65話
光秀が本能寺に襲撃をかける少し前、安土にて。
夜、当然ながら誰もが寝入っているこの時間。
起きているのは何かあった時に動けるよう備えている帰蝶と重臣だけ。
妹ではあるものの、仔細を知らされていないお市は何時も通りに屋敷で寝入っていたのだが……。
「……ん、んん」
ふと、目が覚める。
両隣で眠っている娘達は今もぐっすりすやすや夢の中。
お市は軽くその頭を撫でて、起こさぬようゆっくりと布団を出た。
何故だか分からないが、急に目が覚めたのだ。
そしてそのまま部屋を出て縁側へと腰掛ける。
「お兄様……」
何故だか、無性に信長の顔が見たくなった。
いいや、その表現は正しくないのかもとお市は自嘲する。
目が覚めている時は一瞬たりとも信長を想わないことはない。
「……まったく、しょうのない女ですね」
分かっている、自分でも分かっているのだ。
初めての婚姻、その際に吹っ切れたと思えばあんなことがあって結局はまた戻って来てしまった。
一度の過ちを胸に、もう終わりにしようと決めたはずなのに。
「酷い人……長政様、あなたはどうしてあんなことを……私のことを好いていたのでしょう?」
浅井長政――云えた義理ではないことぐらい理解している。
兄を、真に愛する人を忘れるためにくっついた人。
愛する努力はしたけれども、やっぱり一番には出来なかった。
身体を重ねても、どれだけ優しくしてくれても。
表面上は控え目な、武家の在るべき女を演じていたが心の中までは……。
それでも、心で誰かを想うぐらいは自由だろう? そう考えてしまうお市は間違ってはいないが、しかし酷な女だ。
愛の無い婚姻ならばそれも良かったのかもしれないが、長政はお市を愛していた。
心の底から愛し、惜しみない想いを注いでくれていた。
お市もそれ自体は嬉しかったが、それでも心変わりをすることは出来ず。
偽りの仮面を被って、偽りの妻として在り続けた。
「それとも、これをこそ運命と呼ぶのでしょうか?」
愛そうと、妻になろうと努め様とした。
しかし、夫であった長政と云う男はあんな愚挙を犯し、結局の下へと戻ってしまった。
であればそれはやはり自分にとって結ばれるべき男は兄――織田信長以外には居ないのでは?
と、そこまで考えてお市は首を振るう。何を馬鹿なことを。
お市と云う人間は実に中途半端な人間だ。
赦されぬ愛に生きることも出来ず、忘れて新たな愛を探すことも出来ず。
兄に恋慕を抱くなど正気の沙汰ではない、間違っていると理解している。
だと云うのにその癖、甘い餌があれば平気で喰らい付いてしまう。
兄を運命の人と想う自分を恥じながら、それよりも恥ずべき行為を平気でやってしまう。
だからとて開き直ることも出来ず、鬱々と塞ぎこんでいく。
弱くて薄くて浅い――お市と云う女は正にそれだ。
「はぁ……」
まだ子を産んでも平気な歳だ。
兄は、信長はまた自分を何処かに嫁がせるのだろうか?
何の話も持って来ないけれど、外交や家臣との繋がりを考えるのならば自分を嫁がせる方が良いだろう。
ひとりになるとそんなことばかり考え込んでしまう。
離れたくない、だけど傍に居るのも切ない。
信長は誰憚らずに自分の女に対して愛情を表現するから。
マーリン、藤乃、帰蝶、竹千代、昌幸、惚れ込まれて自身もまた惚れ込んだ女達に対して想いを惜しまない。
そんな信長を見ていると、どうして自分はあの中にと妬んでしまう。
甥や姪の顔を見る度に、どうしてどうしてと叫びたくなる。
だけど、また最愛以外の男と番わせられるのは嫌だ。
長政の時は自分から云い出したことだけど、決して良いものではなかった。
口付けを交わすことも、身体を重ねることも、苦痛以外の何ものでもない。
お市にとって近江の思い出は決して良いものではなかった。
身勝手な女だ、誰もがそう思うだろう。
それでも腹を痛めて産んだ初と江に対して愛情を抱けるだけお市はマシ――なのかもしれない。
いいや、その愛情もどうだろうか? 素直な親心と云えるのか。
お市が真っ直ぐ親としての情愛を向けているのは一人だけだろう、そしてそこに初と江は含まれていない。
兄の政略に役立つ駒としてしか見ていないのかも。
「……こんな時、あながた居てくれたのなら」
そっと目を伏せ、小谷城より脱する時に死別した終生の友を想う。
その者はお市にとっては最初で最後の友人だった。
彼女が居てくれたから、総てとはいかずとも少しだけ願いを叶えられた。
彼女が居てくれたから、小谷城より脱してまた兄の下へ帰れた。
大恩ある友、お市は今でも毎月彼女の墓参りに行っている。
「いえ、何時までも私がこのような有様ではあの子にも心配をかけてしまいますね」
暗いことばかり考えるのはよそう。
それよりも、そろそろ月命日が近付いている。
彼女の墓に備える花は何にしよう? どんな話をしよう?
そんなことを考えていると――――
「ん?」
りぃん、りぃん、と鈴の音が聞こえる。
音の発生源は何処かと辺りを見渡していたお市だが、ある一点でぴたりと止まった。
視線の先には女が一人、不法侵入で衛兵を呼ぶべきなのだろうが……。
「まさか……そんな……」
驚愕、次いで歓喜。
ぽろぽろと涙が零れて来る。
どうしよう、ひょっとして今自分は夢でも見ているのか?
ああ、話たいことが沢山あったのだ。
「生きて……生きていたのですね――――雪羅」
再び視点を京は本能寺へと戻そう。
屋根から飛び降りた信長とマーリンは、実に堂々と真正面から光秀の下を訪れた。
「よう、こんな夜中に謀反なんぞ起こしてくれやがって……明日ぜってー寝不足になるぜ」
云いながら光秀の目を真っ直ぐ見つめる。
彼は信長が現れるや、即座に馬上から飛び降りて直立していた。
見下すのが不敬であると云うのならば最初から謀反を起こすなと云う話だが信長は直ぐに気付いた。
光秀の瞳には、今も変わらず敬愛の情が燃えていることに。
「それは申し訳ありませぬ」
「……テメェ、俺を殺したいんだろ?」
「はい」
「ならば何故、そんな不本意だと云う顔をする?」
光秀の表情は暗い。
しかしそれは謀反が失敗したからと云う感じでもなく、単純にこの状況が不本意だと云っているようだ。
謀反を起こすつもりだった、しかしこんな謀反を起こすつもりはなかった――と。
「……」
信長の指摘は正しく、光秀にとって本能寺への襲撃は不本意極まりなかった。
それでもやらねばならなかったのは、この絵図を描いた者の助力無くば信長が討てないから。
心底反吐が出る思惑を知りながらも受けざるを得なかった。
だがまあ、正直な話をするならば反吐が出ると感じながらも光秀にとって一つの祝福でもあったのだ。
罰せられるべき者に罰が下る、それは決して悪いことではない。
叶うならば自分でやってやりたかったことでもあるから。
「答えん、か」
マーリンの魔道で心を暴いてしまうのも一つの手だ。
が、それは最終手段だろう。
先ずは言葉を交し、自分の眼で明智光秀と云う男を見極めねばなるまい。
「まあ良い。なあ光秀、お前、何だって俺を殺したいんだ? 待遇に不満でもあったか?」
なんて問うものの、それは無いことは分かっている。
明智光秀は待遇云々で謀反を起こすような人間ではない。
これまで彼を見て来て感じていた評価にはそこそこ自信があるのだ。
「いいえ、主家を捨てた私に対して過分なほどに多くを与えて戴いた恩は決して忘れておりませぬ」
「ならば何故?」
明智光秀は何を考えているのか、そうして今を以ってしても変わらぬこの感覚は何なのか。
初めて顔を合わせた日からずっとだ。
信長はずっと何かがズレているような気がしてならない。
本当に自分は明智光秀と云う人間と語り合っているのか? 此処に居るのか? 何故自分にこの上ない好意を向ける?
ただ殺すのではなく、原因を知って除かねばきっとロクでもないことになる。
そう想いながらも、信長の勘は知るべきではないとも告げていた。
「私なりの報恩で御座います」
「ほう……俺を殺すことが恩に報いると?」
どんな超理論だ、そこに至った経緯がまるで分からない。
「ええ、だって――――信長様は死なねば楽にはなれないでしょう?」
憐れむように告げられたその言葉が信長の胸を打つ。
それは紛れも無い愛情、真っ直ぐで独り善がりな情を確かに感じた。
「意味が分からんな。お前は、何を考えている?」
「憐れなあなたの道行きを終わらせること、それのみを考えています」
キッパリと云い切られてしまっては逆に困る。
イマイチ何を云っているかは分からないが、信長が感じた素直な感想は一つ――――余計な御世話だ。
死なねば楽になれない? 馬鹿め、生きていることに勝る楽しさが何処にある。
憐れ? 臍で茶が沸く、人間は主観の生き物で己の主観において憐れまれるようなことは一切ない。
「死人を背負ったまま、果ての無い道を往く。胸の鼓動が止まるその瞬間まで。
荷物は軽くなんてならない、進めば進むほどに増えていく、それでも停滞は赦されない。
他ならぬあなた自身が己の停滞を赦せないのだ。
走れ走れ走れ走れ走れ走れ走れ――――追い立てられるように前へ前へ、転がるように前へ前へ。
あなたが何かを捨てられる人間ならば、己を追い詰めないで済む人間ならば私も安心出来た。
安心してその歩みを支えられた、支えて夢の成就を見届けることが出来た。
だが無理だ。もう無理だ。これ以上、見ていられない。終わるべきなのだ、あなたは」
嫌に饒舌な光秀、しかしそれは本音を晒しているからに他ならない。
これまで閉じ込め続けて来た想いをようやく、ようやく発露している。
多弁にならぬわけがない、云ってやりたいことが山ほどあったのだ。
「始めたものは終わらせねばならない、信長様の信条ですね?
だが、あなたは終われないのだ。あなたが生き続ける限り何一つとして終わらせることが出来ない。
一つ旅を終えて安堵と共に荷物を降ろし、次の目的地を見つければ良いのにそれが出来ない。
一つの区切りがついても、要らぬ荷物を持ったまま次の場所へと向かってしまう。
道々で荷物は増えていくのに、旧き荷物を降ろすこともしないから重くて重くてしょうがない。
総てが地続き、休まずそのまま次を目指すのであればそれは終わりなんて呼べないでしょう」
徐々に徐々に熱を帯びていく。
一度吐き出してしまえば堰を切ったように溢れ、熱情と共に流れ出す。
「お前がそう思うならそうなんだろうよ、否定の言葉を連ねたところで既に結論が出てるのならば意味はねえしな」
光秀の云いたいことは分かった。
ようは、
「私がこれ以上辛くて見てられないから殺します――――それだけのことだろ?」
長々とくっちゃべる必要はなかったのだ。
あなたが好きだけどそんなあなたをこれ以上見ているのが辛いから殺します、それだけで済む。
想われて悪い気分をする人間は居ない、それは信長も例に漏れず。
しかし、光秀の場合はそれが行き過ぎている。
過ぎたるは及ばざるが如し。光秀のそれはメンヘラとかヤンデレとかそう呼称する類のものだ。
そう云う人種自体は珍しくないが、問題は何故そこまで想っているのか。
そこについての疑問が解消されていない。
「なあ、お前は何だってそこまで俺を想う?」
藤孝と岐阜を訪れた際が初めての対面だった。
風聞だけで理想を募らせて恋に恋しちゃ系のメルヘン女なんて例も知っている。
だがどうにも、光秀のそれはメルヘン系とは違うように感じてしまう。
「……」
「だんまり、か」
「いずれ知ることになるでしょう」
「だったら今話せよ。お前は何なんだ? 何故俺を慕う? 本当に俺と相対しているのか? お前は何処にいる?」
矢継ぎ早に重ねられた問いに光秀は僅かに目を見開く。
やはり鋭い、一体何時から感じ取っていたのか。
此処で相対してから? いや、ひょっとしたら初めから?
流石だ、と誇らしく思う。気付いてくれている、と嬉しく思う。だが正体を知られれば、と切なく思う。
雑多な感情が胸を満たす――ああ、もう駄目だ。十分時は稼いだだろう、もうそろそろ退こう。
光秀は今感じているものを総て胸の奥底へと封じ込めた。
「信長様、一つだけ――――あなたは決して悪くない」
「おっと、逃げる気か?」
「私から逃げられると思っているのかしら?」
マーリンが指を弾くと光の鎖が光秀を縛り上げた。
「魔女殿、そんなことに力を注いでいたら信長様が死んでしまいますよ?」
「ッ!?」
瞬間、沈黙を保っていた兵から凄まじいエネルギーが溢れ出す。
一秒にも満たない刹那の中で、マーリンは総て看破した。
もう少しで爆ぜる、そしてこれが爆ぜれば京そのものが吹き飛ぶと。
転移させる? 何処に? いや、間に合わない。
であれば――――
「ッぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」
光秀の束縛を解き、総てのリソースを京全域に張り巡らせる結界へと注ぎ込む。
人と町を護るためのそれは、間一髪――爆破から総てを護り切った。
「マーリン!」
爆破が収まるやマーリンの身体がよろめき、信長が即座に抱き止める。
「……ありがとう、でも、逃がしちゃったわ」
爆破の寸前に転移していたことをしかと見ていた。
本当は此処で捕らえたかったのだが……と悔しさを滲ませるマーリン。
「良いさ。あいつは俺を殺したいようだからな、それよりこっちこそありがとうだ」
「どういたしまして。にしても、やってくれ――――」
光秀に対する悪態を吐こうとしたマーリンだが急に黙り込み、次いで信じられないと目を見開いた。
「どうした?」
「安土の、帰蝶様から連絡があって……」
心して聞いて欲しい、そう前置きして告げられた事実はあまりにも意味不明なものだった。
「――――お市様が自害なされたわ」
昔日の因縁、牙剥く悪意、今、最後の幕が上がる……。




