解放2
少し唐突ですが、今回を一応の最終話とさせていただきます。
一方ユマオは目を見張った。
今の今まで泣きながら母に抱きつき耳を塞がれていた彼女は、一連の驚くべき、恐るべき事態にまるで気づいていなかったのだ。
顔をあげると、赤くなった鼻を母が優しくつついた。
「しかし驚いたの。お前が弟を孕むとは」
「え、お、お話しましたか?」
「いいや。ただわかりやすかったというだけじゃ。何しろ《顔》と一緒におるのじゃからな」
「顔……」
「うむ。スヌーヌと言ったかな? 仮面の下が非常に気になる」
毒も皮肉も残酷もない、淑やかだが大輪の笑顔を向けられたスヌーヌは思わず唸る。
まさに美しの君だ。
ちょうど延長線上にいたネスルたちも、親の仇と知りながら息を呑まずにはいられなかった。それだけの力がある美貌だった。
たとえばおぞましい正体を知ってなお、人魚の声に聞き惚れてしまうように。
金髪の若者がくすくす笑う。
「怖がらないでよ、《顔》のお兄さん。君だって僕らの一部なんだから」
放たれたとどめの一撃に、サーラブがとうとう耐えかねて叫ぶ。
「何の話だ!」
もちろん血脈は、この哀れな老人を労る優しさなど持ち合わせてはいないのだった。それぞれ一番麗しい表情で言ってのける。
「ジジイにゃ関係ねえだろうよ」
「冥土の土産のつもりかね」
「あなたの理解力じゃあたぶん無理よ?」
「死人の戯言だ。気にするな」
無茶苦茶だ。ビルニークがぎりぎり歯を鳴らす。
「巻き込んどいて、勝手に終わらせる気か!」
女王が苦笑する。
「それはこちらの台詞だ。お若いの」
今度の声はだいぶ冷ややかだった。
「勝手に巻き込み巻き込まれておいて、立ち去る機会も捨てておいて、好きに言ってくれるものだね」
「好奇心に殺されねえだけましだろうが」
屋敷は死んだように静かだった。
逃げる人々が開け放った扉から忍び寄る夜の風、月光、これに照らされた冠。神聖な気配を、ぶつぶつ爪を噛む醜い年増が台無しにしている。
コドクは冠を手にとる。
「で、被りたい奴はいるのか?」
「断る」
真っ先にこたえたのは美しの君だ。サーラブの萎れた手が宙をさまよう。
「それならばいっそ茨鉄を用意してほしいものだな」
「死霊王かよ。美しの?」
「ふふ。でも姉さんは神の席なんかいらないでしょう? あ、僕もいらないよ?」
「だよな。いらねえな。つうか邪魔」
二人の弟が首をふる。コドクは年長者に目をうつす。
「わかってることを聞かないでよ。鋳潰せば茨にはできるでしょうけど」
「もちろんいらぬ。お前が被るか? なかなか似合うと思うがな」
コドクは大げさに眉をあげる。口にするのも馬鹿馬鹿しい。そんなけだるい声が聞こえてくるようだ。
部外者一同にはまったく信じがたい展開だけれど、これで決まりだった。
眠たげな人魚を舞台に立たせ、血脈はすっと横一線に並ぶ。
色も身長もてんでばらばらの一群なのに、気高い横顔のせいだろう、はっきり統一感がある。
「我ら最古の王」
美しの狂王が華やかに口火を切ると、
「十二冠を戴く人形にして」
金髪の、
「神話の末席に繋がれたもの」
また銀髪の若者がうたい、
「名も無き語り部」
女が妖艶な囁きを添えた。
「であれば、終止符を打つのもまた」
老人の深く重々しい声色が、
「我らに課せられた役目というもの」
一切淀みなくコドクの宣言に変わる。
彼らの声は、人魚程ではないがよく響いた。そういうやり方を皆しっかり心得ているのだ。あの神代の舞を学んだ幼き日々の延長に立ち、彼らは笑う。
神よ、と呼ばわれた人形の右目がゆらゆら波打った。
ユマオがスヌーヌがサーラブがネスルが、息を殺して見つめるけれど、神はそんなものまるで見えていないようだった。
「約束はもう要らないの?」
人魚の歌が春の色なら、彼女は春夏秋冬すべてだ。もっと大きな巡りや実り、慈悲や残酷。聞く者によってそれは少女であったり赤子であったり、女の妖艶な誘惑や呆けた老婆の思い出でさえあったりした。
反対と呼ぶには大きすぎる、もっとまったく違うところから来た何かなのだ。
天の高みから、あるいは地の奥深くからの、《声》。
「ああ」
コドクはこたえた。見物人にはよく見えなかったけれど、彼はどうやら笑ったようだった。
「選択の枝は枯れていないみたいだけれども?」
「そうだな。でもいらない。兄弟だって同じことを言うさ。知ってるだろ。それともこれじゃあ、破棄するには足らないか?」
ふむ。と、楽しげな思案を挟む。
「いいや、いいや。構わないさ。足りているとも。十分にね。しかし、では継承者。誓いをくれると言うのかな?」
コドクは堂々とうなずいた。
表情など見ずともわかる、紛うことなき王の風格だった。
「天に高く、地に深く」
唱和する血脈に乱れはなく、ひとつの生き物のひとつの声が月に冴えた。
「我が席をあなたにお返しする」
神は微笑む。
「受けよう」
答えは短く重たく軽やかだった。
「黒か。夜。始まりは、そう、思えば夜からだったのだね」
夜の一。ひとつめの傲慢。コドクはうなずく。
「伝承が正しければ、その通りだ」
「正しいさ。人はいつも大切なことから忘れてゆくが、君たちに関しては、忘れることを忘れているのだからね。善い悪いは別として」
「そりゃあこっちの台詞だぜ」
銀髪の若者がにやりと笑う。
我らが小さな弟の姉は、弟がそうであるように、人の基準で量れるものではない。善悪などその最たるものだ。
十二国家の契約について、あるいは人魚と失われた港町について、事実は一つしかないけれど、善くも悪くも語ろうと思えば語れる。彼女はまた深いところで笑う。
「よりによって、花散るこの世に、君たちという王が生まれるとは、面白い。実に面白いね。兄さん、姉さん。そのうち舞を見たいものだね。わたしの可愛い左手によろしく」
呆気ない終わりだった。
善くも悪くもアル・ラベェの正当な血筋を示し続けてきた古き王冠は、コドクの手の中で砂のようにくだけ散ったのである。
しばらくの間欠片は光そのもののようにきらきらと宙を舞っていたけれど、それもかすかな朝の風と共に街の外へ消えていく。
人魚ががくんと膝を崩した。倒れてしまう前に老人がふわりとその体をすくいあげ、よろめきもせず歩き出す。なるほど、老人とは思えない力強さだった。それでも老人にしか見えないのが、恐ろしいところである。
「眠っちまったな」
「無理もない」
「よう頑張っておったからの」
「忙しいのは苦手なのに」
「うふふ。かわいいわねえ」
「むにゃむにゃしてんな。何の夢だ?」
歩幅は違うのに、皆ぴったりと合わせて歩く。
音もなく進む彼らの姿は、水や風が淀みなく流れる様を思わせた。いつかの見事な剣舞のように、他人が割って入る隙なんかどこにもない。
「賭ける? 僕は『歌ってる』に十」
「じゃあ俺は『人形と遊んでる』に十」
「おや被ってしもうたの。先のに十じゃ」
「私は『人魚を食べる』に十」
「わたしは……」
「姉さんはだめだよ」
「当たるだろ」
「除け者ってこと? まあ当てるけど」
「コドクはどう見る?」
美しの君が袖を引くと、コドクはふっと顔をほころばせた。いつでも陰りの消えない微笑は、こんな月夜によく映える。
「『天使が生まれる』に、十」
「あら」赤毛の女が目を丸くする。
「ええ? 当たっちゃったの?」
金髪の若者が大げさに嘆いた。
それでも声はおさえていたので、人魚の眠りを邪魔することはなかった。
美しの君は呆気にとられる娘の手を引き、銀髪の若者はスヌーヌの青い帽子を奪った。どちらもすれ違いざま実に自然な仕草である。それで二人は戸惑う暇もなくするりと彼らに巻き込まれてしまう。
「手を繋ぐなどいつぶりかな?」
「どうでしょう……母上はやわらかいですね」
「おい、帽子!」
「もういらねえだろ? くれよ、これ。気に入った」
「お前だってやわらかいさ。ちょっとばかり大きいけれど」
「はあ? 趣味悪いな」
「うふふ」
「いい色じゃねえか」
「ちょっと妹、わたしも繋がせなさいよ」
「賛成。こんな綺麗に染めるのはすごいよ」
「ユマオ、反対の手をお出し」
「染めの兄が喜ぶぜ」
「こうですか?」
「そうそう。かわいいわね」
「ふふ。私の娘だからな」
「仮面まで欲しがるんじゃねえだろうな」
「おや、くれるのかね?」
「はあ……、まあ、そのうちな」
遠ざかる声は軽やかで、何ら引きずるものもなく、穏やかな朝にふさわしい。
よく響く廊下から完全にその気配が消えてしまっても、かわりに朝が匂っても、残された五人はまだ動けなかった。
一体どこへ身を隠していたのか、使用人が恐る恐る姿を見せはじめ、広間の悲惨な有り様に絶句する。
だが片付けなければならないのはこの部屋だけではない。
冠は、なくなってしまったのだから。
やることはいくらでもある。
まずは再び貴族たちを集めねば。そのためにはサーラブの力がいる。
ネスルはまだ彼を許す気にはなれなかった。が、今まで通り憎もうとするなら、昨晩目にしたこの老人の苦悩もすっかり忘れるしか方法はない。父の名にかけて、そんな恥知らずなまねはできなかった。
迷った末に、つぶやく。
「隠居するのは、しばらく我慢していただかねばなりません」
サーラブは静かに笑う。
「そうだな。だが、その話はまた明日にしよう。今日は……いや、もう昨日か。とにかく、さすがに、お互い疲れただろうから」
「ええ。ごもっともです」
従僕も召使いも、憑き物どころか魂さえ落としてしまったような主人の頼りない微笑みを心配そうにうかがっている。あんな「化け物」騒動があった場所に(一度は置いて逃げ出してしまったとは言え)ちゃんと戻ってくるくらいだ。余程慕われているのだろう。
自分の視野の狭さに、ネスルは今更驚いてしまった。手を借りながら寝室へと去ってゆく先達の、小さな、しょぼくれた、しかし大きな大きな背中に、彼はすっと頭を下げる。
両の拳を合わせ、腕の高さを保ったままゆっくり膝をつく。ぎこちない、だが心からの敬意を表して。
ビルニークさえこれに従った。
長い夜の、あるいは神話の、これが終わりの合図になった。
拙作にお付き合いいただき、ありがとうございました。
今後、もしかすると少し足したりするかもしれません。
このあたりがわかりにくかった、説明不足など、ご意見ご感想いただけると大変嬉しいです。




