田中 悠樹①
悠樹視点です。
三月の風はまだ冷たい。コートのポケットの中で、俺は小さな箱をずっと握りしめていた。
田中悠樹、二十四歳。営業職三年目。特別イケメンでも、飛び抜けて優秀でもない、どこにでもいる平凡な男。それが自分に対する、正直な評価だ。
ただ一つだけ誇れることがあるとすれば——六年間、ずっと同じ人を好きでいられたこと。それだけだ。
「悠樹!」
声がして振り返ると、コートの裾を翻しながら莉奈が駆け寄ってくるところだった。
小川莉奈、同い年の二十四歳。丸みのある目が人懐っこい印象を与える、愛嬌のある顔立ち。高校一年のときに同じクラスになって以来、ずっと俺の隣にいた女だ。
この温かな微笑みを見るたび、彼女に出会ってよかったと思う。
「ごめん、電車混んでて」
「いや、俺も今来たとこ」
なんてカッコつけたけど実は嘘だ。
本当は三十分も前からここに待っていた。
緊張と寒さに耐えきれずコンビニのトイレに3回も入ってしまったという情けない事実は俺の中で永久封印しておこう。
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俺達はいつもの洋食屋に入り、ハンバーグを食べながら他愛もない話をした。
莉奈の職場の愚痴……俺が今月達成した営業目標……共通の友人の近況。
なんてことない時間だが、それでも俺達にとっては大切な1つの思い出なんだ。
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食事が終わり、デザートのプリンが運ばれてきたタイミングで、俺は意を決した。
「あのさ、莉奈」
「ん?」
俺はポケットから小さな箱を取り出し、テーブルの上に置いた。
莉奈の丸い目が見開かれる。
「付き合って六年だろ? そろそろ……一緒にならないか?」
自分でも驚くほど、声が震えた。
はぁ……いつも営業先では堂々としているくせに、この人の前ではどうしてこうも情けなくなるんだろう。
莉奈はしばらく箱を見つめ……ゆっくりと手を伸ばして蓋を開けた。
箱の中から顔を出すシンプルなダイヤモンドの指輪。
給料三か月分……そこまで高い物じゃないが、清水の舞台から飛び降りる覚悟で買ったんだ!
「悠樹……」
「嫌なら無理にとは」
「馬鹿……じゃないの」
莉奈は笑いながら目頭を押さえた。
「嫌なわけないじゃん。ずっと待ってたんだから」
彼女の口からその言葉を聞き、俺の口から六年分の緊張が、息と共に一気に抜けていった。
「よかった……」
「よかったじゃないよ! 言うならもっとちゃんと言いなよ、プロポーズなんだから」
「そっそうだよな……。 では改めて、俺と結婚してください」
「……はい」
洋食屋の片隅で、二人で笑い合った。
周りの客が何人かこちらを見ていたがどうでもよかった。
この瞬間だけで……俺の心は満たされる。
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その夜、アパートに帰ってから、電卓を叩いた。
結婚式の費用、新居の敷金礼金、家具家電の買い替え、新婚旅行……。
ざっと試算するだけで、軽く三百万は飛ぶ。
今の俺の貯金では到底足りない。
”いや……金がないなら稼げばいいだけだ!”
俺はノートに計画を書き始めた。
残業を増やす……資格を取って手当を狙う……週末は副業も検討する!
莉奈と一緒になるための具体的な道筋。
書いているうちに不思議と気持ちが落ち着いてきた。
やることが見えると、気持ちが前向きになるもんだな。
ブーブー……
そのとき、スマホが光った。
莉奈からだった。
『指輪、すごく嬉しかった。大切にする』
続けて、ウェディングドレス姿のスタンプが届く。
「ったく……」
口元が緩みつつ、俺は返信を打った。
『絶対幸せにする。少し時間をくれ』
『うん、待ってる』
”待っていてくれる人がいる”
それだけで、どんな残業も乗り越えられる気がした。
翌朝から俺の生活は変わった。
六時起きで出社し、終電近くまで働く。
休日も書類を持ち帰り、空いた時間はFPの参考書を開く。
飯を食う時と寝る時以外に心身共休まる時はないと言っても過言じゃない。
過度なスケジュールに耐えきれずに体は毎日悲鳴を上げ続けたが……俺は我慢した。
莉奈と会う頻度や連絡のやり取りも少なくなってしまったが、これも2人の将来のためだと莉奈には納得してもらったが……正直、罪悪感で胸が押しつぶされそうになった。
ごめんな、莉奈。
寂しい思いをさせてしまった分、結婚したら精一杯幸せにするからな!!
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俺は幸せに向かって少しずつ確実に進んでいった……そう思っていた。
でも俺は気付いてもいなかった。
俺が頑張っている裏で、少しずつ変わり始める莉奈の心を……。
次話は莉奈視点です。




