9話
「ほらフォルク、急いで!」
朝の稽古を終えたフォルクを時間がもったいないと引っ張る娘に汗が付くぞ。と苦笑しながらそれだけ口にする。
「フォルクのなら気にしないわ。リルフィーも待ってるんだから」
だがそんなフォルクに真顔でそう返すものだからフォルクが困った顔になる。この娘は本当、フォルク前になると積極的になる。こんな姿を見た事があるのは義父とリルフィー位であろう。
この表情がいつでも出せる様になれば冷たい女などと言われる事もないのに。と思うし、口にだした事もあるが「フォルクやお父様、リルフィー以外に見せる必要ないもの」と真顔で返されるとそれ以上言う事もなく、この表情が自分だけのものとなるのなら、それはそれでよいか。そう考える様になった。この笑顔や素顔を知っている数少ない人間と独占欲が満たされるというのもあったからかもしれない。
「しかし、リルフィーが俺の第二夫人になるって話はどこから出たんだ?」
未来の妻との婚礼すら終わっていないのに、何故か巷で流れる第二夫人を迎えるという噂話。複数の妻を娶る事は可能とはいえ、妻となる実家が貴族や有力な商家、豪農であれば家格を大切にしなければならず、本来であれば共に生活する事はあっても正式な婚礼間隔は最低一年は時間をあける。というのが慣わしである。
にもかかわらず第二夫人の対象にこの娘の親友である異国の魔法使いの娘、リルフィーがと噂になるというのはフォルクにはいま少し理解に苦しむ所でもあった。まして、名家であるこの娘との婿入りになるだろう婚礼も済んでいないのだから随分気の早い連中がいる様だ程度にフォルクは考えていた。
「どうせ私とフォルクの婚礼の話が気に入らない人間達の嫌がらせでしょ。私達とリルフィーが仲がいいからその辺りも対象にされたって所だと思うわ」
そう教えてくれる娘の答えを聞いて貴族社会は面倒だな。フォルクがそんな表情をしたのだろう。娘がフォルクの顔を見て笑っている。
「でも、いずれし第二夫人を迎えなければならない。そういった事になるのならリルフィーなら第二夫人になってもらいたい位よ」
可愛らしく顎に指を当てて、まじめな顔でそう娘が口にする。
「おいおい」
惚れた相手が妻を複数もつのは大丈夫なのか? と思ったがそこは貴族としての感覚があるのだろう。平民だった自分とはまた違う感覚で生きている所がこういった所で現れる。
「リルフィーも立場上、いずれは結婚しないといけないわけだし、きっとフォルクなら喜んで嫁ぎにくるんじゃないかしら? 私も下手な男にリルフィーが嫁いで不幸になるのは嫌だもの。
お互い見知った私達が妻の仲間になるなら喧嘩はしないだろうし、上手くやっていける自信はあるわ」
リルフィーを妻にするとか、実際そうなったら絶対この娘に勝てないのに更にリルフィーにも勝てないのだから尻にしかれるだけになりそうで頭が痛い。ただこの娘はただただ純粋に結婚観が大分違うが本当に幸せになりたいし、親友も幸せになって欲しい。そう願っているのだろう。フォルクも自分が違う世界に飛び込むのだから、その辺りは本気で考える必要はあるし、義父と相談する必要もいずれでてくる事は間違いない気がしてきた。
「遅いぞ」
痺れを切らしたのか、無造作に長い髪をポニーテールでまとめている話題の娘がフォルク達を迎えに来たのだろう。笑顔で2人に手を振る。実際その後、第二夫人として迎える話が進行していたのを考えるとフォルクは実は2人が協力して悪意の噂を逆に利用していたのではないか? そう思うきっかけとなった会話であった。
「申し訳ない。人、間違えた」
咳払いしたフォルクが門を守る上で覚えた言葉を交えながら謝罪を口にするとアスティアはいえいえ。と微笑みながらフォルクの自己紹介を受けている。それにしてもリルフィーという娘とアスティアがそれほど似ているのだろうか? フォルランはフォルクの持つ肖像画を見た事がないため後でリタに聞いてみるか。フォルランにしては珍しく興味の方が勝った瞬間である。
「今回の私への武芸の指導をお引き受け頂き、感謝しております」
「問題ない。厳しいから、注意を」
「はい。心得ておりますわ」
随分とフォルクに対して友好的で信用をしている様子だが、あった事もない人間に対してここまで警戒を解くのは何故だろうか? フォルクとしてはフォルランの後ろ盾のある人間だから信用したという所なのか、と疑問に思う所である。
「それと、フォルラン殿から当家の蔵書の閲覧を報酬としたいというお話をお聞きしました。その件については問題はございません。
ただ複写や持ち出しだけは許可できませんので、ご足労をお掛けいたしますが、屋敷までいらして頂きたく存じます。
当家ではリンドヴルム殿がいらっしゃれば門戸はいつでも開放いたしますので、これでご容赦頂けますでしょうか?」
もうしわけなさそうなアスティアの言葉であるが、こればかりは致し方のない所だろうし、アスティアが言う様に譲歩できる最大だろう。例えそれでも願ってもいない蔵書の閲覧許可にフォルクが礼を口にする。元々駄目元で求めた事に関して許可がでたのだから、見れるだけでも充分すぎるものであった。
「それで、私に教えて頂けるものがいくつかあると聞きましたが……私にも問題無くできるものでございましょうか?」
不安そうなアスティアの表情だが、フォルクは自信をもって頷く。
「一応、劇場の警備の総責任者のベータも内容は確認しており、太鼓判を押しているためそこまで不安になる事はありませんぞ。
実用性と典雅、風雅を考えた得物の選定していると申しておりました」
このフォルランの言葉にアスティアも少し安心した様子を見せる。彼女自身は馬鹿らしいと考えている様だが、貴族として見た目や外観を気にしないといけないという問題が常に付きまとっているし、戦い方も正当な剣術でなければならない。元々女のアスティアが剣を振るという事事態が異常な事と取られている。これを理解した上での得物を選定していてくれているのは本当にありがたい所であった。
「外で簡単に、説明する」
フォルクの言葉を受けて動き易い服装に着替える旨を伝えてアスティアが一旦退席するとフォルクも準備のために用意した得物と他に参加する人間を呼びに別室に移動するために歩きだした。
「細身の剣と小剣ですか。確かにこれなら私でも何とか持つ事はできますね。
女性が剣を持つ事も殆ど例はありませんが、過去護身用にもたれた女性も似た剣でしたし」
手早く着替えてきたアスティアがフォルクの元に現れると、早速と用意された武器をフォルクがアスティアに手渡したが、初めてもつ武器にアスティアが選んだ理由を聞いて感心した様に頷いていた。
帯剣しても問題が少ない剣を選んだというのも理解してくれている様で、フォルクは安堵していたが、問題は武技に関しては完全な素人という所である。貴族のお嬢様として育っていた事を考えると実際に武器を扱える様になるには、半年程度の時間で足りるか、そこが最大の問題になるのは間違いなさそうだ。
「鞭、は武器としてつかえるのでしょうか?」
「使えますよ。下手に重い鈍器よりも女性向けといっていいでしょう」
説明に難儀していたフォルクに助け舟を出したのはベータ配下の傭兵である。言葉が堪能ではない事からフォルランとベータが補助で着けた男である。
「鎧で体を守る相手に剣での攻撃は基本的に通りません。鎧の鉄板で防がれるんです。
そういった相手と戦う場合、鎧の隙間を狙うとかありますし、組み合って戦う、鎧ごと断ち切る。などありますがこれは上級者の戦い方ですので、初心者には向きません。
有効なのは棒や槍で遠くから叩く。近接戦闘で重い武器を叩きつける、矢や魔法で攻撃、こういったものが有効です」
「女の、初心者の私では難しいですね」
説明に納得した様にアスティアが頷く。
「ええ、ですので攻撃範囲の広く、打撃力のある武器として鞭は有効なんです。
熟達すれば相手の腕を打って武器を落とす事も、相手の足を狙うことで転ばし行動を制限させる事もできます」
まぁ道は遠いですけど。と笑うとアスティアも「そうですね」と頷いている。
「後は体術ですが、これも基本的に重要なものになると思います。
我らも剣や槍、短剣、弓、戦斧で戦いますが、武器を失った時は徒手で戦う事になります。鎧で身も守る者に組み付いて戦う事もあります。
重要なものと理解して頂けるとフォルクの奴も教えやすいと思います」
こういった補助をしているとフォルクを師としたのは間違いではないのだろうか、傭兵はそう思えてくる。ただフォルクの武器の選択は悪いものではない。これはベータ同様にこの傭兵もそう考えている。実際あとは教える時どうなるか、という所である。
それに、こうやって補助に入ってアスティアや劇団員に教授を始めればフォルクの戦い方や思考、剣の使い方の基礎が見えてくる。これはこれで重要な情報収集ともなる。ベータからの指示もあり、この補助の役目も意外と重要なのだ。
「実際に教えるに当たりフォルクはまず体術から実演を見せるという事ですので、まずはフォルクと私で関節の稼動域や、体の力の伝わり方といった基礎的な知識からはじめたいと思います」
フォルクの用意した方針を一応目を通している傭兵はこれから関節を決められたり投げられるのを考えると中々気分が乗らないが仕方ない。だがこれを教えるというのは大切な基本なのである。
「基本的に体の動きは人間、皆同じです。何故かといえば体の構造が体の柔軟性、筋肉量での個体差があれど基本同じであり、その構造にそって動きが定まっているからです」
フォルクの用意したテキストを傭兵が読み、フォルクが実際に体を動かし説明をしていく。最初に座学から入るとは考えてもいなかったせいか、アスティアが意外という表情だが、説明を聞くと理屈だけはわかった様子で何度も頷いている。
例で拳での牽制打撃の仕組みと、使う意義を教えるとこれも直ぐに理解を示す所から頭の良い娘なのは間違いなさそうである。問題は実技の部分であるが資質になるとフォルクでもどうにもならない。
「最短を通れば通るだけ動きが早くなるのはわかりましたが、相手からも動きは予想される様になるのでは?」
アスティアの何気ない質問だが、良い質問だとフォルクが頷く。
「ああ、それに対してのフォルクが説明の項目を用意していますね。
熟練者同士になると、動きが洗練されていく過程で無駄を排除するために動きが自然と似たものになる。そのため、攻撃の軌道は予想しやすくなる。
そこで勝負になるのが、基本動作の完成度。つまり拳で打撃を放つとしたら、いかに早く放てるか、相手より強い力をだせるかという所になります。
そして、熟練の域までいくと相手に虚実で実を掴ませぬ動きや、戦いの中での駆け引きの所まで到達します」
「初心者でどうにかなるものではありませんね」
アスティアが唸る。元々一日二日程度でどうにかなるものではないと思っていたが、想像以上に難しそうだ。と感じているのだろう。
「問題ありませんよレディ。熟達した者でなくても剣豪を殺傷する事は不可能ではありません。可能性は限りなく低いですが」
何も正面から戦う必要はない。戦うにしても自分の得意な領域で戦えばその勝率は格段にあがる。相手の不利な環境で戦えば負ける確率は格段に下がる。近接戦闘の得物を使う相手なら遠距離ないし鞭や槍など、相手の間合いの外で戦える武器で対戦すればよい。言われれば確かにそうだ。絶対に勝てるとは言えないが、そういった点で戦う事を意識すれば状況は変わってくる。理解したアスティアが何度も頷いている。
「戦う事は下策。戦わずに済む方法をまず模索し、戦わなければならなくなったらどこで、どうやって戦うか考える。逃走の経路があるか、武器の有利不利、相手の人数が生かせない場所かどうか、ですね。
これを念頭にして戦うのがフォルクの考えの様です」
この辺りの思考はまるで部隊長の思考に近いな。テキストを読んでいた傭兵が感じる部分である。剣術指南級の剣士が兵術の基礎的な部分を教えるという話を聞いた事があるが、恐らくこういった思考があるからなのだろう。そしてフォルクがベータら隊長級の作戦の理解力が高いのもこういった所だろうか。初心者に教えるには難しい部分なのだがアスティアに向けた武技の心得を教えるには確かにこの内容が一番無難であると思えた。
(問題は座学は最初は理解できるが、理解したそれを実戦や訓練の中で維持できない所なんだよな)
傭兵が自分がそうだった事を思い出して、フォルクがそれをどうやって繰り返し教えていくのか考えてみるが、とてもではないが思い浮かばない。こういった部分が教えるのが上手い下手になるのだろう。人を教え導くというのは相当大変だというのが改めて感じられた瞬間であった。