命運のチャリティーバザー⑤
「終わったぞ」
包帯の端を丁寧に整え、海寧先輩は小さく息をついた。その吐息が微かに頬を掠め、私は心臓を跳ねさせる。傷はまだ熱を持っているのに、先輩の手が触れていた場所には、包帯越しに不思議な温もりだけが残っていた。
「無理はしないように。……今日は、もう休んでいろ」
救急箱の蓋を閉じる先輩の声は、先ほどまでの冷静な警備責任者のそれではなく、年上の女性としての柔らかな響きを帯びていた。
「みんなまだ頑張っていますし、私だけ休むわけには……」
食い下がる私に、先輩は呆れたように眉を寄せ、その視線を真正面から捉える。
「責任感があるのは美徳だとは思うが、……一人で抱え込んでも誰も喜ばない」
一拍置いて、先輩は続けた。
「今日くらいは、周りを信じてみろ。皆もお前が思っている以上に頼りになる。だから、今は私の言うことを聞け」
命令、というよりは懇願に近い響きだった。胸の奥がぎゅっと締め付けられる。まっすぐな瞳に射抜かれ、私は降参するようにこくりと頷いた。
「……はい」
廊下側から、控えめなノックが聞こえた。
「失礼するわ」
扉が開き、さら会長が静かに姿を現す。その凛とした佇まいに、救護室の空気が一瞬にして引き締まった。
「海寧、応急処置は終わった?」
「ああ。傷は深くないが、今日は安静にさせたい」
海寧先輩が立ち上がると、会長はゆっくりと私へ歩み寄った。
「梅沢さん。改めて、お疲れさまでした。事故が大事に至らなかったのは、あなたが勇気を出して動いてくれたおかげでもあるわ」
「そ、そんな。私はただ……」
「謙遜しなくていいのよ。咄嗟の判断で身体を動かすことは、誰にでもできることではないもの」
会長は少しだけ声の調子を変えた。
「ただ、二つだけ。反省してほしいこともあるわ。困った時は、人を頼ること。責任感の強い人ほど、それを忘れてしまいがちよ。それから……無茶はしないこと」
その言葉に、先ほどの海寧先輩の言葉が重なる。
『今日は周りを信じろ』
『困った時は、人を頼ること』
『お前自身のことも大切にしてほしい』
『無茶はしないこと』
二人が伝えたかったことは、同じだった。私は迷わず頷く。
「はい」
「良いお返事ね」
会長は満足そうに微笑むと、ふと何かを思い出したように私を真っ直ぐ見つめた。
「そういえば、梅沢さん。さっき生徒会本部へ来てくれてたみたいね」
「はい。人手が足りないように見えたので、何かお手伝いできればと思って」
会長は静かに頷き、確信に満ちた声で言った。
「今日のあなたを見ていて、一つ気づいたことがあるの。あなた、生徒会の仕事に向いていると思うわ」
「えっ……私が、ですか!?」
思いがけない言葉に、目を見開いた。
「ねぇ、梅沢さん。もしよかったら……今度、一度生徒会室へ遊びに来ない?」
「生徒会室……ですか!?」
「安心してちょうだい。いきなり正式に生徒会へ入ってほしいという話ではないわ。お茶でも飲みながら、お話をしてみたいの。……あなたのことを、もう少し知りたくなった」
生徒会長自らそんなふうに言ってもらえるなんて、私にとっては、夢のようだった。
「わ、私でよければ……!」
「ありがとう。きっと、みんなも歓迎してくれるわ」
そう言って笑う会長の隣で、海寧先輩が小さく咳払いをする。
「歓迎するのは構わないが……まずは傷を治すのが先だ」
海寧先輩の視線が、私の包帯を巻いた腕へ向く。その眼差しは警備責任者としての厳しさと、その奥に隠しきれない心配とで揺れていた。
「……そうね。ごめんなさい、つい先走ってしまったわ。いつでも生徒会室の扉は開いているから好きな時に来てちょうだい」
その言葉は、学院そのものが私を迎え入れてくれるように温かかった。
「……はい」
返事をすると、海寧先輩もどこか安心したように表情を和らげた。
「まずは無理をしないこと。治ったら、その時に」
先輩は少しだけ言葉を切り、最後はぶっきらぼうに付け加えた。
「……さらのところへ会いに行けばいい」
救護室の窓から差し込む、冬の柔らかな陽射し。今日という一日は、私の学園生活を変える、特別な物語の始まりのような気がしていた。
救護室を出ると廊下の突き当たりの窓から差し込む光が、いつの間にか橙色を帯びていた。夕暮れが、校舎全体を柔らかな茜色に染め上げている。窓の外に目をやると、チャリティーバザーの後片付けが進んでいるのが見えた。
朝には華やかに並んでいたテントや展示台が、一つ、また一つと畳まれていく。あれほどの熱気と賑わいに満ちていた校庭にも、今は潮が引くように、穏やかな静けさが戻り始めていた。
「うめめ!」
聞き慣れた声に振り向く。紬葵ちゃんが、こちらへ駆け寄ってくるところだった。その少し後ろには、瑛良ちゃん、茉子ちゃん、藍ちゃんの姿もある。夕日を背にした四人のシルエットが、廊下の先で揺れていた。
「もう大丈夫なの?」
紬葵ちゃんは、包帯の巻かれた腕を見るなり、心配そうに眉を寄せる。その瞳には、まだ拭いきれない不安の色が残っていた。
「うん。思ったより心配はいらないみたい」
そう答えると、紬葵ちゃんは大きく胸を撫で下ろすように、深く息を吐いた。
「よかった~~……。本当に心配したんだからね!」
「ありがとう。心配かけてごめんね」
頭を下げると、藍ちゃんが呆れたように肩を竦めた。
「謝る相手が違うでしょ」
そう言って向けられた視線の先には、茉子ちゃんがいた。
さっきからずっと俯いたまま、制服のスカートの裾を小さな拳できゅっと握り締めている。
私は、ゆっくりと歩み寄った。
「茉子ちゃん」
名前を呼ぶと茉子ちゃんは勢いよく顔を上げた。夕日に照らされたその目は、少し赤く潤んでいる。
「梅沢ちゃん……。本当にごめんなさい……!」
深く、深く頭を下げる。
「私があんなところに乗ったりしなければ……」
震える声だった。きっとこの子は、あの瞬間からずっと、自分自身を責め続けていたのだろう。膝の上で握られた拳が、それを物語っていた。
私は、そっと首を横に振る。
「謝らないで。茉子ちゃんは、みんなに和傘の良さを知ってもらいたかっただけでしょ?その気持ちは、すごく素敵だと思う。だから、次は安全な方法で宣伝しようね。その方が、もっとたくさんの人に見てもらえるから」
茉子ちゃんは、しばらく黙っていた。夕風が、彼女の前髪をそっと揺らす。やがて俯けていた顔が、小さく上下に動いた。
「今度はちゃんと考える」
「約束」
差し出した小指に、茉子ちゃんがおずおずと自分の指を絡める。その仕草に、私もようやく肩の力を抜くことができた。
「ほんっと、うめめは甘いんだから~。怪我したんだから、もうちょっと怒ってもいいと思うよ?」
「怒れないよ。だって、茉子ちゃんも怖かったと思うし」
その言葉に、藍ちゃんが小さく笑った。瑛良ちゃんも静かに頷く。
「だから助けに飛び込めるんだろうな、梅沢さんは」
「無茶は感心しない。……でも、杏奈らしい行動だったとは思う」
思いがけない言葉に、私は目を丸くした。みんなの優しさが、じんわりと胸に染みていく。
「ありがとう」
そんな和やかな空気を裂くように校舎の時計が、澄んだ音で午後五時を告げる。その鐘の音は、茜色に染まる冬の夕空へ、吸い込まれるように溶けていった。
校庭では、生徒たちが最後の片付けを終えて、今日一日の労をねぎらう声があちこちから聞こえてくる。
笑い声、拍手、誰かを呼ぶ声。
それらが混じり合い、穏やかな喧騒となって夕暮れの空気に溶けていた。
チャリティーバザーは、大きな事故になることもなく、無事にその幕を閉じた。
私は、茜色に染まる校舎を見上げる。
窓ガラスの一枚一枚が、夕日を受けて金色に燃えているようだった。今日だけで、たくさんのことがあった。
先輩たちの責任ある姿。誰かを守るということ。そして、人に頼るということ。どれも、天ノ川女学院へ入学する前の私なら、きっと知らないままだった。
包帯を巻かれた腕へ、そっと視線を落とす。
夕日に照らされた白い包帯が、淡く橙色に染まっていた。
傷はまだ鈍く痛む。それでも、不思議と嫌な痛みではなかった。この学院で踏み出した、小さな一歩。その証のように思えたから。ふと、救護室で交わした、会長の言葉が蘇る。
──いつでも、生徒会室の扉は開いているから。
その一言が、胸の奥で静かに、確かな重みを持って響いた。
(……生徒会)
私なんかに務まるのだろうか。不安はある。それでも。ほんの少しだけ、その扉の向こうを見てみたいと思った。
冬の夕風が、火照った頬を優しく撫でていく。
新しい季節は、まだ少し先。私の学園生活は、今日という日を境にゆっくりと新しい物語へ向かって動き始めていた。




