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命運のチャリティーバザー④

「事故があったと聞きました!」


生徒会役員たちだった。その先頭には、天ノ川さら会長の姿もあった。慌ただしい現場だというのに、その足取りにはひとかけらの焦りもない。澄んだ瞳だけが、隅々まで一瞬にして現場を見渡していた。


倒れた展示什器。


散乱した和傘。


立ち尽くす来場者。


そして──私の左腕。会長は目を細めたが、すぐに落ち着いた声で指示を飛ばす。


「展示エリアは一時封鎖してください」


「はい!」


「来場者の皆様を安全な場所へご案内して」


「承知しました」


「怪我人は?」


瑛良ちゃんが、一歩前へ出た。


「負傷は梅沢さん一名です。倉田さんをかばった際に腕を切っています。意識ははっきりしています」


「そう」


会長は短く頷いた。その落ち着いた佇まいに、周囲の空気も少しずつ静まっていく。


「展示担当は什器の固定状況を確認。会計担当は寄付金と展示品の管理を優先。事故の経緯は後ほど報告書を作成します」


矢継ぎ早に指示が出される。役員たちはそれぞれ短く返事をすると、すぐに持ち場へ散っていった。事故が起きたばかりだというのに、会長は誰かを責めることも、慌てることもしない。ただ優先すべきことを見極め、一つひとつ確実に処理していく。嵐の中心だけが、不思議なほど静かなようだった。


「梅沢さん。腕を見せてもらえるかしら」


私は、おそるおそる袖を押さえていた手を離した。


裂けた制服の袖。そこから覗く傷口。じわりと滲む赤い血。


会長は眉一つ動かさなかった。ただ静かに傷を確認すると、そばにいた役員へ顔を向ける。その時、


「会長」


低く落ち着いた声が響く。人垣の向こうから、一人の生徒がこちらへ歩いてくる。副会長兼今回のバザーの警備責任者──海寧先輩だった。彼女は現場に到着するなり、倒れた展示什器を確認し、散乱した展示物、周囲の安全、そして最後に私へと視線を移す。


その目が、私の腕で止まった。


一瞬だけ。本当に一瞬だけ、その表情が揺らいだ。


「……怪我をしたのか」


海寧先輩にしては珍しい、動揺の滲んだ声だった。短い一言に、抑えきれない感情が滲んでいる。


「海寧」


会長が、静かに振り返る。


「展示エリアの安全確認は終わったわ」


「ああ、周辺の危険は排除した。来場者の誘導も完了している」


簡潔な報告。それだけ告げると、海寧先輩は再び私の方を見た。その視線は、傷口から離れない。


「梅沢」


名前を呼ばれ、背筋が伸びる。


「腕を見せてくれ」


「心配をおかけしてすみません。でも、大丈夫です。少し切っただけなので……」


慌てて袖を押さえると、海寧先輩はほんの少し眉を寄せた。


「それを判断するのは、お前ではない」


怒鳴っているわけではない。それでも、不思議と逆らえない力があった。私はおとなしく、腕を差し出す。


海寧先輩は、傷口へ目を落とした。


裂けた制服。滲み続ける血。その様子を見た瞬間、先輩の表情が明らかに曇った。


「海寧、救護室へお願いできるかしら」


「もちろんだ」


海寧先輩の返事は早かった。会長からのその言葉を待っていたかのように。


「本当にこんなのかすり傷なので……!」


「駄目だ」


間髪入れず、返ってきた。


「でも──」


「駄目だ」


今度は、少しだけ強い口調だった。その場にいた全員が、一瞬だけ海寧先輩を見る。海寧先輩自身も、少し言い過ぎたと思ったのだろう。一度視線を伏せ、小さく息を吐いた。改めて、落ち着いた声で言う。


「怪我人を無理に動かすわけにはいかない。これは警備責任者としての判断だ。……行くぞ。救護室まで案内する」


自然に私の歩幅へ合わせ、一歩前へ出る。先輩の手を煩わせてしまったというのに、どこか私を気遣うように歩くその姿に、不思議と肩の力が抜けていくのを感じた。



賑やかだったバザー会場を離れると校舎へ続く渡り廊下は、驚くほど静かだった。人いきれの熱も、絵の具と出店の匂いも、ここまでは届かない。冬の風だけが窓の外の木々を優しく揺らし、乾いた音を立てて枯れ葉を舞わせていた。


私は、海寧先輩の少し後ろを歩いていた。


どちらも口を開かない。


会話のない時間が続いているのに、不思議と気まずさはなかった。ただ、腕の傷の疼きよりもこの静けさの方が、なぜか落ち着かない。


(何か話した方がいいのかな……)


そう思った時だった。


「痛むか」


前を向いたまま、海寧先輩がぽつりと尋ねた。


「え?」


「腕だ」


私は慌てて首を振る。


「だ、大丈夫です!」


海寧先輩は足を止めた。振り返るその表情は、さっきと同じくらい真剣だった。


「……また、その言葉か」


「え?」


「大丈夫、だ」


怒っているわけではない。でも、どこか困ったような響きがある。


「梅沢。お前は、人を安心させようとして、その言葉を使いすぎていないか?」


言われてみれば茉子ちゃんにも、紬葵ちゃんにも、瑛良ちゃんにも……そして、会長にも、海寧先輩にだって。私は今日だけで、何度も同じ言葉を口にしていた。


「……す、すいません」


つい謝ると海寧先輩は小さく首を振った。


「思った通りか。謝る必要はない。だが、」


少しだけ間を置いて続ける。視線は、包帯代わりに巻いた私のハンカチへ落ちていた。


「本当に痛い時まで我慢する癖は、直した方がいい」


その声音は、驚くほど穏やかだった。叱っているというより、心から案じているような響き。


思わず、笑ってしまう。


「おい、笑うところではない」


「すみません」


「だから謝る必要はないと……」


今度は、少し呆れたような声。そのやり取りが可笑しくて、私はまた笑ってしまった。すると海寧先輩も、本当にわずかだったけれど──ふっと口元を緩めた気がした。


(……え、)


足が止まりそうになる。初めて見た。海寧先輩が、こんなふうに自然に笑うところを。


冬の弱い日差しが、その横顔をほんの一瞬だけ淡く染める。


次の瞬間にはもう、いつもの凛とした表情へ戻っていた。


……見間違いだったのだろうか。そう思うほど儚い笑みだったのに、不思議とその表情だけが、いつまでも胸の奥に残っていた。


冬の風は、相変わらず冷たい。なのに、胸の奥だけが、不思議なくらい温かくて、私は少しだけ胸を押さえた。



救護室の扉を引くと外の喧騒が嘘のように遠ざかった。


静けさの中に、消毒液の鋭い匂いと微かに甘い石鹸の香りが溶け合っている。窓辺のカーテンは白く、冬の弱い光がそこを透かして、部屋全体を淡い青白さで満たしていた。まるで、この一室だけが世界から切り離されているようだった。


「こっちだ」


海寧先輩に促されるまま、診察用の椅子へ腰を下ろす。


「先生は巡回中か……」


室内を見渡した先輩は、短くそう呟いた。先輩は慣れた手つきで救急箱を取り出すと私の前で片膝を折った。


──至近距離だった。


膝と膝が触れそうな距離。


冬の冷えた空気の中に、先輩の体温だけがはっきりと伝わってくる。


「少し袖をまくるぞ」


小さく息を呑むと、先輩は無言のまま動きを止めた。


「失礼する」


一言断って、先輩は私の手首をそっと支える。その指先が触れた瞬間──冷たいはずの指先が、触れた途端に熱を帯びたように感じられた。


傷に障らないよう、驚くほど丁寧な手つき。


布を少しずつ浮かせていく間、俯いた先輩の吐息が私の手元にかすかにかかる。その熱さに、救護室の空気がふいに薄くなったような錯覚を覚えた。


「手間を取らせてしまって、……すみません」


無意識にそう零すと、先輩は再び顔を上げ、今度は私を射抜くような鋭さで見つめた。その瞳の奥に警備責任者としての責任感とは違う、激しい感情の渦が垣間見えた気がした。


「なぜ謝る。怪我をしたのは、お前の落ち度ではない」


言葉に詰まる私をよそに、先輩は消毒液を含ませたガーゼを手に取る。


「少し染みるぞ」


次の瞬間、鋭い刺激が腕を走った。


「……っ、」


反射的に肩へ力が入る。先輩は片手でそっと支えて固定した。手のひらが、私の二の腕を優しく、けれど逃さないように包み込む。


「痛いか」


「だ、大丈夫です」


先輩は小さく眉を下げ、長く息を吐いた。


「……また、その言葉だな」


包帯を巻く手元を見つめたまま、独り言のように静かに続ける。


「今日一日、お前は何度『大丈夫』と言った。周囲を安心させたい気持ちは分かる。だが、自分の痛みまで誤魔化す必要はない」


包帯が一周、また一周と重なっていく。先輩の指先が、その布越しに私の腕をなぞるように動くたび、傷の熱さとは違う、じりじりとした疼きが腕の内側を伝った。


私は意を決して、ぽつりと呟いた。


「迷惑をかけたく……なかったんです。みんな忙しいし、バザーの途中で、私一人くらい我慢すれば……」


先輩の手が止まり、包帯を結び終えるとそのまま先輩は私の顔を真っ直ぐに見据えた。これほど近くで、逃げ場のないほど真剣な眼差しを向けられたのは初めてだった。


窓から差す光が、先輩の瞳の奥に小さな粒となって揺れていた。


「梅沢、お前は今日、一人の生徒を守った」


先輩は視線を少しだけ伏せ、言葉を選ぶように続ける。


「その咄嗟の勇気は誇るべきものだ。だが……お前自身のことも大切にしてほしい」


その一言には、警備責任者という立場を越えた、もっと個人的で切実な響きがあった。


──傷つくお前を、もう見たくない。


言葉にならない想いが、消毒液の香る静かな空気の中に、静かに溶け出していくようだった。


「ありがとうございます」


先輩は何も言わず、ただ頷くだけだった。その眼差しに浮かんだ慈しみの色は、窓越しの冬の日差しよりも、ずっと温かかった。

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