美澄瑛良は、気まぐれに手を差し伸べる③
しばらくの間、私たちは問題集に向かい続けた。
「この証明問題は、まず結論を書いてから逆算する。公式を覚えるより、使う理由を考えた方が……忘れない」
瑛良ちゃんの説明は、驚くほど分かりやすかった。難しい言葉を並べるわけでも、長々と解説するわけでもない。どうしてそうなるのかを一つずつ丁寧に積み重ねてくれる。
今まで霧の中を歩いていたような数式が、少しずつ輪郭を持ちはじめた。
「解けた!」
最後の問題を解き終えた私は、嬉しさのあまり小さく声を上げた。
「全部、自分で解けた!」
答案用紙を抱きしめると、瑛良ちゃんは私の解答へ静かに目を通す。
シャーペンの先で、一か所ずつ確認していく。
「全部合ってる」
その一言だけで、胸の中に張り詰めていたものが一気にほどけた。
「やったー!!」
私は、脱力感から机に突っ伏した。
「これなら、試験も何とかなりそう!」
「……油断は駄目」
すかさず返ってきた言葉に、私は笑みを引き攣らせる。
「はい、先生!」
冗談半分で敬礼をすると、瑛良ちゃんは一瞬きょとんとした顔を見せ、それから小さく肩を震わせた。
「先生じゃない」
「ふふっ、ごめん」
二人の間に、穏やかな笑いが生まれる。これまで図書室では交わせなかった何気ない会話。そのことが少しだけ嬉しかった。
窓の外を見ると、夕焼けは茜色をいっそう深めていた。校舎の時計が午後六時を告げる。
「こんな時間……!」
私は慌てて鞄へノートをしまい始めた。
「付き合わせちゃってごめんね、瑛良ちゃん」
「……別に」
相変わらず素っ気ない返事。でも、その声はどこか柔らかい。
「本当にありがとう。図書室でもずっと助けてもらってたし、今日だってこんなに遅くまで付き合ってくれて」
そう言って、私は鞄とは別に隠し持ってきていた袋の中から小さな紙箱を取り出した。淡いクリーム色の箱に、ラベンダー色のリボンが掛けられている。
「え?」
瑛良ちゃんが珍しく戸惑ったような声を漏らす。
「実はね、今日はこんなものを用意してました!勉強教えてくれたお礼!」
「……お礼?」
私は少し照れて笑った。
「昨日、帰りに商店街で見つけたの。瑛良ちゃん、甘いもの苦手じゃないといいんだけど……」
そう言って箱を机の上へ差し出す。瑛良ちゃんは箱と私の顔を何度も見比べていた。どうやら自分が受け取っていいものなのか迷っているようだった。
「開けても……いい?」
「もちろん!」
遠慮がちにリボンをほどき、箱の蓋を開ける。中には、小ぶりのマフィンが二つ並んでいた。ふんわり焼き色のついた生地の上には、白いアイシング。星形と小さなリボン型の飾りが可愛らしく添えられている。
「可愛い……」
控えめに漏れた瑛良ちゃんの一言に、私はぱっと笑顔になる。
「よかった!」
「見た瞬間、瑛良ちゃんに似合いそうって思ったんだ」
「……私に?」
「うん。普段はクールだけど、本当はすごく優しいから、優しい色のお菓子が似合う気がして」
言った瞬間、私は「あっ」と口を押さえた。
(しまった……!)
ちょっとストレートすぎたかもしれない。
瑛良ちゃんは何も言わない。
ただ箱の中のマフィンをじっと見つめている。
長い沈黙の後、
「……いただきます」
そう小さく呟くと、中を開けてそっと一つ手に取った。
恐る恐る一口。
ふわりと甘い香りが漂う。
そのままゆっくりと咀嚼し、小さく目を伏せる。
私はつい身を乗り出した。
「……どう?」
少しだけ間が空く。瑛良ちゃんは、視線をマフィンへ落としたまま小さく口を開いた。
「……おいしい」
その一言は、とても短かったけれど、どこか柔らかい響きがあった。
「本当?」
「……うん」
もう一口。今度は最初より少しだけ迷いがない。ほんのり口元が緩んだような気がして、私は自然と頬が緩むのを感じた。
(よかった)
気に入ってもらえた。その事実だけで、嬉しくなる。
静かな視聴覚室には、小さく紙が擦れる音だけが響いていた。そんな穏やかな時間の中で、不意に私は気付く。
「あ」
「……?」
「瑛良ちゃん」
彼女が顔を上げる。
その口元には、白いアイシングがほんの少しだけ付いていた。
私はその微笑ましさに笑ってしまう。
「口元、ついてるよ」
瑛良ちゃんは慌てて自分の頬へ手を伸ばしたけど、場所が少し違う。
「違う違う、こっち」
考えるより先に身体が動いた。私はそっと手を伸ばし、人差し指で彼女の口元に残った小さなアイシングを優しく拭い取る。
柔らかな肌。
一瞬だけ触れた体温。
「……っ」
瑛良ちゃんの身体がぴたりと固まった。大きく見開かれた瞳が、信じられないものを見るように私を映している。
「ご、ごめん!」
私もようやく自分の行動に気付き、慌てて手を引っ込めた。
「その……汚れてたから、つい……!」
顔が熱い。耳まで真っ赤になっているのが自分でも分かる。
一方の瑛良ちゃんはというと、俯いたまましばらく微動だにしなかった。その後、小さく息を吐き、
「……ばか」
本当に小さな声でそう呟く。
怒っているわけではない。照れ隠しだと分かるくらい、その声は震えていた。
気まずい沈黙が流れる。
私は何か言わなきゃと思うのに、言葉が見つからない。瑛良ちゃんも俯いたまま、手の中のマフィンを見つめている。
しばらくして、瑛良ちゃんは意を決したように深呼吸を一つすると、まだ手を付けていないもう一つのマフィンをそっと持ち上げた。そして、おずおずと私の方へ差し出す。
「……これ。……まだ食べてない」
視線は泳いだまま。耳は真っ赤なまま。それでも彼女は小さく唇を動かした。
「……一口だけなら」
私は目を丸くする。
「えっ?」
「……その」
恥ずかしさで今にも俯いてしまいそうになりながらも、瑛良ちゃんは手を引っ込めなかった。
「……お礼」
それだけ言うと、さらにほんの少しだけ私の口元へマフィンを近付ける。
「あ……あーん」
瑛良ちゃんのその一言は、消えてしまいそうなくらい小さかった。
私は堪らず息を呑む。
さっきまで無表情だった瑛良ちゃんが、ここまで勇気を振り絞ってくれた。その気持ちが嬉しくて、胸がいっぱいになる。
「……いただきます」
私はそっと口を開き、差し出されたマフィンを一口だけ頬張った。甘いアイシングの味が口いっぱいに広がる。だけど、それ以上に伝わってきたのは、目の前の女の子が精一杯踏み出してくれた、小さな勇気だった。
私がマフィンを飲み込むと、瑛良ちゃんはほっとしたように小さく息を吐いた。
その表情は、普段教室で見せる無機質な横顔とは違っていた。どこか気恥ずかしそうで、少しだけ安心したようで、そして何より、ほんの少しだけ嬉しそうだった。
「……これで、おあいこ」
ぽつり、と瑛良ちゃんが呟く。
「おあいこ?」
「……勉強を教えたお礼と、お菓子のお礼」
またうっかり頬が緩んでしまった。
「瑛良ちゃんって、律儀なんだね」
「……普通」
照れ隠しなのか、瑛良ちゃんはぷいっと顔を逸らした。そんな姿が可愛らしくて、私はまた笑ってしまう。
「笑わないで」
「ご、ごめん。でも……」
「?」
「瑛良ちゃん、そうやって照れるんだなって思って」
「…………」
返事はない。だけど、否定もしない。代わりに、彼女は空になったマフィンの箱を丁寧に閉じると、大切そうに袋へ戻した。その手つきには、静かな慈しみがにじんでいた。
「……ありがとう」
今度は、はっきりと。私の目を見て言った。
「お菓子も」
少し間を置いて。
「……今日は、楽しかった」
私は、言葉を失った。
教室ではいつも一人。休み時間も本を読んでいる。誰とも必要以上に話そうとしない瑛良ちゃん。そんな彼女が、楽しかったと口にした。その一言だけで胸がいっぱいになる。
「私も」
自然と笑顔になる。
「また一緒に勉強しようね!」
瑛良ちゃんは一瞬だけ目を丸くしたあと、小さく頷いた。
「……別に、いいけど」
素っ気ない返事だったけど、これまで聞いた瑛良ちゃんのどんな返事よりも温かかった。
◇
二人で視聴覚室を出る。
窓の外は、すっかり夕暮れに染まっていた。西日が渡り廊下を黄金色に照らし、長く伸びた私たちの影が静かに重なる。
しばらく無言で歩く。
不思議と気まずさはない。
静かな時間が心地よかった。
昇降口が近づいたところで、瑛良ちゃんがふと立ち止まる。
「……私、こっちだから」
「そっか」
私は少しだけ名残惜しさを覚え、笑みをこぼした。




