神の山1
よろしくお願いします。
うららかな春の日、男らがその集落を訪れたのは、多大なる好奇心とほんの少しの同情のためだった。細々と独立を保ってきた山裾の町が、このたびとうとう大国に呑まれることになったのだ。国の名前が変わるなど、今の時代にはたいして珍しくもない。しかしながら、故郷ではないにしろ馴染みだった土地だ。多少の寂しさを覚えてもいた。
次に町へ出る時、化け物と呼ばれるあの隣人たちはどんな扱いを受けるだろう。迫害か誘拐か、ひどければ皆殺しという可能性だってある。
こう案じた町の人間が、国を渡るついでに集落へ警告してやってくれ、と男らに頭を下げたのだった。ついでと言うには回り道が過ぎるが、もちろん相応の額ももらった。何故そこまでして、と尋ねてみれば、あそこの娘の一人に想いを寄せているという。しかし個人的な言伝はなかった。とっくにふられていますから、と、町では女に振り返られる側の彼は寂しそうに笑った。
「なあ、カルブ。本当にこっちで合ってんのか? どう考えたって、人が住めるとこじゃねえぞ」
ビルニークがぼやいたのを、先頭を歩くカルブは苦笑をまじえて受け流す。男らは皆ここよりずっと南方の出身で、浅黒い肌をしていた。中でも一際黒いのが彼で、今年で四十代も後半に突入するとはとても思えない健脚だった。若い頃にも集落へ立ち寄った経験を持つ、ただ一人の男でもある。
「確かにこっちだったはずだぞ、ビルニーク。俺は、記憶には自信があるんだ」
「そりゃあ、よっく知ってるけどさぁ」
「なら黙ってろ。まったく、俺も年だな。これで息が上がるんだから」
艶のある声でたしなめたのはネスルだ。歳はカルブと変わらないが、出生故、一行のまとめ役を担っている。旅芸人の一座にあって、楽士におさまるのがもったいない色男である。たくましい体つきは主張しすぎることなく衣服に適度な張りを与え、ほんのり垂れた目尻が全体の雰囲気を柔らかくしている。
六時間ほど前から、彼らは深い山道を分け入っていた。獣道、と言うべきだろう。初めてではまず見つけられない。
太古より不可侵の定められた山脈であるから、そこに人の道などあるわけがなかった。山番と呼ばれる者たちでさえ、高い高い木々の隙間に大岩の姿をみとめると、これ以上はいけねえ、いけねえ、としっかり拝んで山を下りる。大人の男が十人がかりでも囲いきれず、高さは何人も寄せつけず、東の頂きから天へそびえるそれは勇ましかった。これより先、神の域、と畏れられているのもうなずける。
そんなところを六時間だ。
神域にはもうとっくに入ってしまっている。足元の悪さに気を取られ、上を見る余裕はなかったが、肌に触れる空気の冷たさや木々の静寂がそう教えてくれた。畏れを紛らわそうとして、若いビルニークは更にひとつふたつ愚痴を零そうとした。が、不意に目を細めた。何か異様な気配を感じたせいだった。
「何か、いるな」
「ああ」
男らは四人。一方、気配の数は五。この足場の悪いなか、風が流れるように淀みない動きで近づいてくる。腕に覚えのある男らは、すぐさま得物に手を伸ばした。
気配は突然、驚くほど近くで喋った。
「おや、おかしな旅人がおるの」
「客人ですか」
「見覚えのある顔ぉ」
「殺すか?」
「お黙りよ」
ほとんど真上から降ってきた声は、男も女も老いも若きも入り混じっていた。思い思いの格好で太い枝に止まっている。剣を抜こうとするビルニークを片手で制し、カルブは強ばった声で呼びかけた。
「俺を覚えておられるか。以前、山番と共にうかがった者だが」
「覚えておるさ」
「だからそう言っただろ今」
「ふふふ。忘れっぽいくせにぃ」
「しっ。静かに」
「ともかく、ようこそ」
一人、また一人と音もなく地に降り立つ彼らの、その容姿はみな美しい。全員長い髪に細い紐を編みこんでいるが、色は様々だった。髪も紐も、同じものはひとつもない。それでいて受ける印象は統一されている。彼らの美は、突き詰めた野性。神々しく厳かで、この地そのもののように侵しがたかった。清らかな水の流れや歪みのない球体をおもわせた。山奥の蛮族などとんでもない。奴ら、と呼ぶことすらはばかられる。最も年かさであろう女は、おそらく六十は過ぎていた。それでもなお美しかった。
化け物め、と男らはほとんど感嘆の意味を込めてつぶやいた。それを聞きとがめた青年が一人、ちらとこちらを見やった。男らはかすかにおののく。
「バケモノたぁ、何だよ、姉さん」
青年は楽しげに老女に聞いた。
「わたしらのことさ、若い弟」
老女が生真面目な顔で答える。
それは二人してふざけているようでも、本気でそう思っているようにも聞こえた。
「下はどうかな。変わりないかな」
「変わったさ。そうだろ。大体何でもこっちより早く変わるだろ」
「もう、お黙りったら」
カルブは慎重に言った。
「下の町は、国に呑まれるそうだ。トリェーチィだよ。急な話で、町はまだ混乱しているところだ」
後に動乱の時代、崩冠の時代と呼ばれる、そのさなかだった。
古来よりの神との契約に基づく大陸十二国家の均衡は、北はトリェーチィの侵攻、南はアル・ラベェの混乱により崩壊のきざしを見せて久しかった。人を寄せ付けないこの山脈さえなかったら、大陸はもっとはやくにその地図を書き換えたに違いない。大きくは南北に世を分断し、細い峰や深い谷間、河川が亀裂のように広がる。神の御業と呼ばれる地形であった。地を埋め山を削る人々の努力が実った部分もあるが、恐れ多く手を出しかねている地もある。筆頭が、神岩を戴くこの大山脈。しかし、とうとうその膝元にまで、人智は迫り来ていたのである。
一瞬の静寂。
「そうですか」
中年の男がつぶやく。
「思ったより早かったな」
「まさにまさに」
「早かったねぇ」
「知ってたのかよ?」
ビルニークが思わず声をあげた。無理もない。この話が真実味を帯びたのは、つい二、三か月前のことだ。しかしながら、ここ二年彼らが町を訪れたという話は聞いていない。
老女が笑った。それにつられるようにして、一人、また一人と笑いだす。
「妹がね、聞きつけてきたのよ」
「言うほど早え話じゃなかったよな」
「あのこにしては遅いねぇ」
「わざわざ教えに来てくれるとも知らなんだ」
「あなた方はとても親切です」
男らは、「妹」とやらが何を生業にしているのか知らなかった。この老若男女がひどく得体の知れない生き物だということだけ、強く思った。それでも「ろくでもない化け物」のようには見えない。
「今日は泊まってお行きな」
「山は危ないよー」
「もうすぐ、危なくなるぜ」
朗らかな声につられて、男らは集落で宿を借りた。
ありがとうございました。




