それぞれの冬休み【海寧編】
※本話は冬休み中の出来事を、キャラクターごとに独立した短編としてお届けします。
約束の日、生徒会室の扉を開けると、そこにはすでに海寧先輩の姿があった。
窓から差し込む冬の陽射しが、積み上げられた帳簿の山を白く照らしている。暖房の効いた室内には、紙とインクの匂いが静かに満ちていた。
「早いな」
顔を上げた海寧先輩は、いつも通りの落ち着いた平坦な声で応じた。机の上にはすでに私の分の作業道具まで用意されていて、その几帳面な準備の跡に、ついつい頬が緩んでしまう。
「約束したので!今日は絶対、早く終わらせますからね!」
「……フン、口だけは達者だな」
そんな軽口を叩きながらも、海寧先輩は私の隣に椅子を寄せてくれた。冬休みの静かな校舎で、二人分の作業音だけが規則正しく重なっていく。
◇
礼拝で使用した備品のリスト照合、各学期の会計帳簿と領収書の突き合わせ、来年度に向けた予算案の下書き整理。地道で、決して華やかではない作業の連続だった。
「海寧先輩、この項目、二重に計上されてます」
「本当だな」
海寧先輩は私が指し示した箇所を確認すると、ほんの少し眉を上げた。
「よく気づいたな」
「えへへ、褒められました!」
「別に、褒めてはいない。事実を述べただけだ」
海寧先輩の耳が、少しだけ赤い気がした。指摘したらまた怒られそうだったので、私は黙って作業を続けた。
窓の外では、時折粉雪が舞っている。二人分の吐息が白く色づくほど冷えた部屋の中でも、作業に没頭していると、不思議と時間はあっという間に過ぎていった。
「もう、こんな時間か」
壁掛け時計を見上げた海寧先輩が、珍しく驚いたような声を漏らす。予定では夕方までかかるはずだった作業が、まだ日の高いうちに、すべて片付いていた。
「終わった……!終わりましたよ、海寧先輩!」
両手を突き上げて喜ぶ私を見て、海寧先輩は小さく息を吐く。
「お前が思っていたより、役に立ったことは認めよう」
「やった~~~っ!!」
こんな風に海寧先輩から言ってもらえるとは思わず、達成感で胸がいっぱいになる。舞う粉雪をぼんやり眺めていると、なんだかこのまま帰るのが少しだけ惜しいような気がしてきた。
(せっかく、こんなに早く終わったんだし)
心臓が、少しだけ速く脈を打ち始める。断られるかもしれない。呆れられるかもしれない。それでも、言わずに後悔するよりはずっといい。
「あの、海寧先輩」
「なんだ」
書類を片付けていた海寧先輩の手が止まる。
「図々しいことは、百も承知なんですけど……。もし、この後お時間よろしければ、ちょっとだけ一緒に出かけませんか?」
言い終えた瞬間、心臓が痛いくらいに跳ねた。
海寧先輩は、一瞬だけ固まったように見えた。それから、視線を私から逸らし、書類の束をわざとらしく揃え始める。
「……仕方ないな」
「え?」
「予定は特にない。……付き合ってやらんこともない、という意味だ」
素っ気ない言い方でも、その口調はどこかいつもより早口で、耳の先はほんのり赤く染まっていた。私はつい笑顔になる。
「ありがとうございます!!」
「……礼を言われるようなことではない」
海寧先輩はそれだけ言うと、コートを羽織る。その背中は、そわそわしているように見えた。
◇
校門を出て、駅までの道を並んで歩く。
「それで、どこへ行きたいんだ」
海寧先輩が前を見たまま尋ねてくる。私は少し考えてから、首を横に振った。
「海寧先輩の好きなところに、連れて行ってほしいんです」
「……私の?」
「はい。もう少し海寧先輩のことが……知りたくて。先輩の好きなものが知りたいなって」
海寧先輩は、少しの間、黙り込んだ。何かを迷っているような、探るような沈黙。私はその横顔を、そっと見つめた。
「先輩って、実は……アニメや特撮が、お好きなんですよね?」
おずおずと切り出した瞬間、海寧先輩の足がぴたりと止まった。
「な……ッ、な、ななななぜそれを……!?」
普段の凛とした佇まいが嘘のように、海寧先輩は目を見開き、わかりやすく動揺していた。
「さては……阿良々木の奴か!?」
顔を真っ赤にしながら、恨みがましい呟きが漏れる。図星を突かれたことがよほど恥ずかしいのか、視線はあちこちに彷徨い、いつもの理知的な瞳はすっかり落ち着きをなくしていた。
「あ、いえ、その、たまたま話の流れで……」
私は慌てて言い訳を探したけれど、海寧先輩の耳はもう真っ赤に染まりきっていた。副会長としての面子と、後輩に趣味を知られてしまった羞恥心とが、その表情の中でせめぎ合っているのが手に取るように分かる。
「副会長ともあろう者が、こんなことで動揺するべきではないのだが」
海寧先輩は独り言のようにそう呟くと、片手で額を押さえ、しばらく俯いていた。それから、意を決したように顔を上げる。
「……バレてしまっているのなら、仕方がない」
その声には、まだ隠しきれない照れが滲んでいた。
「今、ちょうど公開中の映画がある。……付き合え」
「はい!」
弾んだ声で返事をすると、海寧先輩は気恥ずかしさを誤魔化すように、早足で映画館への道を歩き出した。
◇
映画館は、冬休みということもあって親子連れやカップルで賑わっていた。
ポップコーンとバターの香ばしい匂いが漂うロビーを抜け、海寧先輩が選んだのは、長年続く特撮ヒーローシリーズの最新作だった。
「意外です。海寧先輩なら、正統派の主人公が好きそうなのに」
チケットを受け取り、私が何気なくそう零すと、海寧先輩は少しだけムッとしたように眉を寄せた。
「浅いな、梅沢。主人公というのは、確かに眩しい。だが、本当に見るべきは、その隣で己を律しながら戦う者たちだ」
「え?」
「表舞台に立つ者を陰から支え、時に己の弱さと戦いながらも、決してその役目を疎かにしない。シルバーや、ブルーのような二番手にこそ、真の強さが宿る」
熱を帯びた声だった。いつもの淡々とした口調とは打って変わって、目の奥にはきらきらとした光が宿っている。
「主人公が輝けるのは、そういう者たちが、確かにその足元を支えているからだ。……分かるか?」
「は、はい!なんだか、すごく分かる気がします!」
熱弁する海寧先輩の姿は、生徒会室で見せる完璧な副会長の顔とはまったく違っていた。年相応の、無邪気な女の子の顔。その落差に、私は思わず見惚れてしまう。
(こんな顔もするんだ。それに、そのブルーとかシルバーってまるで……)
上映が始まると、海寧先輩は背筋をまっすぐに伸ばしたまま、食い入るようにスクリーンを見つめていた。時折、青いスーツを纏った戦士が活躍する場面になると、その口元が少しだけ緩む。
隣に座る私は、映画そのものよりも、その横顔をこっそり盗み見ている時間の方が、ずっと長かった。
エンドロールが流れ、館内が明るくなる頃には、海寧先輩の頬は上気し、いつもより饒舌になっていた。
「今回のブルーは、特に素晴らしかったな。あの土壇場での判断力……普段は寡黙だが、いざという時に見せる胆力。あれこそが真の実力者というものだ」
「先輩、何だかいつもより早口ですね」
「……うるさい」
海寧先輩はわざとらしく咳払いをする。隠しきれない口元の笑みが、彼女の機嫌の良さを物語っていた。
映画館を出ると、外はすっかり夕暮れに染まっていた。冬の澄んだ空気の中、駅までの道を並んで歩く。
「今日は、その……悪くなかった」
海寧先輩がぽつりと呟く。
「私もです。海寧先輩の好きなもの、知れて嬉しかったです」
「阿良々木には、後で灸を据えておかねばな」
物騒な呟きに、私は笑ってしまった。
夕焼けに染まる帰り道。冷たい風の中、隣を歩く海寧先輩の横顔は、いつもよりずっと柔らかかった。私はその横顔を見つめ、この冬休みが、思っていたよりもずっと特別なものになりそうな予感を静かに噛みしめていた。




