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凡人信長記  作者: 梵天丸


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夢か現か

「大儀であったな」

 信長の端正な顔が、燃え盛る炎に照らされている。

 焼き討ちの首尾を誇らしげに報告する光秀には目を向けず、炎を見つめたままそっけない一言を返すだけの信長に対して、光秀はあからさまに不満の表情を浮かべたが、それにも信長は気付かぬ様子である。一体何に気を奪われておるのやら、と光秀はあらためて自分の主君の表情を読み取ろうとしてみた。


 元亀二年(1571年)九月十二日、日暮れ前にはじまった比叡山延暦寺の焼き討ちであったが、延暦寺側の抵抗が収まる頃には夜もすっかり更けていた。闇夜にもかかわらず、荘厳な造りで知られた根本中堂や大講堂をはじめとした、数々の堂宇がことごとく燃え上がる炎によって、辺りは昼間のように明るかった。しかし燃え上がる炎を見つめながら光秀の前に立つ信長の顔には、ここ数年何かと信長を悩ませてきた難敵を屈服させた喜びの色は浮かんでいない。

 ただ一言「大義であった」と述べたのみで、自分の顔も見ようとしない信長を見つめながら、(もしや、臆したか?)と光秀は思った。

 元々、比叡山延暦寺を焼き討ちにし、抵抗する僧兵だけでなく学僧や立て篭もる寺領の住民たちも『根こそぎ撫で斬りにすべし』と提案したのは光秀である。光秀の提案を聞いたとき、信長はひとしきり眉根を曇らせて考え込んだ様子であったが、考えがまとまるといつものように快活な笑顔を光秀に向けて、『良案である。陣頭の指揮も十兵衛(光秀)に任せよう』と言ったのである。その言葉に応えるように、今日の焼き討ちも文字通り張り切って勤めた光秀であった。

 当然信長から懇ろにお褒めの言葉を頂けるものと思っていた光秀にとって、信長のそっけない態度は不可解以外の何物でもなかった。そこでふと(御屋形様はひょっとして事の次第に臆したのではないか?)との疑念が頭に浮かんだのだった。


 その時、信長は燃え盛る堂宇から目を逸らし、自分の左右に控える重臣たちを見回した。さらに後ろを振り返り、本堂が燃える様子を確認した。光秀の目には炎に照らされた信長の横顔が見える。やはり喜んでいるようには見えなかった。若い頃から変わらぬ整った顔立ちは脳面のように無表情で、その目には怖れの色さえ浮かんでいるように思えた。

(戦国の風雲児も、流石に仏罰を恐れるのか?)

 光秀の心の中に、初めて主君に対するほんの小さな落胆が生まれたようである。光秀はそんな自分に少しばかり狼狽する。

「捕らえた者どもの始末がございますので」

 主君に対する初めての感情を振り切るように、光秀は次の作業へ移ろうとする。

「うむ」

 下がろうとする光秀に対して信長は顔を向けもせずに応えた。


(我が殿ともあろうお方が、この程度の所業で臆するようでは困る!)

 信長の面前から下がって歩き出すと、光秀は自分が無性に腹を立てていることに気がついた。特に名門の家中や有力国衆の生まれでもない光秀にとって、どのような主君に仕えるかはまさに死活問題である。そしてこれまでの自身の選択には間違いは無かったと自負してきた光秀であったが、信長への小さな落胆によってその自負が揺らごうとしている。信長より六歳年長の光秀はこの年で四十四歳になった。もう新たな選択をする余裕のある歳ではない。

(いや、待て。信長様ほどの器量の方が他にいるか?いや、これまで儂が織田家中でしてきた苦労はどうなる?)

 光秀はその場に立ち止まると、腰に手を当てて大きく深呼吸する。

(儂としたことが、短気を起こしてはいかん。考えようによっては主君に頼りないところがあったほうが、仕え甲斐があるというものだ)

 そう思うと自然と口元には薄い笑みが浮かぶ。

(そうだ。名だたる駿馬でも戦さ場で脚がすくむこともある。駿馬に見合った御者がおらねばまともには走らん)

 天下に名だたる延暦寺を焼き討ちするというのは、仏の教えやそれを取り巻く文化が生活と密接に繋がっているこの時代では、相当な傑物でも臆する気持ちがあって当然である。しかし、そのような所業を臆することもなく行なった光秀は、信長が少なからず動揺を見せたことで、主従関係を超えて精神的な優位に立てたようが気がしてきたのだった。

(うむ。これは面白くなってきた。これからは儂が殿を導いてやれば良いではないか!)

 光秀はそう思い直すと、山門へ降る石段へ意気揚々と足を踏み出した。

 ところが!なぜかそこにあるはずの石段がないのである。空足を踏んだことに驚いて足元に目をやると、そこにはただ真っ暗な闇が大きな口を開けている。と同時に身体がフワリと空中に投げ出されるのを感じる。

「あ!」

 光秀は小さく叫んで虚空に手を広げて何かを掴もうとしたが、すでに身体がふわりと空中に投げ出されている。


「殿!」

 身体が『ビクン』と躍り上がって、危うく馬から転げ落ちそうとするところ、脇の下を乱暴に支えられて我に帰った。すんでのところで腹心の斉藤内蔵助利三に支えられたことに気がついた。

「あ、危なかった、、、」

「馬上で居眠りとは殿らしくもない。落ちたら怪我ではすみませんぞ。武門の恥として末代までの語り草になりますわ」

 利三の口調も思わず厳しくなる。

 光秀は昨夜まで色々と思い悩んでいた。いや昨夜だけではない。それでここ数日はよく眠れていなかった。道を照らす松明の光と熱で顔が火照ってくると、急に睡眠不足による睡魔が襲ってきた。馬上で揺られているうちにいつの間にかうとうとして、夢を見ていたらしい。

「内蔵助。かたじけない。お主にはいつも助けられてばかりだの」

 咄嗟に取り繕ったが、心臓はまさに口から飛び出そうな勢いで鼓動している。背中の筋を冷たい汗がすうっと伝って流れた。しかし、なぜ今ごろ延暦寺の夢を見たのか、光秀は不思議な思いであった。

 天正十年六月一日の深夜、光秀は丹波亀山から京へ向かう山中にあった。


 比叡山延暦寺の焼き討ちは、既に十年以上も前のことである。

 夢の中に出てきた、あの夜の信長の態度とその時に自分の中に生まれた決意は、その後の光秀の人生を大きく前進させたと思う。織田家中では新参者であった光秀が、いつしか家臣団の中で第一人者的な地位を占めるようになったのも、信長の足りない部分を自分が巧みに補い、時には叱咤もしながらその権力の拡大に寄与してきたからである。そしてそれが出来たのは、あの夜信長の『怖れ』を見たことで、光秀の心の中ではそれまでの主従関係という枠を飛び越えることが出来た、有り体に言えば主君である信長を適度に見くびることが出来たからだというのが、光秀の人には言えない自負であった。

 重大な決心を胸に抱えた今、あの夜のことが夢に出てきたことは、今宵心だけでなく実態としても信長を越えようとしている自分の決断が正しいこと、そしてその成功が暗示されているように思われた。

(自分の決断は間違いではない!)

 改めてそう思うと無意識に口元に笑みが浮かび、これまで自分の両肩に重くのしかかっていた荷物が、ふと軽くなったように感じた。


「殿、少し休まれては?沓掛を過ぎれば下り道ですが、下り出すと足並みが速くなって休息のきっかけが掴みづらくなります」

 丹波亀山城を出て柴野で兵の検分をしたのが、酉の刻(午後6時ごろ)。老の坂峠を越えて西国と京との分かれ道である沓掛に近づいているが、時は間もなく子の刻(午前0時)である。出発してからすでに六時間近く、途中いくつか小休止を挟んではいるが、腹も空いてきている。

「そうだの。皆にも兵糧を摂らせよう。馬にも飼葉を与えよ」

「休憩じゃ!腹ごしらえをせよ!」

 利三が命じると、休憩を命じる声が次々に繰り返されて、峠道を伝って行軍の後方へ遠ざかっていく。雑兵や荷役を含めれば一万を超える軍勢である。峠道を二列縦隊で進んできたが、歩くうちに足並みも乱れるし、兵糧を満載した荷車の前後では間隔も広がる。光秀の率いる軍勢は、気がつけば二里(8キロメートル)をゆうに超える長い行列となっている。

 それでも、休憩との声が伝わるにつれて、行列のあちこちから安堵の声が漏れると共に、微かに笑い声なども聞こえ出し、行軍の緊張が緩む気配が辺りを包んでいく。


 光秀は利三を伴って馬を降り、峠道に沿って立っている杉の木に手綱を結えると、杉の並木の先に少し開けている窪地へ足を向けた。真っ平ではないがそこそこに開けた草地となっているようで、ここならば数人が焚き火を囲んで休息を取ることもできそうである。

「そうじゃ。少し話があるから、左馬助(さまのすけ)(従兄弟の明智秀満)や主だったものを集めてくれんか。」

 光秀は利三の方へ顔を向けもせず、何気ない調子で声をかけた。

「腹ごしらえをしながらでも良いですな。すぐに焚き火を用意しましょう」

 長年に渡って肝胆相照らして付き合ってきた仲である。利三もいつもの気の置けない態度で応じた。近習の一人に重臣たちを集めるよう指示し、皆が集まるのを待つ間、他の近習が焚き火の準備を始めるの二人で並んで眺める格好となった。六月とはいえ真夜中の山中である、行軍で軽く書いた汗が冷えれば思いの外肌寒くも感じる。

「寒くはござりませんか?」

 利三が尋ねながら光秀の顔を覗き込むと、光秀はその声が聞こえなかったように焚き火を見つめている。そして、その瞳には何かしらの決意を感じさせる、妖しい光が揺らめいていた。その光に思わず息を呑んだ利三は、これから何か大きなことが始まる予感に身を引き締めた。


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