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由良紬葵は、夕暮れに秘密を分かち合う①

十一月半ば。


澄みきった青空の下、天ノ川女学院はいつも以上に凛とした空気に包まれていた。


黄金色に色づいた銀杏並木を抜ける風は冷たい。それでも登校する生徒たちの姿勢は乱れることなく、コートの裾を揺らし、優雅に正門をくぐっていく。


今日、この学院では年に一度の芸術鑑賞教室が催される。


一般的な学校でいう校外学習や芸術鑑賞会とは、意味合いが少し違う。


天ノ川女学院では、芸術に触れることそのものが教養であり、作品をどう受け止め、何を感じ取るかもまた令嬢としての資質の一つと考えられていた。


学院が長い年月をかけて受け継いできた文化に触れ、自らの感性を磨く日。


それは授業であり、同時に伝統ある学院が大切に守り続けてきた、一つの行事でもあった。だからこそ、生徒たちの装いも普段より少しだけ改まっている。


制服は変わらないものの、リボンの結び方やブレザーの着こなしまで丁寧に整えられ、一人ひとりが学院の看板を背負っているという自覚を漂わせていた。


そんな中、私は鏡の前で何度目になるか分からない制服の襟を直していた。


「杏奈、まだ緊張してるの?」


後ろから優しく笑う声。振り返るとママが、コーヒーカップを片手にこちらを見ていた。


「芸術鑑賞って聞くと、なんだかすごく難しそうで」


そう答えると、ママは小さく肩をすくめ、カップをテーブルに置いて近づいてきた。


「難しく考えなくてもいいのよ。でもね──」


リボンを整えてくれ、少しだけ真面目な表情になった。


「背筋だけは伸ばしていなさい」


「え?」


「ああいう場所は、作品を見るだけじゃないわ。あなたたち自身も見られているの」


私は反射的に姿勢を正した。


「天ノ川女学院の生徒がどんな振る舞いをするのか。学院の外から招かれた先生方は、案外そういうところまで見ているものよ」


それは看護師として多くの人と接してきたママだからこそ出てくる言葉だった。


「あなたが何を感じるかは自由。でも、その自由を支える礼儀だけは忘れちゃ駄目」


私はゆっくり頷く。すると横から、エプロン姿のパパが顔を出した。


「杏奈ちゃん、今日は狂言らしいね」


相変わらずのふわふわした笑顔だ。


「パパ、狂言って観たことあるの?」


「あるよ~。学生の頃にね」


パパは少しだけ遠くを見るような目になる。


「最初は僕も全然分からなかった。でも、不思議なんだ」


「?」


「気付いたら笑ってる。理屈じゃなくてね。『あ、この人たち、面白い』って思える瞬間が来るんだよ」


芸術家らしい感想だった。難しい技法や歴史ではなく、感じたことをそのまま言葉にする。


「杏奈ちゃんも、正解を探そうとしなくていい。好きだな、面白いなって思えたら、それが杏奈ちゃんだけの答えだから」


微笑むパパの表情とその言葉を聞いて、少しだけ肩の力が抜けた。


「ありがとう、パパ」


「よーし!」


パパは両手を広げる。


「帰ってきたら感想聞かせてね!」


「うん!」


玄関を出ると、冷たい風が頬を撫でた。空は高く澄み渡り、冬が少しずつ近付いてきていることを教えてくれる。


(正解なんて探さなくていい……か)


ママの言葉。パパの言葉。二人の声を胸の中で反芻して、私は駅へ向かって歩き始めた。



昼過ぎ。


授業を終えた生徒たちは、講堂へ続く長い回廊を静かに歩いていた。


いつもの休み時間とは違う。笑い声は控えめで、誰もがどこか背筋を伸ばしている。


「今年は狂言なんですって」


「昨年の能よりは親しみやすいと聞きましたわ」


「ですが、笑うタイミングが難しいそうですわね」


上品な会話があちこちから聞こえてくる。


(ええっ!?笑うタイミングまで決まってたりするの!?)


私はますます緊張してしまう。


その時だった。


「うめめ」


聞き慣れた明るい声。振り返ると、紬葵ちゃんが軽く手を振り駆け寄ってきた。


「顔、固まってるよ~?」


「え、そんなに!?」


「今にも職員室に呼ばれそうな顔」


「そんなやばい顔してた!?」


紬葵ちゃんは笑いを噛み殺す。


「大丈夫だって」


「でもさ、狂言なんて初めてだし」


「それならなおさら楽しめるじゃん!」


私は首を傾げる。


「難しく考えなくていいんだよ」


彼女は人差し指を立てる。


「狂言ってね、もともとは庶民が笑うためのお芝居なんだから」


その笑顔は、いつもの軽やかなギャルそのものだった。しかし、その一言には、どこか長年親しんできた人だけが持つ確かな温度が宿っていた。


二人で話しながら歩いていると、やがて大講堂が見えてきた。重厚な木製の扉はすでに大きく開かれ、風紀委員の仕事も兼ねる生徒会役員たちが静かに生徒を迎え入れている。


天ノ川女学院では学内の規律維持も生徒会の役割とされており、とりわけ行事での身だしなみチェックは副会長である彼女の直轄業務だった。その中央に立つ、一人の生徒の姿が目に入った。


艶やかな黒髪を背中まで流し、凛と伸びた背筋。僅かな乱れも許さない端正な制服姿は、まるで学院そのものを体現しているかのようだった。


──仙石海寧(せんごくあまね)先輩。


先日、私に見極めてやると言い放ち、顎を持ち上げた生徒会副会長。あの日の出来事が脳裏をよぎり、私は反射的に背筋を伸ばしてしまう。海寧先輩は入場する生徒一人ひとりを、静かに見渡していた。


制服の乱れ。騒がしくしていないか。周囲への配慮。その視線は決して威圧的ではない。しかし、一瞬見られるだけで自然と姿勢を正したくなるような、不思議な緊張感があった。


私たちが近付くと、海寧先輩の瞳がこちらへ向く。


胸が、どくりと音を立てた。


ほんの数秒。それだけだった。それだけで、周囲の生徒たちがどよめき、微かな囁き声が漏れる。


「……あれは、編入生の……」


「副会長が自ら目を留めるなんて……」


海寧先輩はそんな周囲の視線を気に留めず、私の顔を見て、それから制服の襟元へと視線を落とした。私は思わず襟を触った。


(やばっ、もしかして曲がってる……!?)


慌てて直そうとした、その瞬間。


「……そのままでいい」


低く澄んだ声が耳に届く。私はぴたりと動きを止めた。


「乱れてはいない」


それだけ告げると、海寧先輩は次の生徒へ視線を移してしまう。


「あ……ありがとうございます」


自分の声が届いたのかどうかさえ分からない。ただ、その一言だけで胸の奥の張りつめていた糸が、少しだけ緩んでいくのを感じた。


「副会長、優しかったじゃん」


隣で紬葵ちゃんが小さく笑う。


「あの人、本当に厳しい人にはちゃんと注意するから」


「そ、そうなんだ……」


私はもう一度だけ海寧先輩を振り返る。その横顔は相変わらず近寄りがたいほど端麗で、さっきの短いやり取りなど最初からなかったかのように淡々と職務を続けていた。


(……やっぱり、よく分からない人)


それだけなのに、どうしてだろう。さっきより少しだけ、胸の鼓動が落ち着いている自分がいた。



講堂へ一歩足を踏み入れた瞬間、私は息を呑んだ。天井から幾重にも吊り下げられたシャンデリアが、柔らかな黄金色の光を降り注いでいる。


深紅のベルベットで統一された客席。漆黒の舞台幕。磨き上げられた木の床からは、ほのかに甘いワックスの香りが漂っていた。まるで劇場そのものだ。学院の施設とは思えないほどの壮麗さに、私はしばらく立ち尽くしてしまう。


「すごいでしょ?」


紬葵ちゃんがどこか誇らしげに頬を緩める。


「アタシ、ここ好きなんだ」


その言葉に私は少し驚いた。


「講堂が?」


「うん」


彼女は舞台を見つめたまま続ける。


「ここってさ」


一拍置く。


「舞台に立つ人も、観る人も、本気なんだよ」


その声音は、いつもの軽やかさとは少し違っていた。穏やかで、優しくて、何より舞台への敬意が滲んでいた。


私は自然と彼女の横顔へ目を向ける。


普段は華やかなギャルらしい装いで教室を明るくしている紬葵ちゃん。その彼女が今は、舞台を見るだけで嬉しそうに微笑んでいた。


(……つむつむって、こんな表情もするんだ)


知らなかった。教室では見られない、彼女だけの顔。そんなことを思っているうちに、開演を告げる鐘が静かに鳴り響いた。客席の照明がゆっくりと落ちていく。講堂全体を包んでいたざわめきも、不思議なくらい自然に消えていく。誰一人として注意されるわけではない。それでも全員が、呼吸を合わせるように舞台へ意識を向ける。


(これが……天ノ川女学院)


その一体感に圧倒され、私は膝の上でそっと手を握った。やがて、静寂を裂くように一人の演者がゆっくりと舞台へ姿を現す。


狂言『柿山伏』


私にとって、生まれて初めて触れる日本の伝統芸能だった。

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