39話
織田信秀死去、その報せを信長が聞いたのは昼近くになってからのことだった。
駿河より訪れた今川の使者に知らされはしたが、正直な話をしよう。
信長は直ぐには現実感が沸かなかった。
あまりにも突然で、少し前には近々会いに行こうとすら思っていたのだ。
「……」
報せを告げた使者、同席したマーリンや帰蝶、道三は無言のまま信長を見つめている。
見つめられている当人は何処か上の空で、放って置けば何時までもこうしているだろう。
「……信長、葬儀の手配や各地の方面軍司令官に報せるべきじゃないのかい?」
「……ああ、そうだな。帰蝶、親父殿の遺体をこっちへ運ばせるよう手配してやってくれ」
「分かったわ」
「それと、各司令官にだが……そうだな、親父殿が死んだことと葬儀を開くが戦況如何では無理に出席せずとも良いと伝えてくれ。後……」
「後?」
信長は瞳を閉じて一度だけゆっくりと深呼吸を。
次に目を開いた時は、何時もの信長に戻っていた。
「出席する場合は葬礼用の着物は用意しなくて良いが各々が一番に心躍る……。
或いはやる気の出る、奮い立つ、そんなお気に入りの装いを用意して来てくれとも」
その発言の意図は分からなかったがとりあえず帰蝶は了承し、伝令の手配へと向かった。
今川から来た使者もそれに着いて行き、残されたのは三人。
「姑殿、すまんが今日は仕事をする気になれん。よっぽどの緊急のものでないのならばあんたか帰蝶に任せたい」
「ああ、構わないよ」
道三も多くは語らなかった。
情が深くとも非常時ならば嫌でもしっかりする信長だ、さしあたって早急に取り組まねばならないこともない。
だからこそ、一人の人間として父親の死を受け入れる時間があっても良いと配慮を見せたのだ。
葬儀の手配は終えていないが、今日一日ぐらいは構わない。
遺体の移送、そして各方面軍司令官への指示は終えたのだから。
「悪いな」
「良いさ」
言葉は短いが、信長にとってはそれが逆にありがたかった。
自分が殺すのならばまだ良い、覚悟も決められる。
しかし、自分が関与していないところで突然逝かれてしまうのがこんなにも戸惑うとは思っていなかった。
土田御前もある意味ではそうなのだが、信長にとっては母よりも弟だった。
そしてその弟については死す前に語り合う時間が取れた。
義弟であり好意を抱いていた長政の時もそう、明確に殺すと覚悟を決めていたから平気だった。
だが今回は違う。寝耳に水と云う表現が相応しい訃報。
未だ現実感を取り戻せずに居る。
「……マーリン」
「何?」
「少し、出かけるから……供を頼む」
「分かったわ」
このままではまずい、良くない。
そう思っているからこそ、未だに現実味が無い状態ではあるものの信長は行動を開始した。
「何処へ往くの?」
城を出た信長は馬屋から愛馬を引っ張り出して岐阜を飛び出した。
行き先は、
「……尾張」
始まり場所、故郷。
美濃に移転した後も、ちょくちょく尾張には訪れていた。
しかしその目的は民の慰撫ゆえ、城などに入ることもなかった。
だが、父信秀が死んだ今、無性に那古野城や古渡城、清洲城に行きたくてしょうがない。
初めて父から譲り受けた城、那古野城。
父の居城であり元服の儀を迎えた場所でもある古渡城。
父が自ら陣頭指揮を執り改築し、新たな居城として提供してくれた清洲城。
思い出の場所を巡ることで、父の死を実感したかった。
もうこの世に信秀は居ないのだと、受け入れたかった。
そうすれば素直に悲しめるから、そうすれば素直に死を悼めるから。
今のようなふわふわとした状態こそが一番辛い。
だからこそ、早くこんな状態から抜け出したかった。
「なあマーリン。意外とわかんねえもんだな、自分ってさ」
信長自身も驚いているのだ。
こんな状態になっていることに。
自分の意思が介在していないところで誰かに大好きな誰かに死なれるとこうも揺れてしまうのか。
「いやな、葬儀をどうしようとかそう云うのは冷静にポンポンと出て来るんだよ。出て来るんだけど……」
何か違うだろうって気がしてならないのだ。
親が死んでも冷静になれる、それは良いことかもしれない。
しかし今、自分は間違いなく冷静ではない。
どうにも上手く噛み合わずに、足下が覚束ない――初めての経験だった。
「ダメだ、何て云えば良いのかも分かんねえ」
「無理に何かを云わなくても良いんじゃあに?」
「そう、だな……そう、なんだけど……何か、黙ってるのも落ち着かなくて……」
「なら、何でも良いわ。思いついたことをそのまま話してくれればそれで良い」
「うん」
それから二人は取り留めのない話をしながら、那古野城を目指した。
信秀のことについて語りたいはずなのに。
出て来るのは政治だったり戦争だったりそんなものばかり。
思い浮かぶ話題は脈絡がなく、その事実が信長の現状を端的に示していた。
「(信長様は……恐れて、いるのね)」
素直に悲しむことを。
何の理由もなしに、ただただ死を悼むことを恐れている。
織田信長と云う男は、一度たりとも自分が強い人間であるなどと思ったことはない。
強く在らねばとは常に考えているが、それはそう在りたいと云うだけの話。
既に強い、強くなれたなどとは欠片も思っちゃいない。
だからこそ、素直に愛する者の死に対して涙を流すことが出来ないのだ。
何も考えずに泣いてしまえば立ち上がることが出来ないかもしれないから。
だって自分は弱い人間だと知っているから。
信勝の夢を継ぐと決めたから、折れそうになっても決して折れることはない。
だが、今回限りは別だった。
自分の意思が介在していない場所で愛する者が死んでしまった。
例えば藤乃が戦場で落命したとしよう。
信長は悲しみはするが、決して今のような状態にはならないだろう。
それは自分自身が彼女を戦場に送り込んだから、殺したのは自分だと思えるからだ。
自分の選択の結果として死に追いやってしまったのならば悲しみに暮れて動けなくなるのは侮辱以外の何ものでもない。
責任を果たさねばならぬ、だからこそ前へ前へ駆け続けることが出来る。
ある種、傲慢なのだ。
愛しているからこそ、その生死にまでも関わってしまいたいと願ってしまう。
しかしその傲慢さも、愛深きゆえ、弱さゆえのそれと云える。
「(そんな弱さを自覚して、それでもその弱さに耽溺することが出来ない)」
第六天魔王などとよく自称するのも弱さの裏返し。
義元から贈られた名だが、別に使わずとて何の問題もない。
なのによく使っているのは他者への威圧――と云うのもあるが、ある種の自己暗示でもある。
己を叱咤しているのだ、常に。
逃げ道を塞いでいるのだ、不退転を課すために。
「(でも、そんな生き方を成立させてしまえるから強くもある……難儀な御方ね)」
矛盾に満ち満ちているのだ。
理由があるのならば折れずに居られる。
自身の逃げ道を断つことで前に進み続けられる。
弱いと自覚しているのに、そんな生き方をしていける時点で強くもあるのだ、この男は。
矛盾に満ちた生、しかしそれは人らしさとも云い変えることが出来るだろう。
「(けれど、今は……)」
大目標として信勝の夢を継いだから、成就と云う形で終わらせねばならないと分かっている。
間近な部分を見ても反信長包囲網と云う難局は乗り切ったものの油断出来ない敵達がひしめいている。
だからこんな風にふらふらと心を定めていない状態は不味いと理解している。
理解していても、初めての経験に戸惑ってしまった。
自身の意が介在していない場所で、大切な誰かが死ぬと云う珍しくもない当たり前の事態に。
平手政秀、彼の死もまた今回の事例に近くはある。
しかし、政秀の場合は信長の策を補強するために死んだのだ。
ある意味で自身の意思が介在していると取れる、と云うか信長はそう受け止めている。
自分が政秀を死に追いやったのだと。
せめて前世において面倒を見ていた母親と普通に死別していたのならば良かったのだが。
「……着いたな」
話をしているうちにようやく那古野城へと辿り着く。
通常ならば突然現れた主君に番兵なども反応するのだが、そこは魔女の業。
美濃を出発した時点でマーリンは認識阻害の術をかけていた。
それゆえ道中すれ違った人間にも、城の警備にあたっている人間にも誰にも反応されはしない。
「俺が……俺がこの城をな、任されたのは二歳の時だった」
嫡男ゆえ、早期に城を与えられた信長。
その日のことはよーく覚えている。
「親父殿に肩車されてな、丁度今俺達が立っている場所で城を見上げてた。
ぼんやりしてる俺に親父殿はすんげえ良い笑顔で云うんだわ。今日から此処がお前の城だ! ってよ」
当時は勘弁してくれよ、なんて感想しか出て来なかった。
織田を継ぐ気なんて毛頭なく、自分の人生を生きるつもりだったから。
そんなことを考えていたから、対照的に酷く嬉しそうな信秀の顔を覚えている。
待望の嫡男、この虎の息子。必ずや大きな男になると信じて疑いもしていない晴れやかな笑顔。
あれを見たから、あんなにも嬉しそうだったから、信長もある程度は配慮しなければと思ったのだ。
「平手の爺様やらが困った顔してるのに、親父殿と来たら……。
俺の手を引いてこれが堀だ、あれが櫓だと嬉しそうに説明してくれるのよ。
ガキに分かるわけねえだろ? だってのにまあ、本当に嬉しそうでよぉ」
「可愛いお父様じゃない」
「ああ、歳の割りに茶目っ気もあったからな。だからまあ、氏真にも歌やら蹴鞠やら教えて貰ってたんだろうなぁ」
昔日の己がそうされたようにマーリンの手を引き、信秀と辿った道を歩く。
そうすることで、少しずつ……少しずつだが父の死を受け入れるのだ。
そうして、那古野城での思い出を辿り終えると今度は古渡城へ馬を飛ばす。
此処での思い出と云えばやはり元服の儀。
元服を迎えた広間には当然のことながら誰も居なくて。
それでも、目を閉じれば――いや、閉じなくてもあの日の光景が蘇って来る。
「お前がいきなり乱入して来たんだったよなぁ……演出過多じゃないか?」
「ま、まあ今思えばちょっと気合入れ過ぎだったけど……それでも……ほら、信長様には云われたくないわ」
「はは、それを云われたら痛えな……でも、嬉しそうだったな。親父殿」
堪えきれずに滲み出す歓喜を抑えきれずにいた信秀の顔をよく覚えている。
のらりくらりと家督継承を回避しようとするやる気が無い息子。
それでもしかし、その実力は己を超えていると信じていた。
それが確信に変わったのが、マーリンが現れ祝辞を述べた瞬間。
そら見たことか! やはり俺の息子は傑物よ、必ずや織田の御家を更に大きくしてくれる。
そんな思いが透けて見えるかのようだった。
「ホントは俺が家督を継ぐ時に渡すつもりだったであろう、お気に入りの宗三左文字までポンとくれてなぁ」
岐阜を飛び出す際に持って来た宗三左文字をそっと撫で付ける。
弟の首を刎ね退路を断ち、義元の首を断つことで夢の第一歩となった曰くつき。
聖剣エクスカリバーも愛刀には変わりないが、宗三左文字もまた何にも換え難い愛刀だ。
諸国漫遊の際も、ずーっとこれを佩いていたのだから。
「気前の良いこった……ホントにな」
その後もしばしの間、古渡城を周り最後の清洲へと向かう頃にはすっかり日が暮れていた。
今は使っていない私室の中でぼんやりと天井を仰ぐ信長。
差し込む夕暮れの茜が室内を朱く染め、切ない空気を醸し出す。
「……マーリン、俺な。親父殿に、怖くて聞けなかったことがあるんだわ」
背中を合わせて座っているマーリンに向けポツリとそう漏らす。
「聞けなかったこと?」
「ああ」
後悔と云うのならばそれが一番の後悔だ。
「親父殿はさ、俺のこと怨んでるんじゃないかって思ってた」
「怨むって……何故?」
「考えてみろよ、信勝とお袋を殺したのは――――俺だぜ?」
信秀にとっての息子を、信秀にとっての妻を。
直接的に間接的に死へと追いやったのは自分である、信長はそう考えていた。
「何時かは向き合わにゃーと思ってはいたんだぜ? ただまあ、機会がなくてなぁ」
桶狭間が始まるまではうつけの仮面を被り続けねばならず、信秀にも会いに行くことが出来なかった。
終わった後は今川に奪われた城砦の奪還。
それが終わり、雪斎への復讐が終わるや信秀は駿河に向かってしまった。
「……いや、云い訳だな。親父殿が駿河に向かったのは織田家の安定のためって理由もつけられるけどさ。
ひょっとしたら俺の顔なんぞ見たくもないからなのかな? って考えちまったんだ。考えて……もっと怖くなった」
だから反信長包囲網が始まるまでの暇な時間にも、会いには行けなかった。
安土山でようやく、約束を取り付けると云う名目で会いに行こうと思った矢先にこれだ。
最早永遠に答えを聞く機会を失ってしまった。
「――――何て無様」
背中を丸めて項垂れる信長をマーリンはそっと抱き締めた。
「信秀殿も、そう思っていたんじゃない? 信長様に、弟と母を殺させてしまったって」
「……そう、なのかな?」
「あなたの父親は息子に責任を押し付けるような男だった?」
「……」
「今となっては答えなんて聞けはしないけど、少なくとも私はそう思うわ」
信長はそっとマーリンの抱擁を解き、身体の向きを変えて彼女の目を真っ直ぐ見つめる。
そして、
「……ちょっと泣く。胸、貸してくれるか?」
「ええ、幾らでもどうぞ」
マーリンの胸に顔を埋めると直ぐに涙が溢れ出した――この瞬間、信長はようやく父の死を実感することが出来た。




