血脈2
よろしくお願いします。
大人びた童女は目を伏せる。
来るはずがなかった今と、自由。実るはずがなかった恋。
かつてあきらめたすべてが目の前にあるのに、どうしてこの心はこんなにも重たく沈んでいるのだろう。
いや、本当はわかっている。
だって、彼女は覚えているのだ。
ネスルの目、言葉。同じものを持っていた青年を、その正義感をどんな風に踏みにじり死に追いやったかを、童女は覚えている。忘れられない。新しい生をはじめてもなお、あの長い狂った日々のすべてを昨日のことのように思い出せた。
深く物思いに沈んだ少女を、老人と赤毛の女は優しく見つめる。金髪の若者はもどかしく、銀髪の若者は興味深く。
灯火にも気づかない童女は遠く近い日々をたどり続け、やがてたった一つの喜びを想い、かすかに笑った。
親でも親の親でも兄姉と呼び、年が下なら皆弟妹である自分が、それ以外にも家族の形があることを知った。
それは、確かに喜びだったのだ。
腹に宿した小さな命。
生まれたての危なっかしい手足も、眠たいくせにいくらでも話をねだった声も、あのこの何もかもがいとおしかった。守りたかった。あのこがいると思えば、どんな残酷な振舞いの後でも立ち上がれた。
一人置いて逝くのは心残りだったけれど、あのこのことだ。きっと大丈夫だと信じていた。
大丈夫、うまくいく。
でもそれは間違いだったのかもしれないと、今頃になって童女は思いはじめていた。
間に合うだろうか。もし手遅れだったら、どうすればいい?
ぱちんっ、と火が弾けて童女は目を開いた。
兄弟たちが自分を見つめているのに、やっと気づく。
「疲れたでしょう。もう眠りなさいよ」
腹を貸してくれた姉が微笑む。
「あんたはさ、もっとゆっくり休むべきだわ」
童女は目をつむる。兄弟たちの優しさが心に刺さった。
この夜を、あのこはどんなに寂しく過ごしているだろう。ひとりきり、あの冷たい宮殿の中で。
ふらりと傾いた幼い身体をコドクが抱きとめる。
「焦るなって、言っただろ」
囁く声は甘くも叱るようだったのに、童女は何も言い返せず眠りに落ちた。
人魚にちょっかいを出したことで、マチルダと二人の若い踊り子は、座長どころかネスルや他の踊り子にまで説教される羽目になった。皆どうかしてるわ。マチルダは親指と人さし指を強く擦りあわせながらつぶやく。もちろん、心の中で、だ。あの得体の知れない連中は、短い道中であっという間に皆の羨望の的になってしまった。
顔がいいから何? 剣舞ができるから何? 気味が悪いって言ってたじゃない! 化け物だって! ネスルも! 皆も! それなのに何であたしばっかり……っ。
同じく不満を持っていた二人があっけなく謝ったのも許せなかった。
大事に大事に隠されている人魚の喉を暴いてやろう、引っ掻いてちょっと脅かしてやろう。そう思いついたマチルダを「最高ね!」なんて褒めちぎっていたくせに。
「とてもすてきな歌ね、それ」
「ほんとう。ふしぎだわ。どうやって歌っているの?」
「ねえこっちに来て、お話しましょう」
「かわいいお人形もよく見せてよ」
話しかけると、人魚はいつものようにだらしなく笑った。
「うた? にんぎょう?」
「そうよ。ねえ、こっちへ来てよ」
ずりずりと近づいてきた人魚の喉には、確かに不思議な色をした鱗があった。と言っても、本物ではない。あれは絵だ。触っても凸凹していなかった。劇仕立ての舞踊なら、自分だって肌に染料を乗せたことくらいある。その色がちょっと特別で、きらきらしているってだけ。それなのに引っ掻いたら歌えないふりをするなんて。別に色落ちだってしなかったのに、大げさすぎる。
絶対にわざとだわ、とマチルダは思った。
どう見たってマチルダと同い年かそこらの人魚を、あそこまで子ども扱いし甘やかしているのは、きっとあの連中の手口なのだ。その方が一座のおこぼれをもらいやすいとでも計算しているに違いない。どうして皆にはわからないのだろう。
こんなことを考えていたから、いくら言われても、マチルダは決して謝ろうとしなかった。
内輪の揉め事を外に漏らしたくないとネスルの意向で、一同は人魚の天幕の中で話をしていた。マチルダは入口をちらちら見て、今すぐにでも出ていきたいという気を隠しもしない。
「お前、どうしてそんなに彼女を嫌うんだ」
一番慕っているネスルが途方に暮れて問いかけても、頑として頭を下げない。ぎゅっと拳を握り唇を噛みしめている。
金髪の若者は、華やかな顔立ちにはっきりそうとわかる見下した微笑みを浮かべて言った。
「もういいよ。時間の無駄だ」
「いや、だがそれでは……」
「別に僕らはあなた方のけじめだとか躾だとか、そんなものに興味があってついてきてるんじゃないからね。言っただろう? 僕らの目的は冠見物。人魚は歌いたいだけで、あなた方は歌わせたいだけ。それでいいじゃないか」
「そうそう。許す許さないなんてのは、そっちで勝手にやってろよ。めんどくせえ」
銀髪の若者がにやにやと続ける。黙って澄ましていれば貴公子と言われても納得するのに、表情と口調のせいで大分損をしている、とネスルは思った。が、黙ってうなずく。それを終わりの合図と見て、マチルダは一目散に外へ逃げていってしまった。
一座の皆は苦い顔だけれど、当の人魚は喉元過ぎれば熱さ忘れる。何の話だかわからないとばかりに目を丸くして一同を見つめている。今日は珍しくコドクも童女も側にいないので暇潰しに話を聞いていたのだったが、人魚の足りない頭では何が何やらわからないうちに話が終わってしまったのである。
このまま解散の流れになるところ、年長組の踊り子がおずおずと手をあげた。
「あの、昨日の話なんだけど」
「昨日?」
「ああ、踊りの話ね」
弟の苛立ちはまるっと無視して、赤毛の女がにこやかに促す。
「どうかしたの?」
「私たち話し合ってみたんだけど、その、本当に勝手なお願いなんだけど……」
「教えてほしいのよ」
言いにくそうに、でもきっぱりと告げる。
また蒸し返すのかと構えていた金髪の若者は、ふと表情をやわらかくした。
それで頬が赤くなるのは、もう仕方ないので恥じらうのはやめた。
踊り子はどこか挑むようにきっと彼を見返す。
「今まで通り私たちだけで練習したって、あなたたちみたいには……人魚のお嬢さんを乗せるようには舞えないわ。それははっきりしてる」
「で、教えてくれって? おんぶに抱っこだね」
表情は変わったが台詞は相変わらず冷たく厳しい。端から聞いていた座長の方が青ざめている。
「頼りすぎなのはわかってる。でも、あたしらだって、踊り子だもの」
「目の前に最高の師がいるのに、教えを乞わないわけにはいかないわ」
銀髪の若者がくっくっと笑った。
「あんたらってさあ、真面目っつーか、馬鹿だよな。こそっと盗みゃいいのによ」
血脈においてはコドクに次ぐ「しとめ」の彼にとって、あらゆる技は習うものではなく盗むものだった。こと体捌きについて言うなら、日頃の些細な仕草や歩き方一つだって、この未熟な自称踊り子たちにはよい手本があるのだ。
兄らが派手に立ち回ったからと言って、わざわざそれを学ぼうとはまったく理解に苦しむ。
踊り子たちは彼の指差す方に目をやった。
マチルダがあんまり勢いよく幕を跳ね除け開けっ放して出ていったので、延長線上にいるコドクと大人びた童女の姿がはっきりと見えた。いつも舞台にしている馬車に腰を下ろし、話をしているようだった。
「剣なんかあんたらには無理だって。初日で血まみれになるに決まってんだから。女には女の動きがあるだろ?」
何やらコドクに耳打ちをした童女がさらりと指先を袖に隠す。
首のわずかな傾きさえ色っぽい。それも決してあからさまではなくて、見る者が何となくどぎまぎしてしまうような、ほのかな艶である。末恐ろしい五歳だった。
「な?」
踊り子たちは顔を見合わせる。
「ちょっと、勝手に話を進めないでくれる?」
赤毛の女が鮮やかに笑った。
「このわたしじゃ、お手本にならないって言いたいのかしら。ねえ、盗りの弟?」
「そんな怖ぇこと言わねえって、占の姉。あんたのは上級編だろうからさぁ」
確かにこの女性も人目を引くこと甚だしい。
盛りを過ぎかえって晩成する者も少なくない男と違い、女で三十路ともなればそろそろ衰えてくるのが世の常。これがまるで当てはまらない稀有な女がいるなら、筆頭はかの狂乱の王。アル・ラベェ混乱の渦中に咲き誇った女王以外ない。赤毛の女は、伝聞しか知らないあの女王に匹敵しているように見えた。直接に会えば傲慢な王は癇癪でも起こしたのではなかろうか。
自分より目立つものを許さない女だった。
ある時には寵愛した右腕の、男ながらにたおやかな美貌を恨んで処刑してしまったくらいだ。気まぐれにしても非道が過ぎる。
もちろん、赤毛の女にはそんな残虐さなどありはしない。ただなまめかしい。兄弟姉妹で集まっている時には、人魚の無垢、あるいは童女の大人びた振る舞いが目立っている。しかし一歩陰に引いているからこそ、濃紺の瞳と出くわした時、男らはその謎めいた輝きに心奪われてしまうのだ。豊かな赤毛と張り合う真紅の唇を、知らず知らず追いかけてしまう。
「あら。そっちがお好みなら、わたしだってそうするわよ。魅せ方を心得ているのは妹だけじゃないんだから」
そうしてさらっと口元を隠した。
つい今まで生々しく妖艶な女だったはずが、この所作一つで奥ゆかしい深窓の姫君に変わる。
男も女も、思わず息を呑む。
「……すごい」
「うふふふ。何が変わったのかおわかりかしら?」
女はその場でふわりと回ってみせる。さすがにあの集落の血だ。羽根か花びらのように軽やかだった。指から腕、肩、腰へ落ちてくる螺旋がはっきり線になって見えるのに、計算していることをまるで感じさせないやわらかさ。
踊り子たちは食い入るように回る彼女を観察した。
くるりくるり、機嫌よく舞いながら女は笑う。
「見てるだけなの? あんたたちだってできるでしょうに」
冗談じゃない、と金髪の若者が後ずさった。
「僕のは下手だって散々に言うじゃないか、姉さんは」
「それはね。コドクと比べたらね」
「だから嫌なんだってば」
「下手だって?」
ビルニークが思わず口を挟む。
と、今の今まで気配のなかった老人が声を立てて笑った。
皆一斉に彼を見る。
人魚のかごよりも二、三歩奥。
誰もいなかったはずの場所に忽然と姿を現しておいて、老人はごく当たり前のように話に加わった。
「若さじゃな、弟。お前は勢いに任せすぎじゃと、何度も言っておるだろうに」
「……驚かさないでよ」
金髪の若者はむくれた。
「奇術じゃからな。驚いてもらわねばこちらが困る」
老人はくっくっと含み笑う。ついでに何もない右手を振って大きな花束を出してみせた。
「こんなものが銅貨五枚だと。信じられるか? まったく外は恐ろしいところじゃなあ」
「銅貨五枚? ぼったくりじゃねえか。山ならそこらじゅうにあるやつだろ?」
「まさにそれじゃ。盗むかと迷ったがの、まあ、思ったより質のよい花じゃったからなあ。敬意を表して六枚を置いてきた。姿が見えんで売り物が急に金に化けたと、えらく驚いておったわ」
こんな客に目をつけられた花屋がいっそ哀れだが、銀髪の若者はまだ首を捻っていた。
「質? いいかぁ? これが?」
「もちろん、この辺りにしては、という話じゃ」
大陸最南端に位置するこのアル・ラベェは「砂の国」とも呼ばれる。一年を通して雨が少なく、雨期もあるにはあるが、それは恵みというより寧ろ災害の季節であった。砂に埋まるか雨に沈むかの両極端。緑豊かな山脈に棲む彼らとは、感覚が違っているのも道理である。
「ちょうどよかった。兄さんも一緒に踊らない? 女舞い、できるでしょう?」
「戯れに高い買い物をしたわけではないでな。遠慮する」
今度は左手から花束を出す。こちらは右の花束より少しくたっと萎れていたが、香りは強かった。
女は納得して肩をすくめた。
「それじゃあ仕方ないわね。邪魔しちゃ悪いから、外で遊ぶわ」
「おお、そうしてくれ。空気を揺らされると匂いが散る」
金髪の若者がすかさず手伝いを申し出て、残りは皆ぞろぞろと天幕を後にした。
手持ち無沙汰になった銀髪にネスルが手合わせを頼み、女は踊り子たちの前で見事な舞を披露する。いつになく賑やかな一行を尻目に空を見上げていたコドクが人魚の相手に駆り出されると、馬車には童女一人が残った。
ありがとうございました。