仙石海寧は、上手な嘘が吐けない④
※本話の一部は杏奈以外の視点で描かれています。
校舎を出た途端、頬を刺すような冷気とともに、白銀の結晶が視界を遮った。
静寂に包まれた冬の夜。街路樹に灯るイルミネーションは、降り積もる雪を透かして幻想的な光の粒となって揺れている。
二人は並んで歩いていた。雪を踏みしめる二つの靴音が、夜の静寂に規則正しく響く。隣を歩く杏奈の存在感は、海寧の理性をじりじりと侵食し続けていた。
海寧は、先日の街での光景──さらに抱きしめられていた杏奈の姿を呪いのように反芻していた。あの光景を思い出すたび、胸の奥底で正体不明の熱い塊がうごめく。それは怒りなどではなく、もっと得体の知れない、自分の内側にある何かが蹂躙されたような、言いようのない不快感。それと同時に、杏奈から一緒に帰りたいと誘われた甘い胸の高揚感。複雑な想いが一身に胸の中を渦巻いている。
「……海寧先輩」
沈黙を破ったのは、杏奈の小さな声だった。彼女は雪道で足を止め、真っ直ぐに海寧を見つめる。
「自分が、先輩に嫌われてしまうようなことを……何かしてしまったのかと思いました」
直球の言葉だった。海寧の手が、防寒手袋の中で不自然に強張る。海寧は杏奈を直視できず、イルミネーションに輝く雪道を気まずそうな表情で見つめた。彼女の瞳に映る自分を見ているといつもの副会長としての矜持が、呆気なく音を立てて崩れ落ちそうになる。それに、杏奈は、そんな風に思っていたのか、と申し訳ない気持ちにもなり、自分自身に対して表情が険しくなった。
「……勘違いだ。別に、嫌うようなことなどお前はしていない。先程話した通り、業務が立て込んでいただけだ」
「それなら良かった〜〜……!せっかく先輩と仲良くなれそうな気がしてたのに……って、本当に気が気じゃなかったんです」
杏奈の声から安心したように力が抜けていた。それほどまでに自分のことを気にされていたのかと思うと堪らなくなり、海寧の中で張り詰めていた糸が、音もなく切れた。
海寧は、自分を突き動かす衝動を隠しきれなくなり、毒を含んでいるかもしれないその言葉を躊躇いがちに吐き出した。それは、場合によっては、自分自身を傷つける刃だと分かっていながら。
「先日、お前とさらを街で偶然見かけた。……二人でいただろう。随分と……その、親しげに」
普段通りに言葉を発しているつもりでも、言い方に少し棘があったかもしれない。海寧は、気まずさから視線を伏せた。
杏奈は一瞬、何のことかと目を丸くしたが、すぐに状況を理解したのか、驚きと、少しの戸惑いが交互に押し寄せているようだった。
「え?……ああ!あれは会長が遊びに誘ってくださって」
チクリとまた胸に棘が刺さったような気がした。それから、ドス黒い渦が胸の中を支配しそうになる衝動に駆られる。
「何?さらが……?」
(さらが……?遊びに誘って……?梅沢を……?)
「……そうか。二人で遊びに出かけるほど、お前たちが親しくなっていたとは……知らなかった」
(なぜ?どうして私が、こんなにイライラするんだ。別に、梅沢は何も悪いことは言っていないのに)
「帰りに歩いてる人にぶつかられて、危うく転ぶところだったんですけど、会長が咄嗟に……」
「……もう、いい」
杏奈の言葉は、海寧の心に冷水を浴びせた。事故。抱き合っているように見えたのは、ただの事故だったのか。それまでの海寧の葛藤は、あまりにも空虚な思い違いだったというのか。それに対する安堵と共に、また新たに知った事実。自分の知らない間に二人がそんなに親しくなっていたという驚きと、何とも言えない複雑な想いがせり上がってきた。
(……私は、梅沢と学外で会ったことなどないのに)
「えへへ。海寧先輩、もしかして……ヤキモチですか?」
杏奈は冗談のつもりで、ふわりと笑って言い放った。その無邪気で、あまりに核心を突く言葉が、海寧の取り繕おうとしていた心を粉々に砕いた。
「な……ッ!?」
意表を突かれ、瞬時に真っ赤に染まった海寧の顔が、街灯の光に晒される。海寧は杏奈に射抜くような鋭い視線を投げたが、その瞳は激しく揺れていた。
「ば、バカを言うな! 私は、私はただ……!」
「……なんて、海寧先輩がそんなわけないですよね。あ!でも、会長と海寧先輩、すごく仲が良いですし、信頼関係や絆が深いから、会長のことが大切で、だから妬いちゃうのも無理もないか! って……あれ?海寧先輩?」
よりにもよって杏奈はあらぬ方向に納得してしまい、海寧の心中をさらへの嫉妬だと思い込んでいる。その勘違いが、海寧の中で何かのスイッチを強制的に押し切った。
「違う、私は……!!」
柄にもなく、海寧の声が裏返る。杏奈が不思議そうに海寧の方を向き、海寧の顔を覗き込もうと距離を詰めてくる。その瞬間、海寧の理性の防壁が音を立てて崩れ去った。咄嗟に顔を覗き込もうとする杏奈の手を掴み、顔を赤くしたまま睨みつけた。
「……っ、私が妬いていたとしたら、なんだと言うんだ」
それは海寧自身も驚くような、あまりにも脆く、震えを帯びた声から咄嗟に零れた言葉だった。
杏奈が呆然と声を漏らし、足を止める。
海寧は自分の口から出た言葉に息を止め、即座に「しまった」と内心で悲鳴を上げた。だが、一度放たれた言葉は、冷たい雪の中に残り、二人の間に重い沈黙をもたらす。
掴んだ手を、やんわりと離す。
「……ばーか、冗談だ」
海寧は作りこんだ不敵な表情を見せて言い捨てると、逃げるように足早に歩き出した。
不敵な表情を何とか作り込んでも、顔の熱が引かない。心臓がうるさすぎて、自分の思考が追いつかない。こんなところ……後輩に、杏奈に、見られるわけにはいかない。
「え、……ええええ〜〜っ!?冗談!?せ、先輩も冗談言ったりするんですね!意外でした!」
顔を赤くしたまま後を追いかけてくる杏奈。
「……フン、私だって冗談くらい言える」
そんな強がりを言いながら、海寧は必死に表情を隠す。しかし、その背中は、杏奈を突き放すにはあまりに脆く、不器用だった。杏奈はそんな海寧の背中を見て、小さな笑みをこぼした。
──まだ、帰りたくない。明日から冬休みだなんて、信じたくない。二人の足音が、夜の静寂の中に溶け合っていく。
二人の間に流れる空気が、さっきまでの硬質なものから、少しずつ形を変え始めていた。
雪はさらに勢いを増し、街灯の明かりを霞ませる。誰にも見られないこの静寂の夜が、海寧の抑えていた想いを、少しずつ雪解けさせていくようだった。海寧は、隣を歩く杏奈の横顔をそっと盗み見ながら、この時間がまだ終わらなければいいと、柄にもなく思っていた。




