6 求めた声
「じゃあ、これくらいのテンポで」
トン、トン……と、ジュードが教壇の下に立ち、左手の指で軽く机を叩く。ゆっくりとしたテンポ。眠るときの心臓の鼓動よりも少し遅いくらいだ。
薔薇色の髪の少女――ユナは、こくり、と一つ頷いた。
トン、トン……!
と、改めて打ったあと、ジュードがまず、息を吸った。――身体ぜんぶと、部屋の空気すべてを満たす、声。
アルムは腕を組み、目を瞑った。
朗々と、ひくく、温かで力強い声。
“今は 若く うつくしいが ――”と、滔々と相手役の苦悩につけこみ、諭すかのような歌詞に途中から気づく。
(あぁ……この曲を選んだのか)
黒髪の若い歌長は、知らず、笑み始めた口許を隠すように右手の指を唇の下に添えた。
ひとりの、うつくしい高級娼婦の女性に、息子と別れてほしいと訴えかける厳正な父親役の男性パートを、ジュードが歌い上げている。
……いい声だし、悪くない。しかし、かれの日頃の言動がどうしても役のイメージに合わず、つい笑んでしまった。とびきり深刻な場面だというのに。
ふと目を開けて、ユナを見る。
彼女は役に入り込んでいるのか、視線は左手で支えた楽譜の上を滑っているが、右手は胸元に添えられていた。
気の強そうな眉も、今は苦悩の形にひそめられている。
――そろそろ、彼女のパートだろうか。
見守るアルムとマルセルの前で、ユナはしずかに息を吸った。
“いちど つまづいた 哀れな女!”
つよく、滑らかに澄んだ声が耳からぞくり、と入り込んだ。
悲嘆だ。
哀しみと恋人への恋情を謳いつつ、高い音域で嘆きの旋律を奏でている――声で。
高い音は通常、耳に届きやすい反面耳障りにもなりやすい。金切り声の神経質なヴァイオリンみたいなソプラノもいるけど、彼女は違う。
例えるなら金色のフルートだろうか。それも、とびきり上質で透明な音色。
息遣い、声の処理。そのどれもが自然で柔らかく、伸びやかで素直。どのフレーズにも芯が一本通っている。
そんな声の持ち主が、切々と“病に蝕まれ もう 長くはないのに――”と訴えている。
確か、主人公の女性は余命幾ばくもない状態で、恋人と短い期間を過ごしたのだったか。
アルムは、思わず感情を揺さぶられ、引きずられた。
(どうしよう……欲しい。この声、いい)
組んでいる腕も、口許を押さえる右手も、今や笑いを隠すためではない。
彼女をすぐにでも口説き落としたい、という欲求を抑えるための仕草になっている。
ユナの澄みとおって高く響く声を、下の音域で豊かに支えるようなジュードの声。
二人は同時に、あるいは交互に役を演じ歌いきって――ふと、声の共鳴が止んだ。
しん……と、部屋に静寂が訪れる。
歌い手の二人は同時に「ふぅ……」と脱力した。
ジュードは歌のさなか、ずっと紫の目許にかかっていたプラチナ色の前髪を億劫そうにかき上げた。窺うようにマルセルとアルムを流し見る。
「どうだった?」
「そりゃもう」
「――いい。すごくいい声だった。欲しい!!
ユナ、私とも歌ってくれないか? 君みたいな声をずっと探してた。君じゃないと、だめなんだ……!」
ジュードに問われ、答えようとしたマルセルに思いきり被せて、アルムが熱く言い放った。
「え、と……?」と、目を丸くし、答えられずに呆けるユナを置いてけぼりに、さらに続ける。
「実は、一ヶ月前マルセルが君だと知らずに私に教えてくれたんだ。『いい声を聴いた』って。
それから西塔のあたりは何度も探したんだけど、会えなくて……まさか、先にジュードが見つけていたとは知らなかった。でも、もういい。……どうだろう、私とも歌ってくれないか?」
「……」
「……」
熱烈な、愛の告白の体になっていることに当人は気付いていないらしい。
友人二人はもちろん、無言で見守った。
なにしろ黒髪の美少年がここまで自我を顕にすることは珍しい。二人とも「へぇ……」と腕を組み、成り行きを眺めている。
一方、口説き倒された少女は。
「………いいわよ。ふ、ふふっ!やだ、何これ。ほ、本当に、歌劇の主人公になった気分! あはははっ、だめ、可笑しい……ふふふっ」
なんと。
あっさりと、実に楽しそうに。盛大に笑いながら引き受けた。細い身体を折り曲げ、腹部を押さえているので、ある意味苦しそうでもある。
弾けるような、音楽的な笑い声。それをみずからの耳が、胸の裡から沸き立つ喜びとともに受けとめているのを感じたアルムは――
(あ、やばい)
かちり、と。
欠けていた胸の空白に、突然ぴったりはまる欠片を見つけたように。
急激に、彼女に惹き付けられてゆく自分を覚った。
ヴェルディのオペラ『椿姫』のイメージでよろしくお願いします。わぁ、おそれ多い……




