白熱の百人一首大会!
冬休みは、まるで狐につままれたかのようにあっという間に過ぎ去った。
始業式を終えた天ノ川女学院の廊下には、久しぶりに顔を合わせた生徒たちの華やいだ声が満ちている。窓の外では、まだ溶けきらない霜が校庭の隅に白く残り、冬の名残を伝えていた。
「もうすぐ百人一首大会だな」
朝のホームルーム前、藍ちゃんが手にした学級新聞を私に見せてくれた。太い明朝体で『第五十七回 天ノ川女学院百人一首会』と印刷されている。
「百人一首大会……?」
「あれ?うめめ、知らないの?」
紬葵ちゃんが横から覗き込んでくる。
「天ノ川女学院の伝統行事だよ。創立当時から続いてるんだって。全校生徒によるトーナメント戦で、優勝者は卒業式で記念品を授与されるの」
「へ、へえ~~……!また何だか凄そうな行事だね」
前の学校ではお正月の遊びとして少し触れた程度だった私にとって、それは想像以上に本格的な響きだった。
「各クラスから代表を選出して、まずは同学年同士で戦うの。勝ち上がった代表が、今度は全学年を巻き込んだ本戦に進む形」
藍ちゃんが淡々と説明してくれる。
「うちのクラスの代表は、もう決まってるよ」
紬葵ちゃんが得意げに胸を張った。
「一年二組代表、由良紬葵!」
「え、つむつむが?」
「そ!それから、あっきーも!」
「……私の場合、紬葵みたいな瞬発力やスピードはないから、記憶力の勝負」
窓際で本を閉じた瑛良ちゃんが、静かにそう付け加える。
「うめめも一緒だよ。ほら、先週のクラス対抗戦、めちゃくちゃ強かったじゃん!よっ!さすがスポーツ万能!」
「え、私も!?」
思い返せば、冬休み前のクラス内選抜で、私は勢い任せに札を取りまくり、気づけば代表の一人に選ばれていたのだった。
「隣のクラスの代表は、二階堂さんだって。あと、誰だったかな……」
藍ちゃんが教えてくれる。廊下ですれ違うたび、その愛らしい容姿に目を引かれる、ピンク色のツインテールが印象的な女の子だった。アイドルのように華やかな彼女もまた、一年生代表の一人らしい。
「一年生だけでも、粒揃いだね!」
紬葵ちゃんがそう笑うと、教室にはどこか高揚した空気が満ちていった。
◇
大会当日。
体育館には、赤い毛氈が何列も敷き詰められ、その上に美しく整えられた札が並んでいる。天井から吊るされた垂れ幕には『天ノ川女学院百人一首会』の文字が墨痕鮮やかに躍り、会場全体が凛とした緊張感に包まれていた。
観客席には全校生徒が集まり、静かな興奮が満ちている。読み手を務める国語科の教員が、澄んだ声で開会を告げた。
「それでは、これより第五十七回天ノ川女学院百人一首会を開催いたします」
拍手が沸き起こる中、私は自分の対戦相手を確認する。今日の私は、一年生ブロックの初戦で、隣のクラスの生徒と対峙することになっていた。
「うめめー!頑張ってね!」
紬葵ちゃんが親指を立てて応援してくれる。
「うん、つむつむも!」
三人並んで座る一年生代表席。少し離れた場所には、二階堂さんが得意げな顔で座っている。その凛とした横顔からは、見た目の愛らしさとは裏腹な、静かな闘志が滲んでいた。
◇
一年生ブロックの戦いは、思いのほか白熱した。
私は初戦、必死の食らいつきで何とか勝ち上がったものの、二戦目で二階堂さんの正確無比な払い手に敗れ、あえなく敗退した。
「あ~~~……負けちゃった……!悔し~~い!!!」
「梅沢さん、お疲れさま。序盤の粘り、見事だったよ」
慰めてくれる藍ちゃんの言葉に、私はしゅんと肩を落とすも、残る二人の戦いを見守ることにした。
瑛良ちゃんの札運びは、驚くほど静かで、正確だった。読み手の声が発せられた瞬間、彼女の指先は迷いなく最短距離を滑る。盤面全体をあらかじめ暗記し尽くしているかのような、無駄のない動きだった。
「決まり字が読まれる前から、もう手が動いてる……」
ぽつりと呟くと、隣で見守っていた藍ちゃんも小さく頷いた。
そんな瑛良ちゃんをも上回る速さで札を掻っ攫っていったのが、紬葵ちゃんだった。
「はいっ!」
軽やかな掛け声とともに伸びる手。普段の朗らかな笑顔とは打って変わり、真剣な眼差しで盤面を見据えるその姿は、茶道部で培った所作の美しさそのものだった。
一年生ブロックの決勝戦。瑛良ちゃんと紬葵ちゃんの一騎打ちは、僅差で紬葵ちゃんに軍配が上がった。
「つむつむ、おめでとう!」
「えへへ、ありがとう!」
汗を拭って、笑う紬葵ちゃんの姿に、私は惜しみない拍手を送った。
「……次は、負けない」
瑛良ちゃんが、悔しさを滲ませつつも、どこか楽しそうにそう呟いていた。
◇
二年生ブロックでは、生徒会の面々が早くも注目を集めていた。
「さら会長、さすが!お強いんですね」
「ふふ、これでも子供の頃から鍛えてきたのよ」
会長は涼やかな笑みを浮かべ、次々と札を取っていく。優雅な仕草の裏に潜む、研ぎ澄まされた反射神経が垣間見えた。
海寧先輩の強さは、もはや別格だった。読み手が上の句を読み上げ始めた瞬間には、すでにその手が動いている。弓道で鍛え上げられた集中力と、寸分の狂いもない体幹が、そのまま札運びの精度に直結していた。
「……次」
淡々とした一言とともに、対戦相手の札を次々と払っていく。その姿に、観客席からは感嘆のどよめきが漏れた。
さゆり先輩もまた、静かな笑みを絶やさぬまま、着実に白星を重ねていく。
「あら、また取れてしまったわね」
穏やかな口調とは裏腹に、その手さばきには一切の迷いがなかった。
一方、二年生ブロックにはもう一人、見慣れない先輩の姿があった。凛とした佇まいで、こちらも危なげなく勝ち進んでいる。
「あの人、二年の実力者らしいよ。去年の準優勝者なんだって」
藍ちゃんが小声で教えてくれる。
二年生ブロックは、会長、海寧先輩、さゆり先輩、そしてその未知の実力者による、まさに白熱の争いとなっていった。
◇
そんな中、開始早々に姿を消していたのが、紫苑先輩だった。
「あれ、紫苑先輩の姿もてっきりあるかなと思ってたけど」
私がそう呟くと、近くにいた演劇部の生徒が、噴き出しそうな顔で教えてくれた。
「紫苑部長なら、初戦で負けてしまいましたわ」
「ええっ!?」
聞けば、紫苑先輩の敗因は、あまりにも紫苑先輩らしいものだった。
読み手が上の句を読み上げるその美声に、紫苑先輩は札に手を伸ばすどころか、うっとりと聞き惚れてしまい……気づけば対戦相手にすべての札を持っていかれていたのだという。
「部長、舞台の上での台詞回しには誰よりも敏感ですのに、百人一首の勝負勘は壊滅的なようでして……」
そう語る演劇部の生徒の言葉に私は思わず笑ってしまった。
会場の隅、観客席に混じって座る紫苑先輩を見つけると、彼女は悔しさはあまり感じていなさそうな顔で、どこか楽しげに拍手を送っていた。
こちらの視線に気づいた紫苑先輩が、ひらりと手を振って笑ってみせる。その飄々とした佇まいに、私はなんだかほっとするものを感じた。
◇
三年生ブロックの戦いも、静かな熱気の中で進んでいった。
顔と名前までは知らない先輩たちが、それぞれの札運びで健闘を見せる。長年この学院で培われてきた伝統の重みを感じさせる、堂々とした戦いぶりだった。しかし、その中から勝ち上がったのは、結局のところ一人だけ。決勝トーナメントへの切符を手にしたのは、僅か数名という狭き門だった。
◇
そうして迎えた、全学年による決勝トーナメント。
一年生代表として勝ち残ったのは紬葵ちゃんただ一人。二年生からは、海寧先輩が、幾多の激戦を制して勝ち上がってきた。三年生の代表は、準決勝で惜しくも敗れ去り、結局、最後に残ったのは──紬葵ちゃんと海寧先輩だった。
「決勝戦、由良紬葵さん対、仙石海寧さん」
読み手の声が響くと、会場中が水を打ったように静まり返った。
赤い毛氈の上、五十枚ずつに分けられた札が、対峙する二人の間に整然と並べられている。
紬葵ちゃんは、いつもの朗らかさを消し、真剣な表情で盤面を見つめていた。着物の袖を控えめに整える所作にも、迷いがない。
対する海寧先輩は、微動だにせず、静かに札を見据えている。弓道で見せる、矢を番える直前の静謐さと同じ気配が、その全身から漂っていた。
「では、始めます」
読み手が、最初の一首を読み上げた。
「ちはやぶる 神代も聞かず 竜田川……」
上の句が読まれた瞬間、二人の手が同時に動いた。
一瞬の交錯。乾いた音が響き、僅かに早く札を掴んだのは海寧先輩だった。
「……速い」
紬葵ちゃんが、感嘆混じりの声を漏らすも怯む様子は微塵もなかった。
続く一首、また一首。二人の攻防は、まるで一枚の絵画のように美しく、そして苛烈だった。海寧先輩の払いは鋭く正確で、紬葵ちゃんの取りは、しなやかで俊敏だった。
「あちらの決まり字は……」
「まだ、二字」
観客席の誰かが呟く声も、二人の集中を乱すことはなかった。
札が一枚、また一枚と、二人の陣地から消えていく。
拮抗した勝負は、次第に紬葵ちゃんに流れが傾いていった。茶道で鍛えた研ぎ澄まされた所作と、幼い頃から祭りや伝統芸能に触れてきた耳の良さが、読み手のわずかな抑揚の違いすら聞き分けていく。
「……っ」
海寧先輩の眉間に、初めて焦りにも似た色が浮かぶ。
しかし、そこで屈するような海寧先輩ではなかった。残り数枚となった局面で、驚異的な粘りを見せ、一枚、また一枚と札を取り返していく。
会場中が、固唾を呑んでその攻防を見守っていた。
そして、迎えた最後の一首。
「花の色は……」
読み手の声が響いた瞬間、二人の手が同時に伸びた。
僅か、コンマ数秒の差。
先に札を押さえたのは──紬葵ちゃんだった。
「……勝負あり!」
読み手の宣言に、会場が大きな拍手と歓声に包まれる。
「す、すごい……!あの海寧先輩に勝っちゃうなんて!つむつむ、優勝おめでとう!!」
私は立ち上がり、声を張り上げていた。
紬葵ちゃんは、しばらく信じられないという表情で自分の手元を見つめていたが、いつもの明るい笑顔で振り返る。
「やったー!! 優勝したよ、うめめー!みんなー!」
満面の笑みで手を振る紬葵ちゃんの姿に、会場中がさらなる拍手を送った。
一方の海寧先輩は、悔しさを滲ませるも静かに紬葵ちゃんへ歩み寄り、手を差し出した。
「由良、見事だった。完敗だ」
「ありがとうございます、海寧先輩!すごく緊張しました!」
二人の握手に、また会場から温かい拍手が起こる。
◇
閉会式が終わり、体育館を出ると、冬の澄んだ夕陽が校庭を橙色に染めていた。
「いやあ、まさか優勝しちゃうとはね」
興奮冷めやらぬ様子の紬葵ちゃんが、私の隣で弾んだ声を上げる。
「本当にすごかったよ、つむつむ。最後の一枚、本当に紙一重だった」
「海寧先輩、本当にめちゃくちゃ強かったよ~。次はもっと差をつけられるように頑張らないと!」
はにかむ紬葵ちゃんの横顔には、達成感と次への意欲が満ちていた。
少し離れた場所では、瑛良ちゃんが静かに拍手を送っている。
「……紬葵、格好良かった」
「え!?あ、あっきーにそんな風に言われると珍し過ぎて照れるんですけど!」
「……もう言わない」
素っ気ないようで、確かな称賛に紬葵ちゃんは嬉しそうに頬を緩めた。
「もう、あっきー!ごめんて!また褒めて~~!!」
そんな二人の微笑ましいやり取りに表情をやわらげ、夕暮れの校庭を歩きながら、私はふと、今日一日を振り返る。
紬葵ちゃんの新しい一面。瑛良ちゃんの静かな熱意。生徒会の面々の圧倒的な実力。そして、思い出すたびに笑いがこみ上げてくる、紫苑先輩のあの一幕まで。
一枚の札を巡る、たった数秒の攻防の中に、これほど多くの表情が詰まっているとは思ってもみなかった。
「ねえ、うめめ」
隣を歩く紬葵ちゃんが、ふと私を見上げる。
「来年は、私たち二人で決勝で当たろうね!」
「え、私!?そ、そんな!まだまだ全然敵わないよ!」
「大丈夫だって。うめめなら、きっとできる!」
からりとしたその笑顔に、私もつられて顔がほころんだ。
冬の夕暮れが、少しずつ藍色へと変わっていく。歓声とざわめきの余韻が残る校舎を背に、私たちはそれぞれの家路につき、来年の百人一首会に思いを馳せていた。
──この日、天ノ川女学院の伝統に、また一つ新しい物語が刻まれたのだった。




