仙石海寧は、上手な嘘が吐けない①
※本話の一部は杏奈以外の視点で描かれています。
天ノ川女学院の長い廊下を歩く際、海寧の足音は、一切のノイズを許さないほど正確なリズムを刻む。磨き上げられた寄木細工の床に、ヒールの硬質な音が一定の間隔で弾け、冷え切った廊下の静寂のなかへ吸い込まれていく。
窓の外では、灰色を帯びた冬の雲が低く垂れ込め、廊下全体を薄い影の膜で覆っていた。
彼女にとって、この学院とは秩序そのものだった。
完璧な規律、完璧な礼節、そしてその頂点に立つ生徒会という組織。副会長として、彼女はその背骨を正すことに己のすべてを捧げてきた。生徒たちが羨望の眼差しを向ける完璧な副会長として、無駄な感情などという不確定な要素を排して日々を過ごすことこそが、彼女の矜持でもあった。
──けれど、この数日。その矜持の根幹に、小さくも確実に芯を蝕む棘が刺さっている。
視界の端で、先日街で見かけた光景が、呪いのように反芻される。
人混みの中、ふと足を止めた先には、さらと梅沢杏奈の二人の姿。遠目から見守るしかなかった海寧の瞳には、杏奈がさらの腕の中に深く沈み込み、あろうことかさらがその腰に手を回し、密着させている様子が焼き付いていた。
二人の輪郭は重なり、人目も憚らず身を寄せ合う姿は、秘密の時間を過ごしているかのような親密さだった。
あのとき、海寧はつい足を止めた。自分の心臓が、見たこともないような速さで打ち鳴らされたことを覚えている。
さらが杏奈に向けていた、これまで見たことのない表情。そして、その腕の中で身を委ね、甘えるように上目遣いを向ける杏奈。二人の周囲には、誰にも立ち入らせないような閉鎖的な空気が充満していた。……ように見えた。
なぜ自分がそれを直視し続けられなかったのか。なぜ、その場から背を向けて逃げ出すように立ち去らねばならなかったのか。その理由は今も分からない。ただ、あの光景を思い出すたび、胸の奥底で正体不明のモヤモヤとした霧のような不快感に近い何かが広がっていく。
それ以来、海寧はあからさまに杏奈を避けてしまっていた。
顔を合わせれば、何だか杏奈に冷たくしてしまいそうで。それが嫌で、廊下ですれ違えば、言葉を交わす前に冷淡な視線を投げて足早に通り過ぎる。
生徒会室で彼女の姿を見つければ、即座に書類の山に視線を落とし、実務的な会話以外は徹底して避けるようになっていた。手元のペン先だけが、意味もなく紙の上を行き来する。
なぜそうするのか、海寧にも分からない。ただ、杏奈の無邪気な姿を見ていると、どうしてもあの街での光景が脳裏を蘇り、胃のあたりが焼けつくように熱くなるのだった。
今の海寧はただ、梅沢杏奈と距離を取ることでしか、この溢れ出しそうな感情の濁流をせき止められないでいた。
◇
今日は、冬休みを控えたクリスマス礼拝。天ノ川女学院の伝統行事の一つであり、一年の中でも重要な催しの一つだ。
全校生徒がチャペルに集まり、静寂の中で一年の終わりを省みる。海寧は、その厳粛な進行を管理し、細部までを監視する立場にあった。
チャペルに入るとそこは冬の冷気と、無数のロウソクが放つ柔らかな光に支配されていた。蝋の焼ける仄かな匂いが、静謐な空気にひとすじ溶け込んでいる。
厳かな讃美歌の調べが、高いアーチ天井へと吸い上げられていく。海寧は最前列に近い聖歌隊席の裏手に立ち、生徒たちの整列を俯瞰していた。
ふと、視線が吸い寄せられるように一箇所で止まる。
──梅沢杏奈。
彼女は、祭壇の明かりを静かに見つめていた。教会の高いステンドグラスから差し込む月光とキャンドルの炎が交差し、杏奈の横顔をなぞる。
ふわりと柔らかな輪郭が浮き彫りになり、彼女が瞬きをするたびに、長い睫毛が影を落とす。
いつもなら、生徒会の報告書の不備や彼女の礼儀作法……そういった観察の対象として見ていたはずだった。
いや、今もそのように観察の対象として彼女の適性を見極めている途中で、──しかし、今の海寧の瞳には、炎をじっと見つめる彼女の瞳の奥にある、微かな揺らぎやあどけなさが混ざったような表情までが鮮明に映っていた。
自分がどれほど距離を取り、冷たく接しようとも、杏奈の存在は海寧の視界から消えることがない。むしろ、遠ざけようとすればするほど、杏奈という存在は海寧の心の中で重みを増していくばかりだった。それがどうしてなのかわからないまま、海寧は密かに胸の内で自問自答を繰り返した。
そんな中、歌声がふっと消える。
チャペルを塗り潰すのは、重苦しいほどの沈黙だった。無数のキャンドルの炎だけが、微かに揺れ、静寂の中で息づいている。その刹那、杏奈がふとこちらに顔を向けた。
──目が合った。
海寧は息を呑み、慌てて視線を逸らした。
心臓が、冷たい氷の床を激しく叩くように、不規則に大きく跳ねた。胸の奥に押し込めていたはずの、街での光景がフラッシュバックし、指先まで冷たくなるほど動揺していた。
(何をしている、落ち着け、仙石海寧。お前は今、業務中だぞ。……礼拝の進行を確認しろ)
言い聞かせれば聞かせるほど、鼓動の音は大きくなる。冷たいはずのチャペルの空気の中で、海寧の頬が熱を帯びていることに、海寧自身もまだ気づいていなかった。その熱が、秩序の崩壊を告げる合図だということも知らずに。




