まったからか」


 俺たちも列に加わった。一人二点まで。


 サバの缶詰と、桃の缶詰を取った。


「桃いらなくね?」


「糖分」


「チョコの方がよくね?」


「ないだろ」


「合理的だ」


「だろ」


 缶詰二つを手にしただけで、少し嬉しかった。水はないが、食い物は増えた。何とかなる。そう思えた。


 帰り道、自衛隊車両とすれ違った。一台、二台、三台。後ろにトラックが続く。土埃を巻き上げて過ぎていく車列を、俺たちは道の端で見送った。


「どこ行くんだろ」


「北じゃね?」


「恐竜?」


「たぶん」


 さらに歩くと、今度は反対方向から人の群れが近づいてきた。家族連れ、老人、子供。誰もが荷物を抱え、疲れた足取りでこちらへ向かってくる。


「避難してきた人?」


「たぶん」


 自衛隊は北へ向かい、住民は南へ流れてくる。俺たちはその間を、どちらでもない方向へ歩いた。誰がどこへ行けば正しいのか、もう俺には分からなかった。


---


 友人の家へ戻り、ラジオをつけた。電池式のそれは、ここ数日でテレビよりずっと頼りになっていた。


『――各地で道路網の寸断が続いており――』


『――燃料の優先供給について政府は――』


『――自衛隊は現在――』


 雑音が入る。周波数を合わせ直す。


『――原子力発電所では冷却機能の――』


 また雑音に飲まれる。


『――住民に対し、屋内退避を――』


「屋内?」


 友人が言った。


「恐竜じゃないな」


「原発?」


「たぶん」


 周波数がまたずれ、別の局に切り替わる。


『――政府は冷静な行動を呼びかけています――』


 冷静。それはできる。俺は割とそういうのが得意な方だ。


 問題を一個ずつ、順番に並べていく。水、食料、電気、移動手段、安全な場所――紙とペンを持ち出し、思いついた端から書き出した。


「何してんの?」


「整理する」


「何を?」


「必要なもの」


 水、食料、カセットボンベ、電池、薬、ラジオ。書き並べていく。


「他は?」


「スマホの充電」


「電気ない」


「だから代わり」


「モバイルバッテリー?」


「売ってないだろうな」


「じゃあ無理じゃん」


「書くだけ書いとく」


 友人も横から覗き込みながら考え始めた。


「武器」


「何に使うんだよ」


「恐竜」


「お前が何持ったら恐竜に勝てるんだよ」


「包丁」


「料理に使え」


「じゃあいらない?」


「家にあるなら持っとけ」


 紙の端に、包丁、と書き足した。二人で笑った。まだ、笑えるだけの余裕は残っていた。


---


 夕方になるとラジオから別の地域への避難指示が流れ、夜にはさらに別の地域の名が読み上げられた。翌朝には、別の原子力発電所で冷却機能が失われたと告げられ、その次は通信障害、そのまた次は燃料不足――そうやって、地名だけが日ごとに増えていった。


 最初のうちは全部覚えていた。そのうち、覚えなくなった。自分たちに近いか、遠いか。確認するのはもう、それだけだった。


 スマートフォンは完全に電源を切った。基地局が生きているかどうかも、もう分からない。


 ラジオだけを聞いた。電池を減らさないよう、一時間に一度、十分だけ。それが俺たちのニュースになった。


---


 ある夜、いつもの時間にラジオをつけた。


 雑音。周波数を合わせる。雑音。


「違う局は?」


「待て」


 ダイヤルを回す。何もない。さらに回す。


 声が入った。


『――……避難……繰り返し……』


 弱い。


『……冷却……区域……』


 消えた。


「もう一回」


「待って」


 戻す。聞こえない。


「アンテナ?」


 伸ばしてみる。変わらない。


「電池じゃね?」


「交換する」


 新しい電池に替え、電源を入れ直す。雑音だけが返ってきた。


「……電池じゃない」


 二人でラジオを見つめた。ただの小さな箱だ。声が来なければ、それは何も教えてくれない。


「明日になったら戻るかな」


 友人が言った。


「分からん」


「基地局とか直るかな」


「分からん」


「電気は?」


「分からん」


「水」


「分からん」


「自衛隊は?」


「……分からん」


「恐竜、減ってんのかな」


 俺は答えなかった。


 分からない。それでいい。分からないことは、分からないままでいい。代わりに、分かることを考える。


「明日、川まで行こう」


「水?」


「煮沸すれば使えるかもしれない」


「遠くない?」


「二時間くらい」


「恐竜いたら?」


「引き返す」


「水取れなかったら?」


「別の場所探す」


「それもダメだったら?」


「そのとき考える」


 友人が少し黙った。


「お前、最初からそんな感じだったっけ」


「何が」


「もっと、なんか……全部大丈夫って言ってなかった?」


 言われて、思い出した。自衛隊がいる。警察がいる。自治体が動いている。道路がある。電気がある。水が出る。危険な場所へ近づかなければいい――そんな理由なら、少し前まではいくらでも挙げられた。


「言ってたな」


「今は?」


 少し考えた。


「今日生きてる」


「うん」


「じゃあ今日までは大丈夫だった」


「何だそれ」


「事実だろ」


 友人が笑った。


「合理的?」


「たぶん」


 俺も笑った。


 ラジオの電源を切ると、部屋は真っ暗になった。窓の外にも灯りはない。


 遠くで何かが鳴いていた。鳥ではない。犬でもない。それが何の声なのか、もう確かめようとも思わなかった。


 布団に入る。明日は水を探す。それだけを決めた。


 大学がいつ再開するか。電気がいつ戻るか。恐竜がいついなくなるか。世界がいつ元に戻るか――そのどれもが、もう俺の予定には入っていなかった。


 明日、水を探す。それで十分だった。


---


 一か月前、最初の巨大構造物が世界各地へ降りてきた。


 あの一日を、あとから人々はいろいろな呼び方をした。


 第一波。最初の降下。返還の始まり。


 俺がずっと後になって知った呼び名は、そのどれよりも短かった。


 D-DAY。


 あの日から、一か月あまり。


 今夜も空には星が出ていた。


 そして地上からは、人間の灯りだけが、静かに消えていった。

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