仙石海寧は、上手な嘘が吐けない③
※本話の一部は杏奈以外の視点で描かれています。
礼拝の厳粛な余韻がチャペルの石壁に反響し、鈍い痛みを伴って胸を打つ。
キャンドルの灯りが一つ、また一つと消され、広大な空間が冷たい闇に包まれていく中で、海寧の指先だけは、冷え切った金属の燭台のように凍りついていた。
生徒会室への往復を終えて戻ったチャペルには、取り残されたような静寂が満ちていた。先ほどまで残っていたはずのさらたちの姿はなく、きれいに片付けられた祭壇の周囲には、冷たい冬の気配だけが漂っている。
海寧は、あの日以来、意識的に杏奈を視界から排除していた。人混みの中でさらと触れ合っていたあの光景が、視界の端に杏奈の影が映るたびに蘇るからだ。そのたびに海寧の胸は、誰かに根元から抉り出されるような不快な疼きに支配されていた。
一方の杏奈は、海寧が自分を突き放し、視線を逸らし続ける日々に、耐え難いほどの寂しさや息苦しさを感じていた。
海寧が何故、そんな態度を取るのか理由は分からない。それでも、自分に向けられる刺すような冷たさの裏側には、悪意というよりも、どこか切実なものを感じていた。だからこそ、自分がもしも気づかない内に何かしてしまっていたなら、できるだけ早急に直したかった。
このまま冬休みに突入すれば、二人の間に生まれたはずの淡い繋がりすらも、凍てついた冬に埋もれて消えてしまうのではないかという恐怖。
(うん……やっぱり、このまま気まずいまま先輩と別れるのは嫌だ。せめて最後くらい普通に話したいよ……)
杏奈は、備品をまとめる海寧のどこか硬い背中に向かって、一歩足を踏み出した。祭壇の重厚な空気が、彼女の鼓動の音を吸い込んでいく。
「……あの、海寧先輩!」
その呼びかけに、海寧の肩が小さく強張った。
彼女は振り返ることなく、淡々と燭台を布で拭き続けた。その背中に張り付けた拒絶の壁を突き破らせまいとするかのように。
「……何だ」
背中越しに響く海寧の声は、刃物のように硬質で、突き放すような冷たさを孕んでいる。その言葉とは裏腹に、燭台を持つ指先は白くなるほど強く締め付けられていた。
杏奈は深呼吸をして、冷えた空気を肺に溜め込む。震える指先を制服の裾で強く握りしめ、自分を鼓舞した。
杏奈の中で、海寧に嫌われたくないという感情と、拒絶を恐れずに踏み込みたいという勇気が激しく衝突する。
「このまま、何も分からないままでいるのは嫌です。備品の片付け、私にも手伝わせてください!そのあと……もしよろしければ、一緒に帰ってもいいですか?」
海寧の動作が、ふいに止まった。
金属の燭台が、布の上でほんの少し高い音を立てる。沈黙がチャペルに重くのしかかり、ステンドグラスの隙間から吹き込む冬の風が、二人の間の温度を奪っていく。
杏奈からの突然の誘い。いつもなら規律や業務を理由に即座に断るべき案件だ。しかし、ここ数日、海寧自身もまた杏奈を避けながら、その実は誰よりも杏奈の視線を求めていたことに、脳裏のどこかで気づき始めていた。
(なぜ、私が……後輩に誘われた程度で、こんなに動揺しているんだ)
自分の心臓が、耳元で鐘を鳴らすように大きく跳ねる。拒絶すべきだと理性が叫ぶ一方で、海寧の心は、自分を必要としてくれた後輩の言葉に、どうしようもなく甘い高揚を感じていた。思考が真っ白になり、論理的な言い訳が一つも浮かばない。海寧は、自分がひどく動揺していることを悟られまいと、あえてゆっくりと威厳を保つように振り返った。
「……どうしたんだ、急に。自分の業務が終われば、後は冬休みだぞ。私を手伝うことに何の利点がある」
海寧が振り返るとそこには不安げに、それでもまっすぐに海寧を見つめる杏奈の瞳があった。海寧はその瞳の中に、自分の中に渦巻いているものと同じ、名付けようのない熱源を見た気がした。
「利点とかそんなんじゃなくて。私は、ただ……先輩と、帰りたいんです」
杏奈の言葉は、飾りのない直球だった。
海寧の喉の奥が熱くなる。
(……私と帰りたいだと!?)
疑問に思いつつも、拒絶しても諦めずに歩み寄ってくる杏奈の真っ直ぐな姿に、海寧の中の頑なな氷が音を立てて溶けていく。それと同時に、彼女自身の隠していた淡い何かの一角が、亀裂から密かに顔を覗かせた。
海寧は努めて淡々と、喉の奥から絞り出すように答える。高鳴る鼓動を隠すために、今はわざと不機嫌そうな仮面を被らねばならなかった。
「……分かった。ただし、帰る際は寄り道は一切許さない。……さっさと終わらせるぞ」
海寧は杏奈の返事も待たず、重い燭台を抱えて足早にチャペルを後にした。その歩幅はいつもより少し乱れ、手元の燭台が少し震えている。
杏奈は海寧の背中を追いかけ、冷たかった先輩がようやく少しでも自分を受け入れてくれたことに、胸がじんわりと弾んでいた。安堵と微かな喜びを胸に秘めて、二人は雪の降る校舎へと駆け出した。
◇
帰路へ続く廊下。誰の足音もしない静寂の中で、二人の靴音だけが軽やかに重なる。窓の外では、先ほどよりも幾分か大きくなった雪が、外灯の光に照らされながら音もなく降り続いていた。
海寧は前を向いてはいるが、隣を歩く杏奈の温もりを感じ、自分の心臓がこれほどまでに騒がしいものであることを初めて知った。それは規律でも業務でも制御できない、暴走する感情の波だった。




