第四話 振込:鍵を渡されたのに、どこのドアかわからない。
今回は航の視点に戻ります。退職手続きを終えた後の話です。
全十二話完結。最初からお読みでない方は第一話からどうぞ。
川沿いのベンチに座っていた。
谷口航がここへ来るようになったのは、退職手続きを終えた翌週からだった。特に理由はなかった。家にいると画面が目に入る。画面を見ると、何かを確認したくなる。確認すると、また別の何かが出てくる。それが嫌だった。
川には水があった。流れていた。それだけだった。
スマートフォンが振動した。通知だった。「口座への入金のお知らせ」。送金元は「NLAS-AUTO」とだけ書いてあった。金額は、前の給料の三分の一ほどだった。誰が、どこから送ってきたのか、書いていなかった。ただ数字だけがあった。
航は画面を閉じた。
隣のベンチに老人がいた。七十代くらいで、パンを小さくちぎって鳩に投げていた。鳩は三羽来て、また三羽来て、いつの間にか十羽を超えていた。老人は気にしていなかった。
しばらくして、老人が言った。「あなたも今日ですか」
航は少し間を置いた。「何がですか?」
「振込」と老人は言った。「朝から四人来て、みんな同じ顔してた。あなたで五人目だ」
航は何も言わなかった。
「悪いことじゃないですよ」と老人は続けた。「もらえるんだから」。パンのかけらを一つ投げた。鳩が一斉に動いた。「ただ、なんというか」
老人はそこで止まった。
「なんというか」と航は繰り返した。
「鍵を渡されたのに、どこのドアかわからない感じがする」
航はベンチの背にもたれた。空は晴れていた。風は南から来ていた。
スマートフォンがまた振動した。今度は凌からのメッセージだった。「連絡できてなくてごめん。元気?」。三か月ぶりだった。
航は画面を見たまま、返信しなかった。
老人が立ち上がった。パンの袋をたたんで、ポケットに入れた。「毎日来てるんですよ、ここ」と言った。「やることがなくなってから」。それだけ言って、ゆっくり歩いていった。
鳩が散った。
航は川を見た。水は変わらず流れていた。口座には金がある。仕事はない。息子からメッセージが来ている。どれにも返事のしかたがわからなかった。
ただ、鍵を渡されたのに、どこのドアかわからない。
老人の言葉だけが、しばらく残った。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
口座には金がある。でも何かが違う。その感覚を書きたかった話です。
第五話に続きます。




