美澄瑛良は、気まぐれに手を差し伸べる④
「今日は本当にありがとう」
瑛良ちゃんは少しだけ視線を逸らし、
「……テスト、頑張って」
とだけ言って歩き出す。
数歩進んだところで、不意に振り返った。
「……杏奈」
「ん?」
「……赤点だけは、取らないで」
真面目な顔で言われてしまい、私はつい吹き出した。
「あははっ!努力します!」
「……ばか。笑い事じゃない」
口では呆れたように言いつつも、その口元には小さく笑みが浮かんでいる。それを見届けると、瑛良ちゃんは今度こそ校舎の奥へ消えていった。私はその背中を見送り、小さく胸へ手を当てる。
(この学校に来たばかりの頃は、不安しかなかった)
今は違う。茉子ちゃんの明るさ。藍ちゃんの面倒見の良さ。つむつむの優しさ。そして、瑛良ちゃんの静かな温もり。少しずつだけど、この学園で過ごす時間が居場所へと変わり始めている気がした。そんな穏やかな気持ちのまま渡り廊下へ差しかかった、その時だった。
──ふと、空気が変わる。
廊下の向こう側から歩いてきた生徒たちが、自然と左右へ道を譲り始めた。
「……生徒会」
その囁きが耳に届いた瞬間、私も反射的に顔を上げる。
夕陽を背に四つの影がゆっくりとこちらへ近づいてきていた。先頭を歩くのは、さら会長。その半歩後ろには、真っ直ぐ前だけを見据える海寧先輩。さらに、穏やかな笑みを浮かべるさゆり先輩と飄々とした紫苑先輩が続く。
私は無意識に背筋を伸ばした。
(また……会った)
胸の鼓動が、少しだけ速くなる。
私は慌てて廊下の端へ寄り、小さく頭を下げた。生徒会の四人は変わらぬ足並みでこちらへ近づいてくる。
夕陽が長い廊下を黄金色に染め、その光を背負う彼女たちの姿は、まるで一枚の絵画のようだった。
先頭を歩く会長は、私を見ると柔らかく微笑む。
「ごきげんよう、梅沢さん」
「ご、ごきげんよう!」
まだ少しぎこちない私のお嬢様口調にも、会長は何も言わず穏やかな面持ちのままだった。
その隣では、海寧先輩が静かに私を見つめている。相変わらず隙のない姿勢。長い黒髪は夕陽を受けて艶やかに輝き、その理知的な瞳は私の些細な変化さえ見逃さないようだった。何も言われていないのに、自然と背筋が伸びる。
「……梅沢」
「は、はい!」
名を呼ばれただけで心臓が跳ねた。海寧先輩は私の前で歩みを止める。
「期末考査が近い。勉学には慣れてきたか」
予想外の問いだった。私は一瞬だけ言葉に詰まり、それでも正直に答える。
「まだまだです。でも、皆さんに助けてもらいながら何とか頑張っています!」
「……そうか」
海寧先輩は短く頷いた。その視線が、私の抱えている参考書へ向く。表紙には数学の問題集。さらに、視聴覚室から借りてきた参考資料が数冊。彼女はそれを見て、小さく息を吐いた。
「逃げずに向き合っているようだな」
その一言に、私は顔を上げる。てっきり私の思い描いていた海寧先輩なら、当然だと切り捨てそうな場面だった。それなのに今の言葉には、ごく僅かだが評価するような響きが混じっていた。
「ありがとうございます!」
私がそう答えると、海寧先輩は少し目を細めた。
「礼を言うには早い。努力は結果を伴って初めて評価に値する」
「……はい」
「私は、まだお前を認めたわけではない」
その言葉は厳しい。でも、不思議と胸は痛まなかった。最初の日のような拒絶ではない。これは試されているのだ。見極めようとしてくれている。そう感じられた。
私は自然と笑っていた。
「ですが、先輩方にも認めてもらえるように頑張ります!」
その返事に海寧先輩はほんの一瞬だけ目を見開いた。
予想外、そんな表情だった。
それから海寧先輩は、不敵な笑みを滲ませた。
「……フン、その意気だけは買っておこうか」
会長がくすりと笑う。
「海寧ったら。ずいぶん優しいのね」
「何のことだ」
いつものように淡々と返す海寧先輩だったが、会長は面白そうに肩をすくめた。その様子を見ていた紫苑先輩も笑う。
「へえ。海寧が褒めるなんて珍しい」
「褒めてはいない」
「はいはい」
さゆり先輩も口元へそっと手を添えた。
「梅沢さん、期末考査、応援していますね」
「ありがとうございます!」
私が頭を下げると、生徒会の四人は再び歩き出した。海寧先輩だけが最後に一度だけ振り返る。
「梅沢」
「はい!」
「期待はしない」
一拍置いて、言葉を選ぶように。
「……だが、失望もしたくない」
その一言だけを残し、彼女は歩き去っていった。
私はその背中を見送る。
胸の鼓動が少し速い。
最初に出会った時とは違う。
怖い。
だけど、それだけじゃない。厳しい言葉の奥にある、不器用な誠実さ。自分の基準で真正面から人を見ようとする真っ直ぐさ。
(海寧先輩って……)
やっぱり、不思議な人だ。
私は小さく笑うと、参考書を抱え直した。
「よし」
期末考査まで、あと少し!勉強も、この学園での生活も、私はまだ始まったばかりだ。
夕焼けに染まる校舎を見上げ、私は一歩、前へと踏み出した。
◇
その日の帰り道。私鉄の駅へ続く銀杏並木は、夕焼けを受けて黄金色に輝いていた。風が吹くたびに、色づいた葉が一枚、また一枚と舞い落ちる。
私は肩に鞄を掛け直し、小さく空を見上げた。
(このところ、いろんなことがあったな)
狂言。
つむつむと交わしたノート。
瑛良ちゃんとの勉強会。
そして、生徒会とのやり取り。
編入したばかりの頃は、毎日がついていくだけで精一杯だった。
それなのに今は、一日が終わるたびに思い出が増えていく。
誰かと笑って、誰かに助けられて。
少しずつ、この学院での時間が私の日常になり始めている。
「……頑張らなくちゃ」
誰に聞かせるでもなく、小さく呟いた。
ママはきっと、
「努力は裏切らないわ」
そう笑うだろう。
パパなら、
「杏奈ちゃんなら大丈夫だよ〜」
と、いつもの調子で背中を押してくれるに違いない。
だから私も応えたい。この学園を選んでくれた二人に。そして、ここで出会った人たちに。
夕暮れの風が前髪を揺らす。
私は自然と歩幅を大きくした。
◇
その頃──生徒会室。重厚な扉が静かに閉まり、室内には紅茶の香りが漂っていた。大きな窓から射し込む夕陽が、磨き上げられた机を橙色に染めている。会長はティーカップを傾け、小さく笑った。
「今日は随分と熱心に見ていたじゃない、海寧」
副会長席に腰掛けていた海寧は、書類から目を離さない。
「……巡回は私の職務だからな」
「それだけ?」
「……」
「梅沢さんのこと」
さらりと言われたその名前に、海寧の手が一瞬だけ止まる。しかし、すぐに何事もなかったように書類へ視線を戻した。
「編入生だ。学院生活に問題がないか確認するのは当然だろう」
椅子にもたれた紫苑が笑う。
「ふーん?当然ねぇ」
「阿良々木、何が言いたい」
「いや?最初に会った日はあんなに警戒してたのに、今日は少し評価してるように見えたからさ」
海寧は静かにペンを置く。
「評価ではない」
低く落ち着いた声。
「努力する者を否定する理由がないだけだ」
「それが評価って言うんだよ」
「違う」
即答だった。さらはくすりと笑う。
「海寧は本当に素直じゃないわね。紫苑もそのくらいにしておきなさい」
「私は事実しか述べていないが……」
「ふふ、そういうことにしておきましょう」
海寧は小さく息を吐き、窓の外へ視線を向けた。
校門へ続く坂道。そこを小柄な赤髪の少女が軽い足取りで歩いていく姿が見える。参考書を胸に抱え、何かを考えて、それでも前だけを向いて歩く後ろ姿。
最初に見た時とは違う。あの日は、学院の空気に飲まれそうになっていた。しかし、今はどこか違う。戸惑いを抱えつつも、自分の足で前へ進ろうとしている。周囲に流されるのではなく、自分の居場所を見つけようとしている。
海寧は窓の外を見つめたまま、小さく目を細めた。
(努力する者は嫌いではない)
だからこそ。
(甘い評価は……与えない)
ここは天ノ川女学院。誰もが憧れる名門。生半可な覚悟では、最後まで立ってはいられない。彼女が本当にこの学院で歩み続けられる人間なのか。それを見極める責任が、自分にはある。
海寧は静かに窓から目を離し、再び書類へ視線を落とした。
「……期末考査」
ぽつり、と呟く。
「そこで分かる」
会長は、その横顔を見つめ、柔らかく微笑んだ。カップをソーサーへ戻し、優雅に言葉を紡ぐ。
「楽しみね」
夕陽が完全に沈み、天ノ川女学院は静かな夜を迎えようとしていた。
しかし、梅沢杏奈の学院生活は、まだ始まったばかり。
友情も。恋も。試練も。
そのすべてが、この先に待っていることを、まだ誰も知らない──。




