研究室篇(皐の告白)
赤池に先導されて、皐は講義室から出た。赤池は片手に講義資料が入って膨れ上がったブリーフケースを持っていた。その後ろ姿は、違和感を覚えるものがあった。大学教授を僭称していると言うのは言い過ぎだが、大学教授と言う肩書を隠れ蓑にしているような雰囲気がある。
講義室やゼミ室のあるフロアから、研究室があるフロアに進んでいくのだが、赤池と書かれたプレートが掲げられた部屋は見当たらない。壁に掛けられたフロア案内図に、研究室の配置が描かれていたのだが、赤池敏彦研究室は、学科棟の三階に存在するようだった。
赤池敏彦研究室は、人文社会科学科の学科棟の三階にあり、講義室がある階からは、階段で一階上れば良いのだが、研究室は学科棟の一番奥に存在する。
「研究室が遠くて悪いな。研究に使う本が多すぎて、一番奥に有る大所帯の研究室が使っていた部屋に最近引っ越したから……」
赤池は、研究室まで来させるのに、部屋が遠いことを詫びる。
それからしばらくすると、赤池敏彦教授と書かれたプレートが入り口の上に掲げられた、赤池敏彦の研究室の前に到着する。
「一寸待っててくれ。部屋がとっ散らかっているから」
赤池はそう言って、研究室の中に先に入っていった。
部屋の中からは、ガサゴソと言う音や積んであった本が崩れるような音がした。赤池が一人研究室に入ってから、優に十五分以上が過ぎた時、部屋の中からしていた物音が静まり、研究室の扉が開いた。
「待たせて悪いな。部屋が本だらけで、足の踏み場もない物だから……」
赤池は皐に言う。皐は、半分冗談だろうと思い、研究室に入ると驚愕した。誇張表現ではなく、本当に足の踏み場もないくらいに本が溢れていた。作り付けの本棚が本で満たされているのは言うまでもないが、後付で用意した本棚も収容スペースを失い、ダンボール箱の中に本が収められて、床に置かれていた。本の入ったダンボール箱や後付で用意した本棚との隙間を縫いながら研究室の中を進んでいくと、やっとの思いで、デスクの側にたどり着く。デスクの前には、椅子が一脚置かれていた。赤池は、疲れたろ少し腰掛けたらと、目で言う。皐は、その椅子に腰掛ける。
椅子に腰掛けて、周りを見渡すと、講義の題材に使われていた人狼や魔女、食中毒の歴史や植物毒の本、論文集が所狭しと置かれていた。その中に、異質な本が数冊混じっていた。古びた革表紙に箔押しの金箔が剥げかかったラテン語で書かれた本があった……
「赤池先生、この本なんですか?」
皐が、そのラテン語の本を手に取りながら聞くと、血相を変える。皐は、赤池の表情を見て、何かを隠していると確信した。
「赤池、来週の講義から使う参考書籍だ。よく読み込んでおけよ」
赤池は、話題を変える様に、皐に言うのだが、狼狽しているのに感づかれて、皐に追求される。
「赤池先生、何か隠してるんですか?」
ラテン語で書かれた本の正体が、悪魔を召喚しようとした人間の記録だったり、召喚方法を記したもので、書かれている内容が常軌を逸しており、他人に知られたくはない。ただ、研究室には、ラテン語を理解できる学生が居ないのが救いだ。しかし、どうも皐がラテン語を知っている可能性があるので、中身を見られないように注意を逸したい。
「そういえば、赤池はどうして、魂が減数分裂すると思ったんだ?」
赤池は皐の質問を、はぐらかそうとしているのがバレバレの話をふる。皐は、知られたくない内容が書かれた本らしいと確信したが、深く追求されたくないという意を汲んで、それに応えるのだが、耳を疑う衝撃の言葉を発した。
「それは、私が先生の子供で、魂の半分が、先生の魂で出来てるからですよ」
悪い冗談と、赤池は思った。
「赤池、冗談にも限度があるぞ」
赤池は、皐をたしなめるのだが、皐は意に介さず続ける。
「赤池先生、ううん。お父さん、冗談じゃないよ」
皐はそう言って、赤池に抱きつく。赤池は振り解こうとするが、皐はしっかりと抱きしめているし、下手に動くと、そこら中に積んである本が倒れてきて、大惨事になりかねないので、諦めた。
「俺には、子供は居ない。あれをもってヤモメと言って良いのなら、ヤモメだ。あれ以来、女性と性的な関係を持ったことがないから、子供なんて居るわけがない」
赤池は、皐の言うことを否定するが、一度だけ酔いつぶれて、飲み屋のママの部屋に厄介なったことを思い出す。しかし、その後も、その飲み屋に通っているが、実はあの日という話もなかったし、あの酔いつぶれて、厄介になった時に、過ちがあって生まれた子供なら、歳が合わない。過ちがあって生まれた子供なら、まだ中学二年生のはずである。眼の前にいる皐は、どう見ても二十代前半である。
財産と言えるのは、本に囲まれていると言うより、本の隙間で寝起きをしているという酷い生活をしているのを見咎められ、父親が建てた家だけである。無利子の分割払いが終わるまでは、父親の名義なので、正確には自分の財産とは言えない。そんな男の娘を騙ったところで、得るものは無いと思うが……
「いきなり言われても信じられないよね。お父さんが言うように、お父さんには、お父さんの遺伝子を受け継いでいると言う意味での子供は居ないよ……」
皐は、俯きながら言う。
「遺伝子を受け継いだという狭義の子供でなければ、何なんだ。まさか、あの時の。いや、ありえない……」
赤池は、皐に疑問をぶつけると同時に、ある可能性が頭に浮かんだが、そんな事があるわけがあって堪るものかと否定する。
ある可能性とは、医学部に居た時に、当時付き合っていた田川恵と性的な行為をしたのだが、その時に起きたアクシデントのことだ。事が済んでから避妊具を見ると、中に溜まっていなければならないものが、妙に少ないこと気づいたのだ。避妊具をつける時に、爪を立てていたのかして、傷がついたのだろう。避妊の意味をなしていないことに気づき、狼狽する敏彦に、恵は、絶対妊娠するわけじゃないし、避妊具を使っていても妊娠する時はすると言って、茫然自失している敏彦を落ち着かせようとしたのを、思い出す。仮にあの時の避妊の失敗で、受精し着床していたとしても、子供は存在し得ない。その日を迎える事はなかったのだから……
あれよこれよと思いだしている間に、抱きついていた皐が離れていた。そして、皐は敏彦と恵しか知りえないことを言う。
「お父さんとお母さんしか知らないこと言ったら、信じてくれる?お父さんが避妊に失敗して、オロオロしているのを、お母さんが落ちかせようとした話とか……」
「なんでお前がそれを知っている?そのことは誰も言っていないから、それを知っているのは、あの場に居た恵と俺以外には居ない」
「お父さん、だから言ったでしょ?私の魂の半分は、お父さんの魂だって。お父さんは、前世の記憶成るものの正体の仮説として、『ドグラ・マグラ』の胎児の夢を、引き合いに出してるけど、アメーバから現生人類までの進化の歴史は、さすがに範囲が広すぎだよ」
楽屋落ちと言うには、いささか語弊があるが、それに近いアレで開陳した仮説に対する意見を言う。アメーバから現生人類の進化の歴史は、前世の記憶のベースとしては、広範過ぎるとは思っていた。
「『ドグラ・マグラ』の胎児の夢自体は、『ドグラ・マグラ』が書かれた当時なら、ヘッケルの反復説から、肯定し得るとは思うけど、前世の記憶のベースとしては、不適当かな。お父さんが言っていた家系図レベルで追えない一族の記憶というのは、ほとんど答えと同じだよ。家系図で追えるけれども、伝言ゲーム状態で尾鰭が付いて、口伝えには信憑性に難がある古いの世代の記憶もベースになってるよ。特異例としては、私かな?」
自分の娘だと騙り、恵と俺しか知らないことを知っているが、本当にただの聴講生なのか、恐怖を覚えてきた。しかし、飲み込まされたら最後だと思い、精一杯の虚勢を張る。
「中々言ってくれるな。最後の特異例ってなんのことなんだ?」
研究者の性と言うべきか、恐怖を覚えつつも、琴線に触れる様なこと言われたら、確かめずにいられない。
「他のことは気にならないの?」
皐は、娘だと言うことは気にならないのかと言う風に聞いてくる。
「気にならないと言ったら嘘になるが、特異例と言われて、気にならない奴は居ないぞ」
赤池は、皐が最後に言った特異例の真意を聞き出そうとする。
「特異例っていうのは、父親の記憶に関しては生殖行為をした時点まで、母親の記憶に関しては生命として独立し得る状態になるまでの時点の記憶を、記憶として認識できることだよ。普通は、ありえないだけどね」
「それは、記憶を記憶として認識するには、数世代の時間がかかるということか?」
「その考え方もありだけども、自分の親の記憶を口走る子供が生まれてきたら、お父さんは気持ち悪いとか気色が悪いとか思わない?」
皐は、子供が親の記憶を口走ったら、気持ち悪いとか気色が悪いとか思わないのかと言う。学究の徒であっても、私生活でそんな事態に陥れば……
「言わんとすることはわかる。皐、お前は何なんだ。俺にはさっき言ったが、子供は存在し得ない」
「私の魂の半分が、お父さんの半分で出来ているっていう話は、認めるの?」
「まだ半信半疑だが、誰も知りえないことを知っている人間が目の前に現れたら、その可能性を端から否定するほど、頑迷じゃない」
「一応は、信じてくれるんだ。じゃあ、私の正体というのか、もう一つの姿を見せるね」
皐は、そう言って、羽織っていたカーディガンを脱ぐ。もう七月だと言うのに、リラ冷えでも引き摺っているような天気で、女子学生のほとんどが、寒い時に羽織るものを持っていたり、羽織ってきていたので、特には気にはしていなかった。しかし、皐はあるものを隠すために羽織っていた。
皐は、積まれている本の山を崩さないか、周囲を見渡し、問題がないことを確認する。次の瞬間、傘でも開いたような音がした。皐の方を見ると、ありえないものが、ありえない組合せで、背中から……
「えっ、そんな……」
敏彦は驚く。皐の背中から、翼が生えていていた。それも、黒と白の翼が。人型で背中からそれが生えている存在は、悪魔とか天使と言われる。しかし、皐は、その象徴というべき翼を片翼づつ背中に生やしている。
「驚くよね。背中に翼を生やしてて、悪魔と天使の翼を片翼づつだなんて……」
皐は、そう言って、少し俯く。