第八十六話 夏空にふたりきり
透人が魔法の勉強を始めてから数日。
多くの知識を蓄え、そろそろ次の段階に進む頃合い。
そう考えた彼はアンナ宅を訪問する前に自室でその成果を確認していた。
テーブルの前に胡座をかいて座り、手に何も持たず「召喚」と小さく呟く。
「うん、成功」
その直後、手の中に出現した棒手裏剣を握り、満足げに頷く。
アンナが箒を、ヴァレンが武器を出現させたものと同じ物質を呼び寄せる魔法だ。
これで常に持ち歩く必要はなくなったわけである。
手応えを噛み締めた透人は次の実験に移る。
「変形、ナイフ…………よし」
細長い針のようだった棒手裏剣が短い刀身のナイフへと形を変えた。
物質の変形。複雑で大きな魔法陣が必要だった、そこそこ難しい魔法だ。変形というか明らかに質量が増えているが、それが魔法というものだろう。
ただこの魔法、実際に使い道があるかは分からない。
それなのに何故わざわざ実行したかと言えば、単純にやってみたいと思っただけなのだ。
だから透人はしばらく達成感に浸っていた。
理屈よりも感情や好奇心で動く男である。
その後も準備していた魔法をひととおり試し、無事発動する事を確認したところで作業を一旦終了した。
お茶を飲んで休憩しつつ、窓から空をぼけーっと見上げる。
「ん?」
上空に人影らしきものを発見し声をあげた。
箒で空を飛ぶアンナかとも思ったが、二人いたような気がして疑問に感じる。
他に誰がいるだろうか。清慈郎ではないだろう。
そもそも人影だと思ったのは気のせいだったかもしれない。
そこで霊視の出番だ。
生じた疑問を解決すべく意識を集中し、上空の魂を感じとろうとする。
がしかし、距離が遠すぎて正確に把握出来なかった。
「ん、んん~…………まあ、仕方ないか」
透人は苦渋の決断で諦めると、気を取り直して魔法の実験を再開する事にした。
*
「カレンちゃん、遊びに行こ!」
カレンがアンナの誘いを耳にしたのは、リビングでゆっくりお茶を飲んでいた時だった。
二日続けて同じ台詞。
しかしカレンは昨日と違って落ち込んではいない。
どうしようもないと思っていたあの暗い心情はなりを潜め、随分気が楽になっている。
それはきっと昨日一日遊んだおかげ、アンナの友達である早喜の言う通りに従姉の気遣いの賜物だろう。
だが、まだ駄目だった。完全に晴れた訳ではない。
ふとした拍子に暗闇の記憶が顔を覗かせては、もう大丈夫だと錯覚していた気持ちを奪ってゆく。
楽になる事は許されない、と。
未だ抱える事情を打ち明けられないでいた。
それなのに、こんな誘いだけには応じる。
本来なら断る理由なんてないのに断ったら更に気を遣わせてしまう、と自分に言い訳して厚意にすがりつく。
そんなくだらない弱さからくる自虐心を、作り笑いで誤魔化しながらアンナに尋ねる。
「今日も早喜さんと遊ぶの?」
「んーん。今日は久しぶりに二人で空を飛びたいな、って」
「……え?」
ごく自然に当たり前の発言をしたような雰囲気のアンナ。彼女を前にしたカレンはぽかん、と小さく口を開き呆気にとられたような顔で固まった。
それから間もなくして。
アンナに言われるがままに動きやすい格好に着替えると、二人揃って広い庭へ出た。
空は青と白が混ざりあった斑模様。雲で熱い日射しは抑えられている。風も吹いており、心地好い気候だ。
鮮やかな花壇の前に空いたスペースに立ったアンナは短い言葉を唱える。
次の瞬間に忽然と現れた、年季の入った二本の箒を見てカレンは苦笑を漏らした。
「アンナちゃん。まだそれ使ってたんだね」
「ふぇ? うん、そうだよ?」
意図が掴めないのか、不思議そうな顔でアンナは言った。
箒に飛行能力を与える魔法は相当古い。時代と共に廃れていったものだ。
直接身一つで飛ぶ魔法より制限がある上、飛ぶ魔法をかけるのなら他にもっと乗りやすい物がいくらでもあるからだ。
だがアンナはよっぽど気に入ったらしく、昔からこれが好きだと言って譲らなかった。変な所で頑固なのだ。
両親が存命の頃にカレンは半ば強引に乗り方を教えられ、何度も飛行に付き合わされていた。
もっとも、当時からその遊びは嫌いではなかったのだが。
ただし、問題は箒だろうと何だろうと空を飛ぶ事それ自体だ。
「それより……いいの? こんな街中で目立つ魔法使って」
「大丈夫だよ。見えないように誤魔化す魔法があるから」
「そういう問題じゃないんじゃないかな……」
明るい従姉に対して、カレンは困ったような顔で呆れ気味に返した。
世間に発覚しなければいいというのは甘い考えだ。
子供の頃は人目を避けた場所で行っていたが、今思い返すとそれも危険な行為だった。
魔法使いならばもっと慎重になるべきだろう。
とはいえ頑固なアンナは譲らないだろう。
それに伯母のジニーもいってらっしゃいと送り出していた。公認しているという事だ。隠蔽に手を貸しているのかもしれない。
そうまでして飛ぶという行為にこだわりたいらしい。
「どうしたの?」
思考を巡らせていたところに声をかけられ、そちらに視線を向ける。
するとそこには、既に低空を浮遊している箒に乗るアンナの姿があった。
それを見たカレンは大人しく諦めた。
こうなったら楽しく付き合おうと、昔の記憶を思い出しつつ魔法を発動する。
少し不安だったが、魔法をかけられた箒は跨がる体ごとふわりと浮かびあがった。随分と使用していなかったが、無事に機能してくれたようだ。
「どう? 大丈夫? ずっと乗ってなかったんだよね?」
「うん。大丈夫。平気だよ」
カレンは同じ事を心配していたらしいアンナを安心させようと力強く返答した。
ほっとした顔の彼女は期待に満ちた弾んだ声で宣言する。
「よかった。それじゃあ行くよ」
そして何処までも高く続く空へ向かい、颯爽と飛び上がった。
初めは軽く走る程度の速度。それから段々と加速していく。
強くなる筈の風圧、気温や気圧の変化は魔法のおかげでほとんど感じない。
大した苦労もなくあっという間に地面を置き去りにし、建ち並ぶ家々がミニチュアのように小さくなる。
ある程度の高度に達すると、遥かな上空へ進んでいた軌道を水平方向に変えた。
その際、前方で先導するアンナからはしゃいだ声が聞こえてきた。
「風が気持ちいいねー」
「うん。そうだね」
見渡す限りの青と白。世界にはたった二人しか存在しないと錯覚させられるような光景だ。
それでも寂しくないのは二人並んで飛んでいるから。
ゆったりとしたペースで心地好い風を感じながら、まるでサイクリングのように楽しむ。
そうしてお喋りを交えながら悠々と飛行を続けていたところに、笑顔のアンナが提案してくる。
「もうちょっと速くしようか」
そしてアンナはぐん、と一気にスピードを上げた。
風を切り、追いこし、並走する。
自動車よりも速くなっただろう。
かなりの速度での飛行にカレンは内心怖がっていた。だが懸命に食らいつき、スピードを緩めたりはしない。
日光を受けてキラキラ輝く髪をなびかせるアンナが声をあげて笑っており、楽しそうだったからだ。
「ちょ、ちょっとアンナちゃん! ストップストップ!」
だが、流石に限度というものがある。
上機嫌な彼女がアクロバット飛行まで披露し始めたところでついていくのを諦めた。
それでも声が耳に届かなかったのか、アンナは止まらなかったのだが、カレンは観客に徹して拍手を送った。
懐かしい。
今と同じように空を飛ぶ事が上手だったアンナに頑張ってついていった昔の思い出が甦る。
ただただ無邪気なあの頃は楽しかった。
回想しながらゆっくり飛んでいると、速度を落としたアンナが傍に箒を寄せてきた。
「ごめんねカレンちゃん。なんだか楽しくなって一人で行っちゃって……」
「ううん、格好よかったよ」
「そう? じゃあ、そろそろ休憩にしようか」
「うん、そうだね」
彼女の提案をカレンは快く承諾。
まだ開始から三十分程度しか経っていない。しかし魔力だけでなく体力もかなり消耗してしまうので丁度いい頃合いなのだ。
アンナが魔法で床を造ったので、二人でそこに降り立つ。
座ったアンナは早速鞄をゴソゴソと漁り出した。取り出したのはアイス。二つに分けられるものだ。
パキン、と小気味良い音を響かせて割り、その内の一本を差し出してくる。
「はい、カレンちゃんの分だよ」
そう言うが早いか、己のアイスにかじりつき味わう。それから今日は隠れがちの太陽よりも眩しい笑顔を見せた。
「ほら。食べよ?」
「うん」
促されたカレンも、小さく一口。
風が吹いているとはいえ暑い環境では冷たいアイスは至福の一品。
アンナまではいかずとも美味しそうな顔で楽しんだ。
「ね、カレンちゃん」
その途中、いち早く食べ終えたアンナが唐突に切り出した。
「私はまたこうして遊べて……楽しくて嬉しい。カレンちゃんはどうかな? もし同じこと思ってるなら、何回でも遊ぼうよ。家が遠くても遊びに来て、一緒に遊ぼうよ」
明るく眩しい笑顔で言われたその台詞を耳にして、カレンは改めて実感する。
何処か抜けた天然な所も。なんでも美味しそうに食べる所も。不便な箒が好きな所も。無茶な飛行が好きな所も。意外と頑固で強引な所も。
全く従姉は変わっていない。
変わってしまったのは自分の方だ。
卑屈に歪んで心から笑えない。
到底受け入れられる筈がないと思い込み動けない。
こんな温かい世界にいる資格はないと暗闇に閉じ籠る。
そんな自分はやっぱり眩しい従姉の隣にはいられない。
それでも。
『もっとアンナに甘えてやれよ』
昨日の早喜の言葉が頭をよぎる。
背中を押すように優しく囁いてくる。
底に押し込まれていた気持ちが膨れあがる。
弱って傷ついた心が抑えていた言葉が溢れてくる。
青と白の世界に二人きり。
隣でにこにこと笑っている、頼れて甘えられる存在をより強く意識してしまう。
もう、止められない。
嫌われたくないのは好きだからだ。
カレンだって、またこうして遊びたいと思っている。
いつまでもこんな日々が続く事を求める声が、嫌われる恐怖よりも上回った。
「アンナちゃん……」
「なに? なんでも言っていいよ」
口をついた弱々しく震えた声に応えたのは優しげで柔和な声。
待っていたと言わんばかりの包み込むような笑みで発せられたそれが、ぐらついていた心を固める最後の決め手となった。
励まされ、諭され、背中を押されてようやくだ。
どんなになったところで軽蔑するような人間じゃない。もしされるようならその人は求めていた人間じゃない。
ごくりと唾を飲み込み、覚悟を決める。
喉から心から、限界まで絞り出すように。アンナにしっかり伝えられるように。
止められない震えを隠そうともせず、しかしそれに負けないよう大きな声量でもってカレンは懇願する。
「っ……助けて……」




