天ノ川さらは、非日常を感じたい④
※本話の一部は杏奈以外の視点で描かれています。
いつの間にか、すっかり外は薄暗くなっていた。
行き交う人々の輪郭が、街灯の淡い光に滲みはじめている。昼間の賑わいが少しずつ夜の静けさへと移り変わっていくその境界の時間に、私たちは駅へ続く道をゆっくりと歩いていた。吐く息はもう白く色づき、頬に触れる空気は昼間よりもいっそう冷たさを増している。
「本当はまだ……あなたと試してみたいことがいっぱいあるんだけど、そろそろ帰らなくちゃね」
隠すことなく名残惜しそうな表情を浮かべる会長。夕闇に沈みかけた街灯の光を受けて、その横顔にはいつもの凛とした余裕とは違う、どこか儚げな翳りが差していた。
そんな顔をされたら私まで……。と、思っていると、先を急ぐ行き交った人の肩が私にぶつかり、会長の胸へ倒れ込むようにして体勢を崩してしまった。そんな私を、咄嗟に抱き留める会長。
──ふわりと甘い匂いがした。
一瞬遅れて、今、自分が会長の腕の中にいることを脳が理解する。コートの生地越しに伝わる体温、規則正しい心音、そして鼻先をくすぐる上品な香り。それらすべてが一度に押し寄せて、思考が真っ白になった。
「す、すすすすすいません!!」
慌ててそっと肩口を押して離れようとする私を、会長は優しく抱きしめ直す。
そ、外ですよ!?か、会長!!!!?
顔に熱が一気に集まる私とは違って、会長は落ち着いた様子で、照れる私に追い討ちをかけるように耳元に唇を寄せた。吐息が耳朶をかすめ、その温もりだけで身体の力が抜けそうになる。
「──今日は、本当に楽しかったわ。ありがとう、杏奈」
今、……私の名前。
会長がこんなふうに、苗字ではなく名前を呼んでくれたのは初めてだった。たったそれだけのことなのに、耳に残った響きが胸の奥深くまで沈み込んでいく。
「また……一緒に遊んでくれる?」
懇願にも似た声でそんな風に言われて、私が拒めるはずもなく。ううん、お願いされなくたって、実際、私も今日はすごく楽しすぎるくらい楽しかったから。答えに迷いなんて一切なかった。
「もちろん、喜んで!」
その言葉を聞くと、安心したように小さく会長は微笑んで、抱きしめた腕を解いた。冷たい外気が、離れた身体の間へすっと流れ込んでくる。
「それじゃあ、またね!」
名残惜しいけど、そんな穏やかなムードのまま会長は自分の家がある方へ歩き出し、私は会長の後ろ姿を見送った。街灯の光の輪を一つ、また一つと抜けていくその背中が、やがて夜の闇へと溶けていく。
まさか、そんな様子を誰かが見ているなんて、知ることもなく──。
「あれは……さらと梅沢……!?どうして二人が抱き合って……」
◇
「はぁ、今日は本当にとっても楽しかった」
帰り道、今日一日のことをさらは思い返していた。
(甘いクレープを分け合ったり、カラオケで好きなアイドルの曲を歌ったり、杏奈の好きな曲を知ったり、彼女の歌声を聞いたり。歌を歌う時は、あんな顔をするのね。歌声も可愛らしかった)
杏奈のことを思い出すうち、意図せずさらの表情は和らいでいた。夜風が頬を撫でていくのも、今はどこか心地よく感じられる。
(プリクラもあんなに忙しいなんて思わなかったけど、何だかドキドキしたし、綺麗に撮れていたからさゆりや紫苑にも見せたいわ。海寧は、どんなリアクションをしてくれるかしら?チャームも似合うと思って渡したけれど、お世辞じゃなくて、杏奈は本当に喜んでくれたかしら。喜んでくれていたら良いけれど……)
次に頭を過ぎったのはつい先程の出来事。
(小柄だとは思っていたものの、いざああしてみたら本当に小さくて……何だか小動物みたいだったわね)
そこで、さらは抱きしめた時のことを思い出して、顔がまだ火照っているのに気付く。しかし、そんな自分に驚くことはなく、寧ろどこか、納得しているようだった。
(初めは、ただの興味対象。──それだけだった。これまでの学院にはいなかったタイプのあの子が、どう天ノ川女学院で立ち回るのか、高みの見物をするつもりでいた。けれど今日一日、隣を歩いてみて分かったことがある。あの子は、見ているだけでは足りない)
「……ふふ、私ったらきっと」
(興味対象などと呼ぶには、もう遅すぎたのね。別に、驚くようなことでもない。欲しいと思ったものを、欲しいと言えずにいたことなんて、これまで一度もなかったのだから……)
帰路に就くさらの足取りは、なんの迷いもなく、軽やかだった。すれ違う街灯の光を一つ、また一つと、いつもより早い歩幅で追い越していく。




