51話
「俺にはかつて、信勝と云う弟が居た。お前達が生まれるよりもずっと前に、俺が殺した男だ」
もう二十年以上時間が流れているのに記憶に焼き付いた面影は褪せることがない。
目を閉じれば目蓋の裏に直ぐに浮かび上がる。
昔日の後悔が刻み付けた傷跡は生涯消えることはないだろう。
こうして、話題に上げるだけでも傷が開きポタポタと血が流れ出すほどだ。
「確か、桶狭間の遠因に……いや、今川衰退の原因となった人でしたっけ?」
「ま、そうだな。しかし、よく知ってるじゃないか源二郎」
織田信長の代名詞と云えば桶狭間。
寡兵で大軍を破り一気に大大名としてのし上がる切っ掛けとなった桶狭間こそが信長を象徴するもの。
確かに間違いではないものの、今の若い人間が何となく知っているのは精々大まかな流れくらいだと思っていた。
信長の歩みを語る上で欠かせないこととは云え、もう随分と時が経ったしそれ以上に煌びやかな功績を立て続けて来た。
特に京での大立ち回り、叡山焼き討ちなど目を引く事柄は幾つもある。
それゆえ、桶狭間のことが風化していても不思議ではない。
今川が敵として未だに存続していたのならば桶狭間も忘れられることはなかっただろうが今川は完全に織田傘下。
謀反や不穏な動きを見せることもなく織田に付き従ってすっかり埋没してしまっている。
信長のことを知るにしても桶狭間などではなく直近の事柄を見るだけでも十二分に分かるし一々桶狭間まで振り返る必要も無い。
勉強としていたとしても信繁が死んだ弟の名前まで知っているとは思っていなかったのだ。
「こう見えて勉強熱心なもので……っと、話の腰を折ってすみません」
「いや」
遠慮なくずけずけと来てくれた方が逆に話しやすいと云うものだ。
重い空気の中で語ると云うのも気が滅入ってしまうから。
「俺がお前らぐらいの時には、俺と信勝の関係は最悪だった。それこそ、後に俺の暗殺を目論むほどにな」
「あ、暗殺……? 拙者も織田信勝の名は知っていましたが……」
「知らんってか? そりゃそうだ、ただでさえ不名誉な形でその生を閉じちまったんだ」
この上、更に貶めるような真似はしなくても良いだろう。
勝家が暗殺者として出向いたことを知っている人間で今も生きているのはそれこそ信長と勝家の当事者ぐらいのものだ。
他に知っている信勝と平手政秀に至ってはもう故人だし。
「話を戻すが、アイツは俺が嫌いで嫌いでしょうがなかった。だが、それもしょうがないことだ。
今じゃ誰もそう呼んでくれねえが、当時俺は尾張の大うつけと呼ばれててな。
事実、勉強もしねえ、鍛錬もしねえ、ふらふらと遊び歩いては毎日好き勝手してた。
その癖、親父殿に可愛がられて嫡子だから時期当主も確定……どう思う?」
そんなの聞かれるまでもない。信之は躊躇いがちにその答えを口にした。
「その……まあ、良い感情を抱けはしないでしょうな」
「その通り。信勝が俺を嫌っているのには道理があったわけだ」
「でも父上、父上は叔父上を嫌ってはいなかったのでしょう? だからこそ今川に――太原雪斎に報復を行ったわけですし」
「ああ、嫌いどころか……むしろ俺は信勝のことを好いていたよ。ずっとずっと、な」
でなければとっくに記憶は色褪せて忘却の白に溶けていただろう。
決して褪せぬ記憶として心に残り続けているのは、それだけ大好きだったから。
「アイツはな、ちょっと風変わりな思想の持ち主だったんだ」
「風変わり?」
「どんな血筋に生まれたか、どんな家で育ったか、そんなのは関係ない。
どんな血が流れていても、どんな家で育ったのだとしても努力をしない者が甘い汁を吸うのはおかしい。報われるべきは努力をした人間」
頑張った人間が報われないのはおかしい。
頑張った人間が何の努力もしていない人間に踏み付けられるのは赦せない。
「そこには公家も武士も民草でさえも関係は無い――――ってな」
「それはまた……何と云うか、過激な……」
語られた信勝の思想に、信繁でさえどう云ったものかと言葉を濁す。
特権の否定、戦国時代には決して根付くことはない先進的な思想。
戸惑うのも無理はなかった。
「頑張ってる人間が報われて欲しい……優しい、優しい考え方だと思わないか? 少なくとも俺はそう思う。
俺はな、口には出さないアイツの思想に気付いていたから……どうしても、嫌いになれなかった。
むしろ、俺と血を分けた男はこんなにも優しい男なんだって誇りたくなったぐらいさ。
俺はアイツが家を継ぐべきだと思った。家のためにもな……信勝自身もそう思っていただろう。
とは云え、アイツが当主になるべきだって思ったのは家のためだけじゃなく俺のためでもあったんだがな」
誰かが敷いた道の上を歩きたくなかった。
己の人生は己のもの、誰の思う通りにでもなく己が思うが侭に。
武家に生まれたから武家として生きて行くなんて真っ平御免。
そう云う意味では信勝と似通った部分もあったのかもしれない――信長はそう云いながら苦笑を浮かべる。
「親父殿が自らの意思で家督を信勝に譲り渡し憂いがなくなれば俺は織田を出る気だったが……。
まあ、結果はお前達も知っての通り。雪斎に心の闇を利用され、俺は弟を斬らざるを得なくなった。
雪斎が憎い、だがそれ以上に一番憎かったのは――――他ならぬ俺自身だ」
それでも死ねなかった。
此処で自死を選んでしまえば後には何一つとして残らない。
「処刑前夜に、俺は弟を訪ねた。そして後悔やら懺悔やらまあ……色々とぶち撒けたよ。
けど、アイツは俺を責めるでもなく自分が悪かったのだと笑った。
死が目前に迫り、そこでようやく俺達兄弟は和解出来た。
家を継ぐ以上、俺は誰にも阿りたくないから天下を取ると云った。その時にな、俺は夢を託されたんだ」
織田信勝が秘めていた思想が、異端ではなくなるような世の中を。
誰であろうと何の衒いもなく堂々と頑張った人間は報われるべきだと云えるような世の中を。
「俺が生きている内に作れるものじゃない、俺に出来るのはほんの少し時計の針を早めることだけ」
信勝に語ったことをそのまま二人の息子達へ語る。
信繁も、信之も、ただただ魅入られたように父の言葉に耳を傾けていた。
「天下を取れば誰にも阿らずに済むと云う俺の願いは叶う。
俺自身に具体的な統治指針なんかはなかった。精々が室町の失敗を繰り返さないように……程度かな?
だが、信勝に約束した以上は百年時を早めるにためには、それ相応の統治が必要になる。
そのためにもな、知らしめなきゃいけねえんだよ民にも武士にも――この日ノ本の住まう総ての人間にな」
云い方は悪いが頭の悪い人間達には荘厳華麗な英雄織田信長の姿を。
頭が回る人間、頭が回り尚且つ信長やその次代における治世で不穏分子と成る可能性がある者には恐ろしい第六天魔の姿を。
「無知な民草にとっては名君として、しかしそれ以外の反逆者と成り得る者らには魔王の顔を。
俺に逆らえばどうなるのか、ありとありゆる手段を用いて潰しに来る、惨めな最期を迎えるのだと知らしめねばならない。
将軍への仕打ちや叡山焼き討ち、そしてこれから行う諸々の事柄についても総ては治世を見据えてのことだ。
俺個人の器量ならば何が起きたってまあ、どうとでも対処は出来るさ。しかし二代三代はどうだ?」
そのためにも信長がトップである内にシステムを作り上げるのだ。
諸大名らが逆らえぬシステムに組み込んでしまう。
個人の器量に因らぬ統治体制にしてしまえば二代三代が信長に劣っていても問題は無い。
問題が起きても致命には至らない。
そのシステムを円滑に作り上げるためには諸大名が逆らえないようにしなければならない。
「再び乱世が起こらぬ統治体制を速やかに作り上げるために必要なことを俺はやっているのだ。
総ての行動はそこに集約されている。まあ、不純な動機と云えばそりゃそうだろうよ。
何せ民草に平穏を齎すとか、そう云うことを考えてやってるわけじゃねえもん。
あくまで信勝との約束を果たすためだからな。けどな、その結果として民草は平穏を享受出来るのだ」
豊かな暮らしを甘受出来るのだから責められる謂われは無い。
尽くされた分、結果としてしっかり還元されるのだから原理原則からも外れていないだろう。
「それにな、今を生きる民だけじゃなく未来の民にも繋がっているんだぜ? 俺の描く天下はな。
今は未だ同じ日ノ本の人間同士で殺し合う暇もあろうよ。しかしな、時が経てばそうは云ってられん。
南蛮――西洋列強、つまるところ諸外国との対峙は避けられないだろう。こんな小さな島国で殺し合ってる場合じゃなくなる。
そうなった際、日ノ本以外の国が共有していた流れに呑まれぬよう踏み堪えることが出来る土壌を作れるのは俺だけだ。
俺が目指す個人が多様化した社会、数多の可能性が萌芽する社会であれば諸外国からの強風にも対応出来る。
取り入れるべきもの、堅守するべきものを取捨選択して日ノ本は更なる躍進を遂げるだろう」
無論、信長自身が存命の間にも諸外国の情報、技術、文化などを手に入れるための仕組みは作るつもりだ。
世界各地に使節を派遣出来るような手段を模索、開拓して未来へ備えねばならない。
そして尚且つ、列強に支配されぬような地盤固めも並行して実施する。
生きている間に骨組みぐらいは、基礎ぐらいは作るつもりだ。
「動機がどうであれ、俺の行動は総て日ノ本の益へと繋がるようにしているつもりだ。
それこそ、お前が謗った武士にあるまじき所業の数々もな。
総てが総て実を結ぶとは断言出来んが、それでも総てが無駄になることはあり得ん」
と、そこで熱弁を止め疲れたように溜息を吐く。
「何だって自分が死んだ後のことも……何百年も先のことまで見据えなきゃなんねえんだ。
顔も知らねえ未来の人間のために何で色々気を揉まにゃならん?
今を生きている人間に限定してもそうだ。何で自領土だけじゃなく日ノ本全体を?
めんどくせし、かったりいよ――――と思うことも多々ある」
そもそも自分は大勢よりも大切な誰かを大事にする性質なのだ。
それ以外なんてぶっちゃけ知ったことではないと信長は笑う。
「けどな、それは俺自身が招いたこと。俺の短慮によって支払った代償が俺をこの道へと進ませたのだ。
ならば何からも逃げるわけにはいかん、背負ったものが重くても放り出すことは赦されない。
長い道のり、重き荷を負うたまま覚悟と責任を以ってまっとうするのが筋ってものだろう」
それを自分以外の誰かにまで強制するつもりはない。
しかし、信之と信繁は息子だ。
だからこそ教えておかねばならないだろう。
覚悟とは、責任を負うとはどう云うものであるかを。
この話をどう受け取るかは分からないが、少なくとも親としての責任は果たした。
伝えねばならぬことは伝えた、最初に信長を糾弾した際の己を振り返り省みるかどうかは彼ら次第。
愚かな道に流れると云うのであればそれは息子達の自己責任である。
「長くなったが、これでお前の問いに対する答えになっただろうか?」
誠意を込めて正直な気持ちを伝えたつもりだ。
これでも納得がいかぬと云うのであればしょうがない。
わざわざ自分の古傷を抉ってまで説明したのだからこれ以上どんな言葉を尽くせば良いのか。
「俺のやり方がお前の信念に沿わぬのならば、それもまた良し」
俯き、黙りこくっている信之が何を考えているのかは分からない。
しかし、敵対すると云うのであれば弟、義弟、と来て今度は息子を斬る覚悟すらも決めてみせよう。
酷く気は進まないが、己が道行を止めるつもりが無い以上はやらねばならぬ。
「兄上、御心配せずとも構いませんよ。我らのことなど気にせず信ずるところを成せば良い。
俺もまた信ずるところを成しますから。兄上が別の道を往くのであれば兄弟同士で殺し合うのもまた一興」
信之は信長を止めるために刃を手に取れば良い。
ならば己は真田の御家を護らんがために兄を斬るため刃を取ろう。
「父上が真田の御家に手を出さぬよう実害を被る前に実兄を斬って覚悟を示しましょう」
だから遠慮なくやりたいことをやれば良いと信繁は笑う。
これは素直な気持ちだ。
信長の話を聞いて信繁は大義とかそう云うものより単純に面白いと思った。
その道に心惹かれ、その助力をしたいと思ったからこそいざと云う時の覚悟の示し方を信長の前で告げたのだ。
生まれてからずっと一緒だった兄を斬りたくはないが信長の云うことも尤もだ。
己を貫くのであれば覚悟と責任が必要、父の初めての教えは信繁の心に深く染み渡っていた。
「……いや、その必要は無い」
ようやっと顔を上げた信之は心底己を恥じている! と云わんばかりの渋面をしていた。
「その意図を読み解こうともせず、表層だけを論うなど拙者こそ武士にあるまじきだ……己が未熟をこれでもかと思い知らされた」
信之もまた、信長の言葉に感じ入っていた。
とは云え信繁が面白いから、ならば信之の場合は正しいと思ったから、だが。
「先の非礼! 詫びの言葉もありませぬ! この日ノ本において信長公以上の為政者はおりませぬ!!
一年先、十年先、百年先までならば誰にでも考えられましょう。
しかし! 信長公のそれは更に遥か遠くを見据えているように思いまする!
かと云って決して今を軽んじているわけでもなく……拙者が愚かでありました!!」
恥ずかしくて恥ずかしくてしょうがない。
このような偉大な男に何てことをほざいたのか。
「拙者、腹を召し申す!!」
『いや、それは止めろ』
信長と信繁は思わず声を揃えて突っ込んでしまう。
信繁は長い付き合いなので分かっていたが、信長も此処に来てようやく理解した。
「(真面目が過ぎる……ああ、コイツら二人合わせて丁度良い感じなんだ)」
軽率な部分もあるが柔軟な信繁。
融通が利かない堅物だがそれゆえ堅実思考な信之。
二人で力を合わせて家を盛り立てて行くのが最善解と云う感じだ。
「しかし、ならば拙者の非礼をどう詫びろと云うのか! ええい、話せ源二郎!」
「謁見しに来ていきなり腹斬る奴も失礼だっつの! つか、父上も止めてくれよ!!」
「ハハハハハ! ックク……いや、良い兄弟だよお前ら」
歳の近い兄弟と仲良くする、さして特別なことでもない。
しかしその普通が出来なかった信長にとって双子の姿は酷く眩ゆいものに見えた。
「悪いって思うなら、呼び方改めろ」
「呼び方、で御座いますか?」
「ああ、信長公なんて他人行儀な呼び方じゃなくてさ」
変に恐縮されるのもそれはそれで困るのだ。
だって、
「父上って、そう呼んでくれや」
親子なのだから。




