7.思い出
とある調香師が創った香水がアトルリア帝国で大流行したのは、それから間も無くのことだった。
「ねえ雅。レノは、クラリスさんのところに行ったの?」
「さぁな」
「ふうん。雅には居ないの?コイビト」
無言、無視。解っていたけれど、つまらない反応。レノとは違い、雅と二人のときはいっつもこうだ。
凛はちぇっと聞こえるように言って、もう一度その記事の載った新聞の一面を眺めた。
「皇帝へいかもご愛よう、か」
手元のまあるい小瓶を転がしながら、凛もまたその香りを楽しんだ。いつかのあの“薔薇の幻”とは似ても似つかない、とても優しい匂い。これは、そう。あの空の香水瓶に残っていた香りと同じだった。
「(だから・・・『思い出』なんだね)」
匿名で送られてきた謎の郵便物。初め、物凄く警戒してそれを燃やそうとまでした二人だったけれど、凛はなぜかそれが危ないものだと思えなかった。だって、それに添えられたカードには“あなたがたに万感の感謝を”という文字があり、箱の中からはその想いが伝わって来たから。
「(迂闊だって、雅には怒られたな)」
そしてやっぱり、それを二人に隠れて開いたのは凛で。(その後暫く大バトルだった)
その中に入っていたものこそが、この『思い出』という名の香水だった。
「・・・おい、ガキんちょ」
「ん?」
そのとき珍しく雅の方から話しかけられ、ちょっと吃驚していると、彼は更に吃驚することを言った。
「少し外に出るか?」
「へ?」
外に、って。雅と外に。つまり、雅とどこかへ遊びに行く、ってこと?
凛が頭の中をまだ整理できないで居ると、彼はちょっと面倒くさそうに言った。
「どうする。行くか、行かないのか」
「行くっ!行きます!行かせて下さい!」
レノに押し付けられたとき以外は、凛のお世話係など絶対にしない雅だ。これは滅多に無い機会。何か雅の中に心境の変化があったのか、それともただの気まぐれか。いや、十中八九後者だろうが。
何にしても、いつもなら週末にしか外出は許されないのだ、彼の気が変わらないうちに。
「んとね、デパートと、あとすいぞっかんとね、それと、それと・・・」
「・・・・・・・・」
言わなきゃよかったかも、って。
でも、そのとき解った解ったと凛を宥める彼が微かに笑って見えたのは、ただの思い過ごしだったのだろうか。
***
「どういう風の吹き回し?」
開店前のエルドラドに呼び出すと、彼女はいつもより幾分か華やかさには欠けるが、それでもやはり優雅というに相応しい装いで現れた。ここらへんは、さすが名家のお嬢様だ。
「ちょっとね、渡したいものがあって」
「なあに?プレゼント?」
「ああ。たまには女性に贈り物をするのもいいだろう?」
怪訝な反応をするクラリスを促し、小奇麗な装飾をされた小さな箱を開けさせる。
そこにあった丸い形の香水瓶を馴れた手つきで手首につけると、彼女は驚いた顔をしてレノを見た。
「素敵な香り・・。これ、もしかして『思い出』?」
「そう」
「どうやって手に入れたのよ。どこも人気殺到で、そうそう手に入らないモノのはずなのに」
さあ、どうしたんでしょう。悪戯っぽく言うレノにクラリスは目を瞬かせ、そして面白そうに喉を鳴らした。
「これを私に?」
「まあ、君みたいなお嬢さんには、取るに足らないものかもしれないけど」
「いいえ。そんなことないわ」
貴方から貰ったものなら。クラリスは言いかけて、その言葉を飲み込んだ。
言ってはいけない、彼女の中の何かが、そう言っていた。レノのためにも、自分のためにも。
「ありがとう。嬉しい」
「どういたしまして」
隣に居る美女の憂いなど露知らず、白の青年は満足したように微笑んだ。レノにとっては、彼女からこの言葉が聞けただけで充分だった。
「・・・じゃあ、もう帰るよ。忙しいのに、いきなり呼び出したりしてごめん」
「もう・・行っちゃうの?」
「ああ。家であの子が待ってるから」
あの子。彼が言う「あの子」など、一人しか居ない。
人当たりがいい割に決して誰にも興味を持たない彼が、初めて傍に居ることを誓った特別な存在。
その愛情が性愛などの類のモノではないのはよく判っていたが、それでもクラリスは一抹の寂しさを抱かずにはいられなかった。
だがレノがクラリスに背を向けようとしたちょうどその瞬間、彼のポケットに入っていたモバイル・セルが音をたてて震えた。
「もしもし・・・みーちゃん?」
「俺だ」の声に、正直、レノは驚いた。何ゆえ電話嫌いの相棒が、わざわざ自分の携帯に連絡を寄越したのか。
そしてその滅多に無い相棒からの電話というのは、あまりに端的なものだった。
『これから、デパートと水族館と中央公園と・・・あー・・とにかくその他もろもろに行ってくる。ガキんちょも一緒だ。帰りは夕方にはなるだろう。以上』
ぶつん。
・・・いや、端的過ぎるにも程があるだろう。エルドラドに行くことは彼に伝えてあったから、万というか億に一つぐらいの確率で、気を遣ったのかもしれないけれど。
「・・・ミヤビから?」
尋ねてくるクラリスに肩をすくめる仕草をして答える。
お姫様と外出とは、みーちゃんもまた凄い勇気だ。どうせげーーーっそりとして帰ってくるのだろうけど。
「・・・と、いうわけで。オレは今から夕方までフリーになりましたが」
「そう」
クラリスはすうっと眦を下げ、ほんの少しだけ笑った。「どうしましょう」と考え込むふりをしながら、棚からグラスを一つ取って、言った。
「なら・・・飲みに行く?久しぶりに」
「それ、いいかも」
二人で頭を寄せて笑う。お日様がまだ燦々と輝いているこの時間に、というのは敢えて突っ込まない。
それに、正しく言えば、それは「ここで飲まない?」の間違いだった。




