再会3
あの戴冠式は、きっといつまでも語り継がれてゆくだろう。
ネスルが母から聞いたように、ドッブの祖父が重たい口を開いたように。
人は語らずにはいられない。
型破りもいいところ。
狂っているとはまさにあのこと。
けれど美しかった。
美しかった。
美しかった。
古代趣味に並々ならぬこだわりを持っていた女王だから、当然、この大事にもその衣装を用意させた。上半身は赤く、裸足に絡むのは黒ずんだ緑。まさに花を纏った女王は、螺旋の城壁を軽やかに駆けあがった。引きずる裾は長ければ長いほどよいものとされ、これをどう捌くかが淑女のたしなみであった。城壁の足元に群がった民がちょっと飛び上がれば届きそうなくらいに長く長く垂れていた。これをまるで苦にせず、平民地区から商人街を抜け貴族街をまわり宮殿へ。
本来ならばゆっくりゆっくり歩き、時に立ち止まっては民に手を振りかけ、供が花を撒き、民はありがたく王の冠を拝む儀式だ。
そこをものの数十分で走り抜けたのだから、誰もが呆気にとられた。
「あっはっはっはっはっはっはっ!」
赤い唇を大きく開いて次々に皆を指差しながら、彼女は笑った。
「なんて間抜け面! なんてなんてなんて間抜けな! 醜いなあ! おい、これが余の民か? まったくひどい冗談もあったものだな。ええ?」
宮殿で待ち受けていた官吏も侍女も、思わず棒立ちになった。
「はん。冠も見えないか?」
女王はふと白けた顔で首をかしげる。
「跪け」
これが、正式に彼女の下した最初の命令になった。
王として。
どんなに頭がおかしかろうと彼女は王なのだと、こんな短い言葉で皆が思い知った。以後どんな残酷な振る舞いも止められなかったのは、この一日の記憶が骨に魂に刻み込まれたせいだ。
「能無しどもが。せいぜい余興を考えるんだな。こんな砂だらけのみすぼらしい土地、余はいつだって捨てられるんだ」
たかが十五、六の娘である。だがこの投げやりな声はどこまでも熱がなく、かといって冷たいのでもなく、ただ人々を恐れさせた。
あれから五十二年。
重石のなくなった都で、人々はこの世の春を語り、真っ昼間から呑み騒いで、王女は母を追いかけたのに違いないと笑いあった。元が亡霊なのだ。女王の影なのだ。死霊の列に加わることに何の抵抗があろうか。これでこれでこれで、この世の春。自由の到来。歓楽街コルンフォリーにはあらゆる娯楽があふれかえった。娯楽。快楽。気持ちのよいこと。砂のさらさら流れるのに、においはべったりとけだものじみて、甘ったるいより最早臭い。細い筋に目を向ければ、女の足がてらてらぶらぶら揺れている。
「こんなことって」
と、踊り子が口をおさえて目を潤ませた。
「こんなことって、だって、ねえ、自由になったんでしょう? これからって時じゃない。ねえ、それなのに」
金髪の若者はわざとらしく首をかしげた。
「こんなこと?」
踊り子は何度も左右に首を振る。
「ひどいわ。どうして」
「わからんな。何をそんなに拒むのかね? 都は、今、あらゆる娯楽を求めておる。お前さん方の言ったことじゃろう」
「そうだよ。そこに性的なものが含まれていてはいけない、理由は何?」
「あ、あなたたちは男だからわからないかもしれないけどっ」
「あら。男だって売られていたわよ。見ていなかったの?」
赤毛の女も笑った。
「世界っていうのはね、あなたたちが思うほど愛すべきものでもなければ美しいものでもないのよ。知らなかった? お嬢さん」
「男までそんなに顔色変えてさあ。何か大変なことでも起こってるみたいじゃないか」
ネスルは返す言葉もない。彼の知っている、母の記憶の中にあったフリーヤは、決してこんな街ではなかった。「虹の羽衣」は皆身を固くしているのに、金髪の若者はじめ血脈は平然としたものだ。
「それで、宿はどうするの? コルンフォリーでとるつもりだったんじゃないの? 何かこの様じゃあ無理そうだけど」
「二つ向こうの筋がよいだろうな」
年端のいかぬ童女さえ淡々と告げる。
「この辺りは街の中心部だ。どの宿を選んでも臭いが籠っておるだろうが、城壁に面した筋なら少しはまともに息をつける。部屋の広さをとるなら五番通りだな」
「あちらは少しお高いんじゃなかった? まあ、このこの稼ぎがあるんなら余裕でしょうけど」
人魚と手を遊ばせながら女が言う。
「問題は金よりこやつらの方だな。顔見知りと出くわす可能性が、少なからずある」
「高級なだけに、か。宴なんかなくたって通い詰める奴もいるわけだ」
目を細めたコドクが冷たく笑った。フリーヤに入るなり急降下した機嫌は、まだ戻らないらしい。商人の心臓を止めた時ほどではないが、ニニギの玩ぶ刃がすっと光ったようである。踊り子は言うに及ばず、一座の男衆も知らぬうちにじりじり後ずさった。
「どっからそんな金が沸いてくんだか……」
隣に座る童女はちょっと首をかしげる。
「まあ大概は領地からだな。今の財務がどうなっておるか知らんが、宰相がサーラブのままだとすれば、おそらく、そう簡単にくすねることはできんはずだ」
「へえ」
コドクは頬杖をつく。
「随分買ってるんだな」
童女がぴたりと動きを止めた。
ゆるりと口を隠し、花が開くように微笑む。
「……なるほど。嫉妬されるのは、確かに悪い気はしないな」
ネスルたちには何が何やらわからないが、兄弟は揃って顔を歪めた。笑いを噛み殺そうとして、全員が失敗したのである。
物騒な気配が霧散し、ふてくされたコドクは顔を背ける。
かごに入れた手を人魚が持ち上げた。マチルダに引っかかれて以来、この娘が《鱗》に触れさせるのは血脈の中でもこの男一人だ。
「だぁいじょうぶー」
人魚はふわふわ笑う。
寝相がひどいせいで髪はぼさぼさである。櫛をあててもどうせすぐにごろごろやってしまうので、舞台の直前にしか整えないことに決めたのはコドクだった。やることもないのに入れっぱなしにしている彼の手を、人魚は何度も喉にやった。
「う? だいじょうぶよ? だいじょうぶだよ?」
「おい、逃げるなよ。こっちを向け」
「……さっさと行こうぜ」
珍しく荷台を降り立って歩きだした背中を、童女が楽しげに追いかける。
「向けと言うのに。コドク!」
コドクは立ち止まることなく舌打ちした。
「あんたって時々面倒くさくなるな」
普通の女ならこれですごすご引き下がるのだが、この童女が相手では、そんな展開を期待するだけ無駄だ。
「ほほう。それはまた、女にはとびきりの誉め言葉だな」
「この間は同情するとか言ってなかったか?」
「時と場合によるのさ」
コドクと童女では何しろ歩幅が違うので、童女は小走りで彼の隣に並んでいた。それでもあくまで淑やかであり、優雅である。コドクはちょっと顔をしかめ、悩んでから、童女の亜麻色の髪を一房、紐ごと指に絡めとった。
「あんたのせいで、俺の頭は大体全部、そういう、面倒くさい、ろくでもないもんで埋まってる。もうずっとだ。どうしてくれる」
この逆襲はあまりにも小さくてほとんど街のざわめきに掻き消されてしまったが、効果はてきめんだった。今度は童女が逃げる番。慌てて髪を取り戻して男を追い越す。垣間見えた耳は愛らしく色づいていた。
「おいこら、逃げるなよ。話は終わってないぞ」
「断る! 本当にたちが悪い男だな、お前は。信じられん。どんな育ち方をしたらそうなるんだ」
「それはこっちの台詞だ。あんた、自分が何やったか忘れたのか? よくまあぬけぬけと言ってくれるな」
「今の言葉、そっくりそのまま、いいや利子をつけてお返しする。絶対に、私よりお前の方が性悪だ」
「はあ? 馬鹿言うなよ」
どっちもどっちよねえ。誑しだもんな。それも生粋の。不毛じゃな。
囁きあう兄弟たちをまるっと無視して、二人は宿に着くまで互いを非難しあった。誉め称えあったとも言う。
「砂を吐きそうだわ」
赤毛の女が肩をすくめると、銀髪の若者がにやにやうなずく。
「んじゃ、俺は退散させてもらうぜ」
「あら、軍資金はどうするの?」
「怖い顔すんなよ。盗みはしねえって」
「本当に? まあいいんだけど」
「なら聞くなよ……姉はたまに酷いよなあ。まあいいや。じゃあな、ちびっこ」
人魚にさらっと手を振って、若者は雑踏の中に消えていった。あれだけ見目がよく派手な外套を着ているのに、紛れるのはあっという間だ。一度瞬きしてしまったらもうどこだかわからなくなる。
「おい、あいつどこ行ったんだよ」
ビルニークが尋ねたが、老人は笑うだけだ。
「さあな。知らんよ」
「はあ? 何だよそれ」
「ほれほれ、もう日が暮れるぞ。呑んだくれに絡まれんうちに、さっさと部屋へ引き上げんか」
「あなたは」
ドッブが珍しく声を出した。あの商人と違って、みっちりと筋肉に包まれた巨体は威圧的でさえある。反してこの男の寡黙さは、仲間でさえ、たまに困ってしまうくらいだ。
「あなたはどうする」
「夜番さ。拐われちゃあ敵わんのでね」
「俺が」
「いいや結構。……お前さんの、その素直さは、まあ悪いものじゃあなかろうがね、こんな時には頼りないものじゃ」
子守唄を歌う人魚の周りに、赤ら顔の人々がそろそろと集まってくる。
「欲に浸った人間はどんなこともする。手垢のついておらぬ珠を見れば、まず汚すべし。それがこやつらの信条じゃ。もちろん単純な力比べなら、お前さんに敵う者はそんなにおらん。しかしそれでは足らんのさ。こんな極上の珠を守るには、な」
ドッブは躊躇ったが、結局、小さくうなずいた。
老人は、一座のみならず大概の連中に、小さな子どもを相手にするように話をするのだが、これが妙に優しいうえ的を射ているから、反論は難しい。そんな模索をするのはむしろ自分が子どもであることを認めている気分になる。ネスルはどこか後ろめたい面持ちで貴族街の方角を見た。
誰がどんなに眠れずとも、欲に溺れ酒に溺れいとしいだんなさまを探し求めても、夜は粛々と更けていく。
コルンフォリーの夜。
月が路地のけだものを照らした。
けだものは気にせずおうおうと吠えた。
長引く肉欲には目もくれず、夫狂いが通りをさまよう。
いつもと変わらない、馬鹿騒ぎの夜だった。




