梅沢杏奈、天ノ川女学院に降り立つ③
昼休みの鐘が鳴ると、それまで静まり返っていた教室が一気に華やぎ始めた。
「梅沢さん、お昼はご一緒しませんこと?」
「今日は中庭のテラスが空いているそうですわ」
「あら、それでしたら紅茶もご用意できますわよ」
あちこちで交わされる上品な会話に、私はつい耳を傾けてしまう。
(紅茶って……昼休みに飲むものなの……?)
そんな疑問を抱き、鞄からお弁当を取り出す。現れたのは、見慣れたお弁当箱。中にはママ特製の唐揚げと玉子焼き、それからほうれん草のお浸し。どれも大好物だ。
だけど──。
ちらり、と周囲を見回した私は、動きを止めた。
漆塗りの三段重。
季節の草花が描かれた上品なお弁当箱。
一品一品が料亭の懐石料理のように美しく盛り付けられ、蓋を開けるたびに「まあ、美味しそうですこと」と穏やかな笑みが咲く。
(……いやいやいや、ちょちょちょちょちょ!ちょお〜〜〜っと待った!!比較対象がおかしいって!)
別に私のお弁当が恥ずかしいわけじゃない。ママの料理は世界一美味しいと思っている。でも、この空間でごく普通のお弁当箱を開ける勇気は、まだ持ち合わせていなかった。
机の陰へそっと隠し、蓋を開けようとした、そのときだった。
「あっ!」
聞き覚えのある明るい声。
「うめめのお弁当だ!」
紬葵ちゃんがひょいっと隣へ腰掛ける。
「美味しそう!」
「え、えっと……」
「卵焼き、一個交換しよ!」
待ちきれない様子で、自分のお弁当箱を開いた。淡い木目の二段重には、彩り豊かな京料理が隙間なく並んでいる。
「はい」
慣れた箸使いで西京焼きを一切れ摘まみ、私のお弁当へそっと乗せてくれた。
「わっ!」
「交換交換!」
「でも……」
「遠慮しない」
にこっと笑みを浮かべる。
「アタシね、実家が染物屋なの」
紬葵ちゃんは玉子焼きを口へ運び、話を続けた。
「だからかな。こういう丁寧なお弁当、大好きなんだ」
その一言に胸の奥がふっと軽くなった。私が隠そうとしていたお弁当を紬葵ちゃんは宝物みたいに見てくれた。
「美味しい!」
目を輝かせ、夢中で頬張る姿に笑みがこぼれる。
「ありがとう」
「こちらこそ!」
「西京焼きも美味しい!!」
「でしょ?」
得意そうに笑う紬葵ちゃん。派手な見た目とは裏腹に、箸の持ち方も、食事の所作も驚くほど美しい。育ちの良さが、自然と滲み出ていた。
(見た目だけで決めつけちゃ駄目なんだな)
そんな当たり前のことを私は今日だけで何度も教えられている。
午後の授業が終わる頃には、頭の中はもう限界だった。ノートはどうにか取れた。先生の話も必死に聞いた。でも、それだけだ。理解が追いついているかと聞かれれば、自信を持って頷けない。
「大丈夫?」
帰り支度を整える私に、藍ちゃんが声を掛けてくれる。
「顔色、朝より悪くない?」
「だ、大丈夫!」
「その『大丈夫』、全然大丈夫じゃない人の言い方」
私が苦笑を返すと、藍ちゃんも少しだけ口元を緩めた。
「無理はしないこと!分からないところがあったら聞きなさい」
その言葉に頷いたとき、茉子ちゃんが勢いよく立ち上がる。
「じゃあアタシ部活行ってくる!」
「茉子、廊下は走らない」
「はーい!」
返事だけは立派だった。教室を飛び出していく背中を見送って、藍ちゃんは深いため息をつく。
「……まったく」
呆れたような言葉とは裏腹に、表情はどこか楽しそうだった。私も自然と笑ってしまう。
(少しずつだけど、このクラスが好きになれそう)
そんなことを思い、鞄を持ち上げる。すると藍ちゃんが、机の上に積まれた数冊のノートへ視線を向けた。
「悪いんだけど。職員室へ提出するノート、お願いできる?」
「もちろん!」
反射的に返事をすると藍ちゃんは少し驚いたように目を瞬かせ、柔らかく笑った。
「助かるわ」
両腕いっぱいにノートを抱え、私は一人教室を後にする。
◇
放課後の校舎は、昼間とは違う静けさに包まれていた。部活動へ向かう生徒たちの足音が遠ざかり、静寂がゆっくりと廊下を満たしていく。
窓から差し込む西日が、格式高いステンドグラスを透かして寄木細工の床へ赤や青の光を落としていた。その幻想的な景色に、私は足を止めそうになる。
(……綺麗)
今日一日だけで、何度綺麗と思っただろう。この学園には、私の知らないものがあまりにも多い。その一つ一つに驚いて、戸惑って、それでも少しずつ好きになり始めていた。
だからこそ──
次の瞬間、この学園で最も眩しく、最も近寄り難い存在たちと出会うことになるなんて。このときの私は、まだ知る由もなかった。
◇
ノートを抱えて職員室へ向かっていると、前方の空気が不意に変わった。
歩いていた生徒たちが、示し合わせたように廊下の左右へ寄っていく。誰かが声を張り上げたわけでもない。それでも、その場にいた全員が、自然と道を譲っていた。
「……新しい生徒会の方々の巡回ですわ」
「今日は編入生もいらっしゃいましたものね」
囁くような声が耳へ届く。
(生徒会……)
私は抱えていたノートを持ち直した。
遠くから規則正しい靴音が近づいてくる。静かな廊下に、その硬質な足音だけがゆっくりと反響していた。
やがて、夕陽を背負うように四人の女子生徒が姿を現した。
咄嗟に息を呑む。
先頭を歩くのは、陽光を溶かしたような淡いミルクティー色の髪をゆるやかに揺らす、美しい先輩だった。自信に満ちた微笑みを浮かべ、その一歩一歩が舞台の中央を歩く主役のように様になっている。誰かに見られることに、慣れきっている歩き方だった。
(あの人が……)
周囲から漏れ聞こえる囁きが答えを教えてくれた。
「さら会長……」
その名に恥じない、圧倒的な存在感。
彼女の後ろには、三人の生徒が静かに付き従っている。
その中の一人が、私の視線を引いた。
艶のある黒髪を高い位置でひとつに束ね、凛とした佇まいの先輩。華やかというより、研ぎ澄まされた美しさ。一歩歩くたびに姿勢がまったく乱れず、その所作には一切の無駄がない。自分より劣るものへ目を留める必要などないとでも言いたげな、静かな傲慢さすら漂っていた。
思わず目で追ってしまう。
その人は、私の前で足を止める。
会長も歩みを止める。
続いて残る二人も。
廊下に、張り詰めた静寂が落ちた。
黒髪の先輩が一歩前へ出る。
まずは静かに一礼した。
その動作は教科書のお手本のように美しく、礼儀正しい。しかし、その礼儀正しさの奥には、こちらを値踏みするような冷ややかさが透けて見える。
「失礼」
澄んだ声だった。
「突然お声掛けした非礼は、お詫びする」
ゆっくりと顔を上げる。その双眸が、私を真っ直ぐ射抜いた。
「私は生徒会副会長、仙石海寧」
凛とした声が静かな廊下へ響く。
「お前が、本日付で編入した梅沢杏奈だな」
「は、はい」
返事をしただけなのに、心臓が妙にうるさい。海寧先輩は私を見据えたまま、言葉を続けた。
「此度の編入は、特例と聞いている」
その声音は決して高圧的ではない。それでも、一言一句に揺るぎない意志と生まれながらの自負が宿っていた。特例、という単語に込められた微かな棘に背筋が強張る。
「私は現三年の先輩から生徒会副会長を引き継いだ者として、この学園の規律を守る責務がある」
一歩だけ距離が縮まる。
「だからこそ、お前自身を見極めたい」
その視線から逃れようと、私は目を伏せかけた。
「……逃げるな」
低く、それでいて静かな声。気付けば、細く白い指先が私の顎へ触れていた。
不意を突かれて言葉を失う。
そっと顎を持ち上げられ、海寧先輩と自然に視線が重なった。
ち、近い。
近すぎる。
切れ長の瞳には、夕陽が淡く映り込んでいる。
綺麗だ、なんて言葉では足りない。
吸い込まれそうになるほど澄んだ瞳だった。
その奥には、有無を言わせぬ支配的な光が揺れている。私がどう答えるかなど、最初から結論が決まっているとでも言いたげに。
「見極めてやる」
海寧先輩は目を細めず、静かに告げる。
「お前が、この学園の理念を理解できる人物なのか」
一瞬、言葉を区切る。
「それとも──名門の矜持を理解し得ない者なのか」
その一言には、脅しではなく、確かめようとする強い意志が感じられた。同時に、当然自分が上に立つ者であるという揺らぎのない自信も滲んでいた。
しばらく見つめ合った後、海寧先輩の口元が、僅かに緩む。
「……悪くない眼だ」
顎から指先が離れる。
解放されたはずなのに、鼓動だけは一向に落ち着いてくれなかった。胸の奥で鼓動が忙しなく鳴り続ける中、私を見つめ、海寧先輩は一歩後ろへ下がった。
その動きを待っていたかのように、先頭に立っていたミルクティー色の髪の先輩がゆったりと歩み出る。夕陽を受けて揺れる柔らかな髪。整った顔立ちに漂う気品。近付くだけで、その場の空気が華やぐようだった。その微笑みの底には、この学院という舞台の頂点に立つ者だけが持つ、静かな支配欲のようなものが見え隠れしている。
「ようこそ、天ノ川女学院へ」
穏やかな声。それでいて、不思議と人を従わせる響きがある。
「梅沢杏奈さん……だったわね。私は、天ノ川さらよ」
「は、はい」
会長は私の返事に、従順な返答を採点するかのように口元をほころばせる。
「緊張しているでしょう?」
「え、えっと……はい」
「そうでしょうね」
くすり、と小さく笑う。その一瞬だけで周囲の空気まで柔らかくなる。同時に、誰も逆らえない空気にもなる。
「でも安心なさい」
会長は制服の襟元へそっと手を伸ばした。
「少しだけ、曲がっているわ」
「えっ!?」
自分では気付かなかった。
さら会長は慣れた手つきで襟を整える。そのまま指先で軽く形を整えた。自分の庭に咲いた一輪の花を丁寧に手入れするような、そんな所作だった。
「これで大丈夫」
「あ、ありがとう……ございます」
会長は満足そうに目元を和らげた。
「この学院には、この学院なりの時間があります」
その言葉は助言のようでいて、どこか従うのが当然と言わんばかりの響きを含んでいた。
「焦らなくても大丈夫。あなたらしく、一歩ずつ歩いていけばいいの。これからどんな色へ染まっていくのか……楽しみにしているわ」
それだけ告げて、会長は一歩下がる。優雅に佇むその姿は、一枚の絵画のようだった。私という存在を、すでに自分の庭の一部として取り込まれているかのような錯覚を覚える。
その気品に見入っていると、
「あら」
柔らかな声が横から聞こえた。
「会長ったら、また新入生を甘やかして」
ふんわりと微笑んだ彼女が近付いてきた。可愛らしい手の込んだ編み込みのヘアアレンジが印象的な可憐な先輩だった。
「私は卯ノ花さゆりです」
彼女は上品に会釈をする。
「生徒会で書記を務めることになりました」
近くで見ると、本当に綺麗な人だった。優しい表情を浮かべているのに、その瞳だけは不思議なくらい相手をよく見ている。こちらの反応の一つひとつを値踏みするかのような眼差しだった。
「編入初日でお疲れでしょう?無理は禁物ですよ」
労わるような声のまま、制服についた小さな糸くずを摘まんで払ってくれる。本当に些細なことなのに、その仕草があまりにも自然だった。私の些細な乱れさえも、見逃さないという意志をその静かな手つきが物語っていた。
「困ったことがあれば、生徒会室へいらしてください。その時は……お話、たくさん聞かせてくださいね」
微笑みは柔らかい。それなのに、どこか底が見えない。
「さて」
背後から軽やかな声が聞こえる。
「生徒会の自己紹介ばっかりで、ボクの番がないじゃないか」
振り返ると、一人の先輩が楽しそうに笑っていた。整った青みがかった紫色のショートの髪。すらりとした長身。舞台から抜け出してきた男役を思わせる、中性的な美しさ。
「ボクは阿良々木紫苑。生徒会のメンバーじゃないよ」
気障な仕草で胸へ手を当てる。
「演劇部部長なんだ。よろしくね、梅沢くん」
その声はどこか芝居がかっていて、あらかじめ用意された台本をなぞるかのように、堂に入った余裕を漂わせていた。
「君は面白そうだ」
紫苑先輩は口角を上げる。値踏みするような、それでいてどこか愉快そうな視線が、頭のてっぺんから爪先までを一往復した。
「この学院には、普通じゃない人間が結構いる。だから遠慮なんてしなくていいんだよ。普通じゃなくても、生きていける場所だから」
その言い方には、自分がこの学院の常識そのものであるかのような、揺るぎない自信が滲んでいた。その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。
「ありがとうございます」
頭を下げると、四人はそれぞれ視線を交わした。誰も言葉を発さないのに、その一瞬の視線の交わし方だけで、四人がこの学院の頂点に臨む存在なのだと、痛いほど伝わってくる。
「では、行きましょう」
会長が歩き始める。海寧先輩も静かにその後へ続く。
すれ違いざま、海寧先輩はほんの一瞬だけこちらを見た。その視線は先ほどより少しだけ柔らかく見えた気がした。
もちろん、それは私の思い違いだったのかもしれない。
それでも。その一瞬が、なぜか胸の奥へ深く刻まれる。
私は一度だけ深呼吸をした。頬に残る熱を振り払うように、小さく首を横へ振る。
海寧先輩の真っ直ぐな眼差し。
さら会長の優雅な微笑み。
さゆり先輩の柔らかな物腰。
紫苑先輩の掴みどころのない笑顔。
誰もが圧倒的だった。
育ちも、品格も、才能も、きっと私とは比べものにならない。
誰もが当たり前のように自分が特別であると信じて疑わない目をしていた。"無敵"であり"傲慢"という言葉が、これ以上ないほど似合う人たちだった。
私は胸の前で、ぎゅっと拳を握る。
(落ち着け、……梅沢杏奈!!)
ここで気圧されて終わるような私じゃない。
私はこの学院で、自分らしく笑うために来たんだ。
だから──。
どれだけ無敵で。どれだけ誇り高く。どれだけ人を翻弄するような魅力を持った人たちに囲まれようとも。
私は、簡単には揺るがない。
胸の奥で、静かに言葉を刻む。
『どれだけ無敵で傲慢な女ひとに迫られたって、私は絶対に翻弄されたりなんてしない!』
そう固く誓い、私は夕暮れに染まる長い廊下を、一歩ずつ前へと歩き始めた。




