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試合前夜と試合当日

決戦前夜、草薙先生は最後の仕上げだと言う。

これまで僕はコンニャク踊りを中心に稽古をしてきたけれど、この上まだ仕上げがあるのかと感心してしまった。


「よし、太一郎。床に仰向けになって寝そべるんだ」


いいのかな? と思いつつ先生の言う通りにする。そして目をつぶれと言われた。


「これから先の稽古は、水になる稽古だ。水の入った革袋である自分を自覚する稽古でもいいんだが、水になるイメージの方が分かりやすいだろう」


水になる……水になる……水になる……。


「まず最初に、鼓動を感じろ。身体の中を流れる血液に耳を澄ますんだ」


最初は鼓動。ヒジの内側、こめかみ、首筋で脈打つ鼓動がトク……トク……。うん、ある。そして呼吸をする度に、胸の中で心臓が動いているのを感じる。

次は血液の流れ……これは聞こえないや。いや、草薙先生のことだ、耳で聞こうとするから聞こえないんだとか言うだろうな。だったらどうしよう?

外界からの情報を断って、自分の体内に意識を集中する。

外界……皮膚の外……。床板の感触……重みを支える筋肉……。あ、ひとつ内側に入った。

筋肉は肉、まな板の上に置いたら、ベッタリと寝そべるだけ。僕の筋肉がそうならないのは何故? 骨があるからだ。骨……硬い骨……。またひとつ内側に入る。

血液の流れはどこだ? 耳を澄まさなければ聞こえてこない。


「先生、さすがに血液の音は聞こえてきません」


「耳で聞こうとすれば聞こえないさ。それよりも自分の重さを感じるかな?」


「それは、分かります」


「水の入った革袋だからな。流れもしなければ動きもしない。だが呼吸で取り入れた酸素は血液に乗って身体の隅々まで運ばれる。追いかけてみろ、腹式呼吸でだ」


腹式呼吸……お腹をふくらませて息を吸い、お腹をすぼめて息を吐く。血液の流れや酸素の流れを追いかけることはできなかったけど、身体中に酸素が行き渡っているのは自覚できた。手の指先、足の指先までリフレッシュしていく。


「どうだ? 追跡はできたか?」


「上手くいきませんでした」


「よし、立ってみろ」


言われて立ち上がる。なにか新鮮な気分だ。


「自覚は無いかもしれないが、太一郎。お前はもう水になっているぞ」


それが腹式呼吸の効果なのか? 確かに、一挙手一投足が水の流れになっている感覚だ。


「その呼吸を忘れずに、まずはコンニャク踊りからだ」


スッと垂直に腰を落として、そこから小さな流れが生じるように足を運ぶ。足裏、床に体重をかけると、反作用のように脚に力がみなぎった。力は波、波は響く。足から生じて腰へと届く響きを、上半身で増幅させる。

身体が自然と波打った。両腕は渦を巻き、何もかもを巻き取ってしまうだろう。波にまかせて足を運び、身をくねらせて前進、前進。壁のクッションにもたれかかる。

クッションは水袋じゃない。だから響いていかない。だけどこれがもし、人間の身体なら? きっと僕は相手の中の水を響かせ波打たせていただろう。

僕も相手も同じ水。皮一枚で隔てられた僕と彼に別れているけれど、同じ水なんだ。

……………………。


「よし、その呼吸を忘れるな。明日は俺たちがセコンドについてやるからな」


「はい、ありがとうございます」


素直にそんな言葉が出た。





そして帰り道、ここまで出番の無かった相田さんを送って帰る。


「……なんだか文化祭、あっという間だったね」


相田さんが言う。

僕たちのクラスは模擬店で和風茶屋をやった。準備であれこれ忙しく、開店してからもあれこれドタバタだったような気がする。


「相田さんもがんばってたね」

「がんばらないと、不安だったから……柳原くんの試合まで、あと二日、明日はもう試合なんだって……私が不安がること無いのにね」

「だけど藤堂くんのウエイター姿は、様になってたなぁ。半袖のYシャツから太い腕が伸びて、肩幅や胸板もすごかったし」

「え〜〜!? 藤堂くんはちょっと怖いよ♪ 私はあんまり威圧感の無い人の方がいいなぁ……」

「あ、信号。赤だよ」

「…………………」


それっきり、会話が途切れてしまった。お互い話題も無く、家まで送り届ける。


「それじゃあ柳原くん、明日はがんばって! ……じゃない、これは禁句だったっけ」

「そうなの?」

「うん。出雲さんがね、あのヒョロガリに頑張れは禁句ですわ。テキトーに流して来なさい、くらいで丁度いいんですのよ。……って」

「リラックスがウチの極意だからね。じゃあ、また明日学校で」

「おやすみ、柳原くん」






そして当日の朝。……いかん、闘志が燃えている。落ち着かせなきゃ、腹式呼吸だ。スーーッと吸ってハーーッと吐く。大きく、ゆっくり。数回繰り返して全身リフレッシュ。闘志にみなぎっていた朝の生理現象も、どうにか落ち着きを取り戻す。

本当は腹式呼吸なんかしなくても、トイレで用を足せば勇ましさもおさまるんだけどね。

さて、制服に着替えて稽古着を風呂敷に包み、スポーツバッグに入れる。上衣と下衣は柔道着のように折り畳み、袴は剣道方式で畳んだ。

行ってきますと家を出て、いつもの通学路。出雲鏡花が立っていた。


「おはようございます、柳原さん」


今日、決戦に挑むものをに対しての挨拶としては、あまりにそっけない。

だけどそれでいいと、僕は思う。僕の信念としては、今日もこの通学路をいつものように帰って来るつもりなのだから。だから「決して帰って来ない者に対する挨拶」ではなく、いつものようにそっけない挨拶が好ましいのだ。

二人で並んで歩いていると、今度は草薙先生。


「よ、一般入場には少し早いけど、見送りに来たぜ」


セコンドについてくれるつもりなのだろう。クーラーボックスにプラスチックのバケツ。なにより服装がTシャツにジャージ姿である。

三人で並んで歩く。三人ともが無言だ。

そして学校が近づくと、相田さんが待っていてくれた。


「おはよう、柳原くん」

「おはよう、相田さん」

「いよいよだね……」

「あぁ、そうだね……」


初めて試合について触れる言葉。出雲鏡花からも草薙先生からも出て来ていない言葉。

僕と相田さんで並んで歩く。草薙先生と出雲鏡花は三歩下がった位置だ。


「……学校、着いちゃったね」

「楽しい文化祭の最中だよ?」


僕が言うと、相田さんはショートカットの頭を振った。


「楽しいなんて浮かれてらんない! ……柳原くんの努力が報われるかどうかの一日なんだから!」


まるで自分が死地へおもむくかのように、相田さんの横顔は凛々しく神々しい輝きを放っていた。

草薙先生を置いて、僕たちは校舎へ入る。下駄箱の玄関から教室まで、今日の試合でもちきりだ。いや、教室に入ると話題は一気にヒートアップしていた。

クラスのみんながやたらと興奮したように、声高に語り合っている。そして藤堂くんの周りには、陽キャの面々と陽キャグループに入りたがっている連中が取り巻いていた。


「藤堂、秒殺だぜ! 秒殺! あんなチビとっとと仕留めくれよ!」


無責任にあおる、不良未満。


「秒殺じゃねぇだろ、瞬殺だよな、瞬殺!」


秒殺も瞬殺も結果に過ぎない。そんなことも分からないのは、本当に闘ったことのない人間だから。

だけど藤堂くんはいちいち受け答えしている。かわいそうに、僕との試合には集中できなさそうだ。

だけど僕の元にも、陰キャなみんなが集まってきた。


「ややや、柳原くん! 藤堂くんなんてやっつけちゃってよね!」

「あらあら、勝負というものは時の運ですわ。それよりも柳原さんに集中する時間を与えてくださいな」

「そーだよ、周りがあれこれ言って、柳原くんが負けたら責任とれるの?」

「いや、僕はそんなつもりじゃなくって、あくまでも柳原くんを励まそうと……」

「わかっておりますわ。ですが今はそっとしておいてくださいまし。それともみなさんは、自分で闘いもしないのに無駄に煽るあのような……」


出雲鏡花、藤堂くんの取り巻きたちをアゴで示す。


「無責任な輩に堕ちたいんですの?」


その一言で、僕の周りから人がいなくなった。よかった、これで集中できる。腹式呼吸……腹式呼吸……。

今日は僕が試合ということで、模擬店のシフトはクラスのみんなが交代してくれた。どうやら藤堂くんもそのようで、道場の方に移動したらしい。僕はといえばひと気のない図書室で一人、ぼんやりと今日の試合をシュミレーションしていた。

う〜〜ん、想像の中でも藤堂くんは強い。もしかしたら本当にコテンパンにやられてしまうかもしれない。ただ、ひとつだけ有利な点がある。

それは彼が柳心水袋流を知らない、という点だ。あるいは総合格闘技のように、タックルを仕掛けてくるのでは?

と考えているかもしれないという点。僕がタックルのそぶりを見せれば、案外簡単に引っかかるかもしれない。

だけど僕に危険な戦法が無いと踏んだら、一気に出てくるんだろうなぁ……。

ちょっと憂鬱な気分。すると相田さんが急に微笑みかけてきた。


「柳原くん、お昼にしない?」

「え!? もうそんな時間!?」


廊下が賑やかになっていたから、一般客が入っていることはわかっていた。だけどもうそんな時間になっていたとは……。つまり、試合まであと二時間少々。

クラスの模擬店に入って出来合えのサンドウィッチを食べる。ごく少量だ。あとはオレンジジュース。あまり満腹にはしない。僕が相田さんと食事をしているのを見て、何か言ってくる奴もいたけど、相手にするのも面倒くさい。とにかく集中したいんだ。

食事が済んだら男子トイレで着換え、稽古着の上下に袴を履いて、黒帯を締める。


「うん、イケるイケる!」


トイレから出てきた僕を見て、相田さんは笑って言った。僕はできる限りの微笑みを返した。

僕の準備はすべて整った。あとは試合開始の太鼓を待つだけだ!


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