68話
「……テメェの命に興味なんぞねえよ」
「あら、たかが弟一人を唆したぐらいでかつてあれだけ私を憎んでいたあなたが憎んでいないとでも?」
たかが弟一人、殆ど被害者でしかないのに長政やお市の死すら背負い込んでしまう信長にとってはこの上ない侮辱だ。
ケラケラと笑うその姿は見た目もそうだが、昔日とは根本的に異なっていた。
時間が憎悪を熟成させ、その心根すらも歪めてしまったのだろう。
「憎んでようが憎んでまいが、俺のやるこたぁ変わらねえだろ?」
「ひひひ……ええ、ええ! そう、そうですね! あなたは強過ぎるほどに強い人ですもの!!」
そして、だからこそ自分の復讐がこんなにも功を奏している。
平静を装うその顔の下では、どれほどの感情が渦巻いているのか。
己を責め苛むその性は決して折れぬ強さの根源であると同時に弱点でもある。
が、それは誰かに云われてどうこう出来る類のものでもなく、改善は不可。
それゆえ自分が負けることはあり得ない、雪斎はそう確信している。
「うるせえよ、付き合ってやるさ。お前の糞くだらねえ茶番にな。いや、付き合わざるを得ないのか」
雪斎は信長に茶々を殺させようとしている。
思惑は分かっている、それでも避けることは出来ない。
聖剣の王、天下を目指す男として茶々は――明智光秀は生かしておけない。
「その通り。でも、何の見返りもなければやる気も出ないでしょう?
だからとっておきの御褒美をあげますわ。何とてでも、我が子を殺してでも手に入れたくなるようものを!!」
雪斎としては自分の思惑に乗せられて、だけでは足りないのだ。
あくまで信長が自分のために我が子を殺さねばその心に大きな傷はつけられないから。
大名として裏切り者を処断する、それも自分のためと云えば自分のためではあるがちと小さい。
だからこその御褒美発言である。底意地の悪さで云えば雪斎は群を抜くと云って良い。
「……そうかよ。もう、今日のところは帰れや。済ます分の目的は済ませただろう?」
気怠るげな信長、今夜は特に感情の起伏が激しい。
だが、こんなにも多くのことがあったのだから無理もないだろう。
「ええそうですね、ではまた。今日はどうぞ、ごゆっくり休んでくださいな」
ゆらりと像が揺らめき、空中で霧散し雪斎は完全に姿を消した。
後に残るは忌々しいまでの白檀の香りと、それによって薄められたけれど尚も鼻をつく血の香り。
信長はもう立っているのも億劫で、お市の傍に腰を下ろした。
「信長様、その……何と云えば良いのか分からないけれど……」
気遣わしげな帰蝶と、だんまりのマーリン。
無論、マーリンも信長が心配だ。だが、何も云えるはずがない。
信長は自分が気付ければと思っているようだが、それはマーリンも同じ。
こうまで鮮やかに欺かれて何が千年を生きる魔女か。
雪斎の暗躍に気付けなかったことがこんなにも悔しい、愛する男にこんな顔をさせてしまった己の無能がこんなにも憎い。
「……次だ」
「え」
「次で、天下は定まる」
信長は自分が嫌で嫌でしょうがなかった。
信秀の時は素直に悲しむことが出来た、ただただその感情に身を委ねられた。
だがどうだ? 今は尋常ならざる事態で直ぐにでも行動を開始するのがベストだ。
頭でそれは分かっていても、普通は何も手がつかないんじゃないか?
「アイツ、そうせざるを得ない状況だから茶々を殺すって形にしたくねえんだよ。
俺が目的のために、目指すもののために自らの殺意を以って茶々を殺すところが見てえのさ」
こと此処に至って、こんな状況になってまで強がる気もない。
信勝のことだけでも辛くて辛くてしょうがなかった、その上に長政とお市まで圧し掛かって来た。
死んでしまいたいと思ってしまうほどに追い詰められている。
そして、それでも成すべきことがあるから生きねばならぬと歩みを止められない。
軋む心で鉛のように重い身体を引き摺って歩き続ける、今の己は正に罪人だ。
地獄で責め苦を負わされているのと変わらない。
「俺は茶々を俺のガキと認めてしまっている、そして奴もそれを看破している。
だからこそ、云い訳のしようもなく俺の意思で茶々を殺させるために奴は嬉しい嬉しい褒美をぶら下げてやがらぁ」
まるで獄吏だ、今でも十分以上に辛いのに、この上更に重りを乗せて来るのだから。
太原雪斎は信長専用の地獄に用意された専用の獄吏と云わざるを得ない。
「これから少しすれば、この日ノ本は完全に二色に分けられる。織田か、それ以外かでな。
魔道の力ちらつかせて自陣営に加えて連合軍を結成するだろよ、雪斎の奴は。
俺らに喧嘩売った北条やらはもうケツに火ぃついてるからな、溺れる者は何とやらさ。
そうやって綺麗にくっきり二色に分けて、後は一大決戦、場所は……位置的に怪しいのは関ヶ原辺りか」
北条は間違いなく明智陣営に入るだろう、そして毛利と長宗我部は云わずもがな、だ。
反信長包囲網に加わり、既に織田と敵対していた者にとっては釈迦が垂らした蜘蛛の糸。
魔道の力で恐れを知らず、士気にも左右されない屈強な兵が手に入るのだ。
自国の民がそんな人道にともる処置を施されるのを黙って見ているのか?
そう思うかもしれないが、信長もそうだが大名と云う奴は、為政者と云う人種は勝手だ。
人道なんて理由で雪斎の誘いを断れる連中であれば既に織田へ首を差し出して降伏している。
「武田、上杉亡き後……いやまあ、上杉は存続しちゃいるが大幅に領土を削られた上に織田方だ。
そうなると東の雄は北条、その北条がつけば東は殆ど全滅だろう、確実に俺らの味方はしねえ。
家の存続を願うならば、戦乱による更なる領土拡大の機を狙うと云うのであれば徳川、今川、真田、上杉もやべえかもな。
竹千代、氏真、昌幸、源二郎源三郎、景勝は俺個人に好感を抱いていても、現実を見るならば明智陣営に就く方が良いだろう。
何せそうしなきゃ、東の四家はそれ以外の総てを敵に回すことになるんだ。
いやひょっとしたら、もう雪斎は誘いをかけてるかもしれねえな」
関ヶ原で決戦を行うと仮定する場合、真田も上杉も徳川も今川も位置的に決して無視は出来ない。
無視して関ヶ原に雪崩れ込んで後背を突かれるわけにはいかないからだ。
であれば、相当な数を割いて四家を狙うだろう。
しかし、相当な数を割いても尚、明智軍は織田を凌駕するはずだ。
織田も総動員すればかなりの数を集められるが魔道の兵を率いる毛利と長宗我部は無視出来ない。
東と西から挟まれる形になっている以上、そちらへの抑えも回さねばならない。
そこでかなり数を削られて――集められた十万に届くか届かないか。
対して明智軍は四家攻略に兵を割いた状態でも二十万近くはあるだろう。
質では圧倒的に織田が勝っているが、かなり厳しい戦いになることは疑いようもない。
「元々織田方だったとか、茶々はともかく雪斎は気にしねえ、奴にとっては日ノ本のことなんてどうでも良いことでしかないからな」
各大名に餌をくれてやる雪斎が文句を云わないのであれば他も口を噤むしかない。
「……毛利と長宗我部以外で西は、どうなるの?」
「一応誘いはするだろうぜ、しかし雪斎にとっては東だけで十分だろう。
何せ帰蝶よ、俺が勝てないようにしちゃあ、野郎にとっての最善は叶わねえってことだからな。
俺が茶々を本気で獲りに行くように、優位な状態には整えるが喰らい付ける程度には抑えるはずだ」
確実な負け戦であればさてどうか、大人しく茶々の望みを叶えてやったかもしれない。
首と引き換えに、その後をしっかりまとめ上げるように交換条件を取り付けて。
が、本気を出して、死力を尽くせば食い破れる余地があるのならば信長は必ず死力を尽くすから。
その先に待つ、太平の世に向けて全力疾走することに雪斎は微塵も疑いを抱いてない、そしてそれはその通りだ。
「必死になって自分のガキを殺そうとする俺を見て哂いたいのさ、あれはな」
だから、あんまりにも有利な状態になり過ぎるのであれば調整を入れるだろう。
これまで多くの謀を以って他者を手の平の上で踊らせて来た信長。
その信長が今、太原雪斎の手の平で踊らされている――何と皮肉なことか。
「なら、信長様は必ず勝てるってことじゃ……」
「いいや、それもねえ。最善は俺が茶々を殺すことだが、俺が死ぬのもそれはそれでありだと考えてるだろうからな」
勝てる余地を残しつつも、だからと云ってわざと負けるような真似はしない。
何より軍を直接率いるのは茶々で、彼女は信長を殺そうと思っているのだから。
茶々の本気を織り込んだ上で、雪斎は信長が勝てる余地を残しているのだ。その悪魔的な智謀によって。
帰蝶も遅ればせながらそのことに気付き、口を噤む。
「奴にとって俺は愛する男を奪った、にっくき仇敵だからな。無念の内に戦死するのも悪いこっちゃねえ」
その上で、と前置きして信長はマーリンを見つめる。
「各方面軍司令官、竹千代、昌幸、氏真、景勝、島津に今の俺の私見をありのまま伝えてどうするか決めるよう云ってくれ。
まあ、徳川、真田、上杉、今川辺りはもう誘いをかけられてるかもしれねえが……一応頼む。
別に敵方についても怨みはしねえさ。ああ……俺が招いた不祥事だからな、付き合わせるのも気が重い」
薄々二人も感づいていた、信長らしくない発言だ。
不利な状況であろうとも皆を鼓舞し勝利を信じさせ、共に駆け抜けようとその背を見せる信長。
その彼がこんな弱気で陰鬱で後ろ向きな発言をする辺り、どれだけ精神的に参っているかが分かるだろう。
「死ぬ気なの?」
「なわけねえよ、例え一人になってでも諦めるか。ただ、云っただろ? こりゃ俺の不始末だ」
一人になったとしても勝算はある。
それならそれで、一騎討ちとかそう云う形にするであろうから。
そこで茶々を討って、もう一度初めからやり直しても良い――今の信長は投げやりだった。
「まあ……何にせよ、伝言頼むわ。んで帰蝶、お前は他の近場に居る家臣連中にな」
そう云ってごろりと寝転がり、信長は瞳を閉じた。
これ以上は何かを話すのも億劫だと云う意思表示だ。
帰蝶も、マーリンも、信長を心底から想っている。だからこんな状態で放って置きたくはない。
しかし、信長ほどではないとは云え、二人にとっても今夜は色々あり過ぎた。
考えはまとまらず、どうすれば誠心を以って信長を抱き締めて癒してやれるのか。
正しい選択肢が分からないのだ、それゆえ二人は軽く一礼して部屋を後にした。
「……ねえ、マーリン」
屋敷を出たところで、二人して立ち止まった。
帰蝶は年長のマーリンに何か意見を伺おうと思ったのだが……。
「マーリン?」
俯き、震えるマーリン。一体どうしたと云うのか。
「わ、私が……私が……信長様を、追い込んでしまった……!!」
元々、気にはしていたのだ。
ただ、直視することが出来なくて先伸ばしにしていただけで。
聖剣のことを話せないのだって最初はタイミングを逸してからだけど今は――――。
ぽろぽろと涙を流すマーリンを見て、帰蝶は心底驚いた。
喜怒哀楽が激しいけれど、こんな風に涙を流すことを見たことがなかった。
何のかんの云っても桁が違う年長者だ。本当の意味で弱い姿を見たことがあるのは信長ですらない。
「信勝殿のことも! 今に至る信長様を苛む総ては……私の、せいなの……!!」
涙に濡れた懺悔が始まる。
聖剣エクスカリバーとその伝説は自身が作り上げたこととその理由。
自分は人を外れてしまったから、別の人間に。
そんな他力本願極まる夢を託し、信長を縛り付けてしまった。
聖剣が信長を選んだのではない、己が信長を選んだ。
その結果がこれ、心から愛する男をどうしようもないほどに追い詰めてしまった。
そして、その事実を告白出来ない。嫌われるのが怖い。
お市が身勝手だと云うのならば自分もそうだ。
いいや、元を正せばお市だって自分のせいで死んだようなもの。
信長にまつわる悲劇の総ては自分が居たから。
こうならない未来もあったはずだ。聖剣を抜かずに、そのまま二人で遠い何処かへ行き笑って暮らせる未来。
そんなものもあったはずなのに、信長が苦しまない未来もあったかもしれないのに。
わんわんと泣きじゃくるマーリンを見て、帰蝶は逆に冷静になった。
「……少なくとも私は、あなたの"お陰で"信長様と云う愛する人と出会えたわ。
そりゃ、経過を見れば切っ掛けとなったのは信勝殿の死で決して良いものではないかもしれない。
だけど……ねえ、都合の良いことだけで構成されている人生なんてつまらないと思わない?」
不合理で不条理で、そんなものと抗い、時に仲良くしながらも進む。
良いことだけで埋め尽くされた生など起伏のない平坦でつまらないだろう。
生きていると感じることさえ難しいのではないか?
不幸を賛美するつもりはないけれど、そんなものが当たり前のようにあって、だからこそ人は成長出来るんじゃないか?
「幸も不幸も、わけ隔てなく自分の糧とするからその命は輝く、成長してもっと大きくなれる。
良いことも悪いことも色々あって、だからこそ生き甲斐があると云うものじゃないの。
マーリン、確かにあなたの云うことも事実だわ。だけどそれはものごとの一側面でしかない。
信長様が聖剣を手にしたから、得られたものだって多々あるはずよ。そしてそれは良きものじゃないかしら?」
帰蝶とくっついたからこそ、可愛い可愛い我が子を抱くことが出来た。
帰蝶、藤乃、竹千代、昌幸、信之、信繁、景勝、家久、氏真、数え切れないほどの良き出会い――それらもまた聖剣がくれたものだ。
「悪い部分をまったく見ないと云うのもどうかと思うわ。
けれど、見つめ過ぎるあまりに得られた良きものから目を逸らすのもいけないことよ。
それは折角得られた大切な何かを軽んずると云うことに他ならないから。
喪う辛さを知っているのならば余計にそう。今あるものをしっかり見つめなきゃいけないわ。
ねえマーリン、あなたは私達と出会わない人生の方が良かったの?
自分と出会って不幸になったとかそう云うことじゃない、素直な気持ちを聞かせてちょうだい」
ほんの少しの沈黙の後、マーリンは素直な心情を吐き出した。
「出会わなければ良かった――――なんて思えるわけないじゃない!
だって、好きな人が出来て、あなたやお猿さんのような掛け替えの無いお友達も出来たんだもの!!」
「なら、それが総てよ」
それ以外に何があると云う?
「ねえマーリン、今と云うのは無数の選択の積み重ねだと思わない? どんなに少なく見えても選択肢と云うのはある。
信長様だって選ぶことが出来た。その選択如何では確かにあなたの行いは糾弾されるべきだけど……」
喪ったものは帰って来ないし、過ぎた時間も戻せない。
それは当たり前のこと。誰に云われるでもない絶対の真理だ。
その真理を弁えた上で、人は選ぶことが出来る。
喪ったものを指折り数えながら戻らぬ時間を想い続けるか。
喪ったものを胸の奥に大事に仕舞って過ぎて行く時間に真っ直ぐ向き合うか。
「信長様は自分の意思で選んだの、前に進むことを。そしてその選択は尊いもの。
そうするべきだと分かっていても、前に進むと云うことは決して容易いものじゃない。
あなたがそうやって後悔すると云うことは、信長様の選択を愚弄することに他ならない」
そしてそれは信長にも云えることだ。
「悪意によって見え辛くなっていたとしても、信勝殿や浅井長政、お市さんは選ぶことが出来た。
提示された選択は他の誰のものでもない、その人のもの。その人だけのもの。
それを私のせいだ何だと云うのは傲慢が過ぎると云うものではないかしら?」
帰蝶は想う。
喪われた命が無駄ではないことを証明する、それ自体は素晴らしいことだ。
しかし、だからとてその喪われた命に対して総て己のせいだなんだと云うのは違うだろう。
「……帰蝶様……そう、そうよね……ええ、そうだわ。情けないわね私、あなたよりずっと年上なのに」
帰蝶の言葉を噛み締め、咀嚼し、マーリンは立ち直った。
チョロい奴だ――と云うのは見当違いである。
重ねた年月に比例して培われた元々の土壌が豊かであるがゆえだ。
「完璧な存在なんていやしないのだから気にすることはないわ。それよりさあ、信長様に頼まれたことをしましょ」
「え? あの、信長様に……」
マーリンはてっきり帰蝶はこのまま引き返して信長にも同じ言葉をかけるのだと思っていた。
「必要ないわ。色々あり過ぎて今は沈んでるけど、自分で気付くことが出来る人だもの。
その手助け程度で十分よ。そして、その手助けが仰せ付かった仕事を果たすこと」
皆に伝えて、そのうえで彼らが何を選ぶのかを信長に見せてやれば良い。
そうすればきっと分かるはずだと帰蝶は心底信じ切っている。
「とは云え、あの人も頑なだから直ぐには気付けないかもしれないけど、皆の選択が切っ掛けにはなることに疑いはないわ」
少しだけ困ったように笑いながら、帰蝶は歩き出した。
マーリンはその背を見てようやく実感する。
卑下するつもりはないけれど。
心から愛されている自信はあるけれど、
「……一番最初に出会ったのは私だけど、成るほど。正室は彼女以外にはあり得ないわね」
それは信長から注がれる愛の多寡ではないし、実際優劣もなく信長は女達を心より愛している。
だからこれは女側の問題だ、一番その位置に相応しいのは帰蝶だと云うこと。
表向きはともかく本質的に立場の上下はないし、出来ることが違うと云うだけの話だが……。
「ふふ、私も負けてられないわね」
やる気を掻きたてられるのもまた事実。
帰蝶の背を追って駆け出すマーリンの顔は何処までも晴れやかな笑顔であった。
光秀がモードレッドのポジションと明言してたので
近親相姦で出来た不義の子であることは薄々分かってた人も居るかもしれません
乳張ってる描写や三姉妹なのに初と江しかいないなど割と露骨だったかもしれませんが……まあ、茶々でしたミッチー




