第4話 火床の神
その夜、レイナはほとんど眠れなかった。
机の上に置いた鉄片は、しばらく赤く脈打ったあと、何事もなかったように沈黙した。
だが、一度見てしまったものは頭から離れない。
火の色。
鉄の匂い。
槌の音。
そして、喉に引っかかるように残る名。
ヴァルグレン。
知らないはずの名だ。
それなのに、思い出せないだけで最初から知っていたような、不快な感覚がある。
レイナは寝台に横になったまま、天井を見つめていた。
窓の外では、風が木々を揺らしている。
灰灯院の夜は静かだ。
子どもたちの寝息。
遠くの戸板の軋み。
消えかけた火の音。
そういう小さな気配が、ここが生きた場所だと教えてくれる。
それでも今夜は、落ち着かなかった。
眠気が来ても、目を閉じると炉の光景が浮かぶ。
何度目かの寝返りを打った時だった。
部屋の隅に置いた鉄片が、また微かに熱を持った。
赤い、というほどではない。
黒鉄の芯に、炭火のような光が一瞬だけ灯る。
レイナはすぐに起き上がった。
寝台から降り、机へ近づく。
鉄片は黙っている。
だが、近づくと分かる。
熱ではない。
気配だ。
何かを待っているような。
何かを呼んでいるような。
レイナは布で鉄片を包み直し、腰の小袋へ押し込んだ。
今夜このまま寝るのは無理だと分かっていた。
静かに扉を開ける。
廊下は暗い。
灯は最小限しか残していない。
灰灯院は贅沢をしない。
足音を殺して歩く。
途中で一つだけ、戸口の開いた部屋があった。
ユノたち新入りのいる部屋だ。
ユノは大の字で寝ていた。
あの足りないくらいの図太さは、たぶん生き延びるのに向いている。
足を折った少女は、まだ眠りが浅いのか、眉間に皺を寄せている。
幼い女の子は、毛布を抱くようにして丸まっていた。
レイナは少しだけその様子を見てから、視線を外した。
眠れない夜に、他人の安眠は妙に眩しい。
外へ出る。
夜の空気は冷たかった。
門の石柱に灯る小さな火が、いつものように揺れている。
その傍らに、最初からそこにいたように、淡い灯が一つ浮いていた。
「来ると思っていた」
ルクスフェルだった。
今日は灯だけではなく、薄い人影を伴っている。
輪郭は曖昧だが、夜の方がむしろ神らしく見える。
「呼んだのはそっちか」
レイナが言う。
「半分は」
「残り半分は」
「お前の懐の欠片だ」
やはり、とレイナは思った。
隠したところで無駄らしい。
「何なんだ、あれは」
「まだ言えん」
「それしか言わないな」
「今のままでは、お前は自分で結びつけすぎる」
「どういう意味だ」
ルクスフェルはすぐには答えなかった。
代わりに、夜の森を見やる。
風が吹く。
木々のざわめきの向こうに、遠い水音がある。
「人は、分からぬものを勝手に繋げて納得したがる」
ルクスフェルが言った。
「お前は特にそうだ」
「買いかぶりだ」
「自己評価が低いのも相変わらずだな」
「用件がないなら戻る」
「ある」
ルクスフェルの声音が、ほんの少しだけ変わった。
雑談の色が薄れたのが分かる。
「北西の尾根を越えた先に、潰れた鍛冶場がある」
レイナの眉が僅かに動く。
「鍛冶場」
「正確には、鍛冶場だった場所だ」
「誰の」
「古いものだ」
「またそれか」
「事実だからな」
レイナは門柱にもたれたまま、ルクスフェルを睨んだ。
「私に行けと」
「行ってみるといい」
「何がある」
「火床の残り香」
「詩人みたいな言い方をするな」
「神だからな」
「さっきも聞いた」
「良い台詞は何度でも使う」
レイナは小さく息を吐いた。
眠れない夜に付き合わされる相手としては、たぶん最悪だ。
「……その鍛冶場に、ヴァルグレンがいるのか」
問うた瞬間、自分の声が少しだけ低くなったのが分かった。
知りたい。
知りたくない。
その両方がある。
ルクスフェルは灯を細く揺らした。
「いる、とも言える」
「いない、とも言える顔だな」
「勘がいい」
「曖昧すぎる」
「封じられた神とは、そういうものだ」
そこまで言って、ルクスフェルはレイナを見た。
「会えば分かる」
「会いたくないと言ったら」
「それでも、お前は行く」
「なぜそう思う」
「その欠片を拾った時点で、もう足は向いている」
反論はできなかった。
自分でも分かっている。
懐の鉄片は、ただ持っているだけで妙に意識を引く。
火のそばへ行きたがっているような。
いや、火床へ戻りたがっているような感覚がある。
それが気味悪い。
「明日にしろ」
ルクスフェルが言う。
「今夜は駄目だ」
「夜の方が目立たない」
「鍛冶場へ行くのに、目立つも何もあるか」
「ある」
その一言だけ、不自然に硬かった。
レイナは眉を寄せる。
「何がある」
「まだ起きていないものが、夜には起きやすい」
「それも神様言葉か」
「警告だよ」
しばらく沈黙が落ちる。
灰灯院の灯が揺れる。
ルクスフェルはその火を見ながら、ぽつりと言った。
「ヴェルセリアも、昔はこういう夜を嫌った」
レイナの身体がほんの僅かに強張る。
その名を聞くだけで、胸の奥が変に軋む。
知っているはずのない喪失感。
理由のない痛み。
「……その名前を軽々しく出すな」
「軽々しくは出していない」
「私にとっては同じだ」
「そうかもしれんな」
ルクスフェルは否定しなかった。
それが余計に苛立たしい。
「お前たちは、皆そうだ」
レイナは低く言う。
「知っている顔をする」
「そのくせ、私には何も寄越さない」
「寄越しているさ」
「何を」
「帰る場所を」
その一言に、レイナは言葉を失った。
門柱の灯が静かに燃えている。
灰灯院の中には、眠る子どもたちがいる。
ルミエラがいる。
明日の朝がある。
それは確かに、寄越されたものかもしれなかった。
だが、認めるには少しだけ重かった。
「……恩着せがましいな」
「そうでも言わねば、お前は何も受け取ったつもりにならない」
レイナは顔を逸らした。
こういう時だけ、この神は妙に人の奥を刺してくる。
「明日、行く」
しばらくしてから、レイナはそう言った。
「一人でか」
「当たり前だ」
「そう言うと思った」
「誰か連れていけと言うなよ」
「言わんよ」
「ただ、戻る道は覚えておけ」
「お前の領分だろ、それは」
「私も万能ではない」
ルクスフェルはそう言って、僅かに笑うように灯を揺らした。
「特に、お前が絡むと少し怪しい」
「嫌な神だな」
「お前ほどではない」
それで話は終わったらしかった。
灯はふっと薄れ、人影は夜気に溶ける。
残ったのは、灰灯院の小さな火だけだった。
レイナはしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて踵を返した。
部屋へ戻る。
鉄片を机に置き直す。
今度は脈打たない。
ただ、沈黙している。
だが、朝になれば動き出す何かを秘めている。
そんな確信だけがあった。
翌朝。
レイナが食堂へ下りると、ルミエラはすでに察した顔をしていた。
「行くんですね」
開口一番、それだった。
「何の話だ」
「その顔です」
「便利だな、お前」
「長い付き合いですから」
ルミエラはパンを切り分けながら言う。
子どもたちはまだ半分眠そうだ。
ユノだけは元気にスープを啜っている。
「今日は北に行く」
レイナが言う。
「北西の尾根の向こうだ」
「またルクスフェルですか」
「半分はな」
「残り半分は」
「拾った欠片が気持ち悪い」
ルミエラは手を止めた。
それから、ほんの少しだけ真顔になる。
「見せてください」
レイナは懐から布包みを出し、卓の上に置いた。
ルミエラが布を開く。
黒い鉄片。
ただの欠けた武具にしか見えない。
だが、彼女は一目で分かったらしい。
「……嫌なものですね」
「分かるのか」
「理屈ではなく」
ルミエラは鉄片を直に触らず、布ごと包み直した。
「灰灯院の中には、あまり長く置かない方がいいです」
「同感だ」
「子どもたちには見せないでください」
「見せる趣味はない」
ルミエラは小さくうなずく。
「一人で行くつもりでしょう」
「ああ」
「止めても無駄ですね」
「そうだな」
「帰ってきてください」
その言い方は、昨夜の「無理はしないでください」とは少し違っていた。
レイナは一瞬だけルミエラを見た。
彼女は真面目な顔をしている。
ただの習慣の言葉ではない。
「帰る」
レイナは短く言った。
「夕方までには」
「ずいぶん控えめですね」
「夜には戻る」
「それでも遅いです」
「明日の朝には必ず」
ルミエラは呆れたように息を吐いた。
「最初からそう言うんです」
「ユノ、今日の薪割りは昼からですよ」
「えっ、また増えた」
「増えてません」
「元に戻っただけです」
子どもたちの空気が少し和む。
レイナはその隙にパンをひとつ掴み、立ち上がった。
「待ちなさい」
「せめて干し肉は持っていってください」
「いらない」
「いります」
有無を言わせず、小袋を押しつけられる。
レイナは受け取り、肩をすくめた。
「過保護だな」
「帰る場所を守るのが仕事ですから」
その言葉に、昨夜のルクスフェルの声が重なる。
帰る場所を。
レイナはそれ以上何も言わず、背を向けた。
門の外へ出る。
空は薄曇りだった。
北西の尾根は、朝の靄の向こうに影のように見える。
懐の鉄片は、冷たいままだ。
だが、その沈黙の底で何かが待っている。
鍛冶場。
火床。
ヴァルグレン。
知らないはずのものが、自分を呼んでいる。
レイナは歩き出した。
北西へ。
火床の残響が眠る場所へ。




