38話
ルイス・フロイスとの邂逅より数日後。
今川の本拠地たる駿府では氏真が青空の下、大きく伸びをしていた。
「ううむ……良い天気だぁ……」
政務を早めに終わらせた氏真は信秀の屋敷に遊びに行くべく土産を片手に軽い足取りで蒼天の下を往く。
お供も何も連れていないが、本人的にはまるで気にしていないらしい。
見栄とかそう云うものよりも気楽であるかどうかの方が重要なのだ。
「早川が美濃から送ってくれた南蛮菓子、信秀殿は喜んでくれるだろうか? ふふ♪」
未だ信長を待っているらしい早川殿。
妻に会えぬのは寂しい氏真ではあるが、身の安全を考えるのならば美濃に居てもらった方が気も楽だと思っている。
此処最近大人しくなっているとは云え未だに武田とは敵対状態なのだ。
また以前のようなことがあってはたまらない。
「失礼、信秀殿は居られるか?」
「おお、これは氏真様。ご隠居様ならば縁側に居られますよ。ささ、顔を見せてあげてください」
「おう、すまないな」
使用人ともすっかり顔馴染みだ。
以前、信秀が信長宛ての文に書いたように氏真とは特に仲が良いのである。
教養人たる氏真指導の下、雅な趣味に勤しんでいたから。
「おや、これは氏真殿。よう来てくださった」
縁側に行くと猫を膝に抱いた信秀が氏真を迎える。
傍らには熱い熱い茶の入った湯呑みも置かれており実に隠居っぽい空気を醸していた。
「今、茶を用意させますゆえ」
「かたじけない」
「おーい、誰か! 氏真殿に茶を淹れてやってくれい!」
老齢とは云え未だその声はよく通っている。
衰えても名将の名将たる素質の一つは健在であった。
「おっと、わしとしたことが茶菓子を頼むのも忘れてしもうた」
氏真の茶が届いたところで持って来た使用人に茶菓子を頼もうとするが、
「御心配無用。信秀殿、今日は茶菓子を持参して参りましたゆえ、共に頂くとしましょうぞ」
「おお、気を遣わせてしまったようで申し訳ない」
「何の何の。早川から送って貰ったは良いが一緒に食べてくれる者も居りませんで寂しい思いをしておったのですよ」
それは半分本当で半分嘘だ。
家臣も頼めば付き合ってくれるだろうが、気兼ねなく一緒にとはいかない。
楽しく何の気兼ねもなしに茶を楽しめねば少しばかり寂しい、なので信秀だ。
「ほう、奥方から……ああ、そう云えば美濃へ行っておるのでしたか」
「ええ。先の三方ヶ原と以降の差配について篤く配慮して戴きましたから。本当は私が行くのが一番なのでしょうが……」
「ハッハッハ、倅は別に気にせんでしょうよ」
「大らかな御方なのは分かっていますが、これは気持ちの問題ですよ」
嬉しいこと、ありがたいことをしてもらった。
だからこそ礼を述べたい――それは人として素直な感情だ。
そう素直に思える氏真はやはり善人で、諸大名と渡り合うにはやはり不適格なのだろう。
しかし、だからと云って信長も信秀も信玄のように氏真を決して軽んじてはいない。
何かが劣っているからとて、それで人間の価値が決まるわけではないのだ。
「それでまあ、早川を行かせたのですがアイツ……帰蝶様に随分ともてなしてもらっているようで。
この菓子も、帰蝶様と茶をしている時に食べて気に入ったそうで私にもと送って来たんですよ。
美濃でも様子も書かれていますが、いやいや流石は信長様のお膝元。随分栄えておられるようで、もの珍しいものも多いとか」
羨ましそうに語る氏真の顔にはやっぱ俺も行きてえ! と書いてあった。
何とも素直な男だと、信秀も思わず笑みを浮かべてしまう。
「ふふ、蝮の娘は蝮に似ず中々に優しいようで義理の親父としても安心ですわ」
「道三殿も優しそうだったではないですか」
家康の居城で顔を合わせた際、多くはないがそれなりに言葉も交わした。
何のかんのと世間が云うよりは良い人そうだと云うのが氏真の偽らざる感想だ。
「いやいや、あの婆は曲者ですぞ。わしも現役時代はどれだけ苦労させられたか」
「ふぅむ……」
「どうかされたので?」
「ああいや、聞いて良いのかどうか迷いますが……」
「よう分かりませんが、聞かれてまずいようなことは何も御座らんよ」
「では」
と、若干居住まいを正そうとする氏真だが信秀に止められる。
茶菓子を喰いながら気楽に行こうではないか、と。
「おお……ふわふわしてて、ええ香りもしよる。こりゃあ美味そうじゃ」
「ですな。で、聞きたいことと云うのはかつては敵同士で道三殿には随分苦渋も味合わされたのでしょう?」
「ええ、そりゃあもう。語り尽くせぬほどに、しかしまあわしも同じくらい……いやさ、それ以上に味合わせてやりましたがのう」
ゲラゲラと笑いながらカステラを摘まむ信秀に、氏真は少しだけ引っ掛かりを覚えた。
表面上は元気そうだが、何処となーく精気が薄いように見える。
しかしこの笑顔を見ていればそれも錯覚かと思い直し、思考を打ち切った。
「しかし、その割に互いが互いに何の怨恨も無いように見えるのですが……」
和睦し、政略結婚で結び付いた両家。
当然、その段で怨恨を見せていたら軋轢を生むので表面上は見せないものだろう。
しかし、だからとて長年やり合っていたのだ。
簡単に洗い流せるようなものではないとも思う。
腹の中に隠しているのかと云うと、どうにもそんな気がしない。
「いや、わしも……多分あれも、腹の底では未だに怨み辛みを抱いとると思いますぞ?
ただまあ、それがどうでも良いから面に出て来んだけでしょうなぁ」
「どうでも良い?」
怨み辛みが未だに蓄積していると云うのにどうでも良いとは妙な感じだ。
氏真はますます分からなくなってしまった。
「氏真殿、今の世を見てみなされ」
「世を?」
「わしやあの蝮婆、尾張だ美濃だと小さい小さい場所でせせこましく争ってい申した」
井の中の蛙とは正にこのことだ。そう云って信秀は豪快に笑い飛ばした。
「じゃが、倅はそんなわしらを哂うように天下へ大きく羽ばたいておる。
浅井、朝倉、本願寺延暦寺高野山ら寺社勢力、毛利、武田、上杉」
どれか一つと、ではない音に聞こえた面倒な連中を総て相手取っているのだ。
そんなものを見せられれば最早笑うしかないだろう。
「どいつもこいつも厄介極まる敵手、じゃが倅は一歩も引かんどころかむしろ圧倒しておる。
それに比べたらわしやあ奴の戦の小さいこと小さいこと。
ま、それなりに武勇伝のようなものも持っておりますが倅に比べればどれも恥ずかしくて話せんものばかり。
己らと倅を比べると、どうでも良くなるのですよ。あまりに小さ過ぎて」
「成るほど……」
「何時までもうじうじとしておるよりは今を楽しんだ方がよっぽど建設的で御座ろう」
信長の前では虎も蝮も同じ井中の蛙でしかない。
蛙同士でせこせこといがみ合っているなど馬鹿らしくてとてもとても――信秀はすぱりとそう云い切った。
「鳶が鷹どころの話では御座らん」
「何を仰るか。信長様は今の織田があるのは信秀様のお陰と云っておりましたぞ。
潤沢な経済基盤を引き継いだからこそ、自分は無茶な絵図を描き押し通すことが出来たのだと」
「……そんな話をしておったので?」
少しばかり意外だった。
金ヶ崎前の凪の時間、氏真もたまーに美濃へ遊びに行ったり、以後も文のやり取りをしていたのは知っている。
だがまさか、自分が話題に上がっているとは思ってもいなかった。
「ええ、駿河での信秀殿の御様子を語っていると自然あなたの話題になっていきますからなぁ」
信長と氏真、共通の話題で尚且つ盛り上がれるのだ。
信秀の存在が話題に上らないわけがない。
いやまあ、二人とも多趣味なので信秀オンリーと云うわけでもないが。
「ははは、照れますな……いやはや」
「ふふ、いやしかし成るほど。そう云う事情で過去の怨嗟が感じられぬのですね。得心がいきました」
だが、思い返してみれば当然と云えば当然かもしれない。
信長とて極大の怨嗟と憎悪を以って雪斎を断罪した。
しかし、総てをそこで清算して決して後には引き摺っていない。
そう云う部分もあるからこそ、信秀も道三もわだかまりがどうでも良くなってしまったのだろう。
「ところで、倅とは他にどんな話をしておられるので?」
「娯楽の話などをしますな。今は未だ乱世ゆえ、民草が十全に享受出来ているわけではない。
しかし、世が平和になればそこらにも力を入れてゆかねばならぬと熱く語っておりましたよ」
そして、その時に氏真に存分に力を奮ってもらいたいと信長は頼んでいた。
適材適所、乱世でさして輝きを見せられずとも平穏な世では?
平穏な世でこそ、今川氏真と云う人間は輝くのだと信長は確信していた。
「それでまあ、光栄なことに私も仕事を任せて戴いて」
照れ臭そうに笑う氏真、仕事とは一体何のことかと信秀も興味をそそられる。
「どのような仕事で?」
「竹取物語、今昔物語、宇治拾遺物語、おもしろみのある話が収められた書物は数多くあり申す。
そのような書物の中から民にも分かり易い落ちがあり、げらげらと笑える話を見繕って欲しいと頼まれました。
そしてそれを基にして新たな芸能を成立させるので顧問として色々意見を伺いたいと」
ようは落語だ。
信長は江戸時代に文化として成立したそれを、少しばかり早くに広めようと考えている。
しかし、成立させるためには民にも理解がある氏真や藤孝のような文化人の協力が必要不可欠。
「先ずは古典より引用し、そして徐々に新しいものも作っていこうとその雛形を見せて貰ったのですが……いやこれが中々に面白い」
「気になりますなぁ……この爺に聞かせてくだされ。世に広める段まで生きておる自信がないので、是非に是非に」
「分かりました。未だ私自身の色がなく、信長様から御聞きしたものですが」
ごほん、と咳払いを一つ。
ちなみに何故、信長が落語なんてものに目をつけたのかと云うと前世の職業絡みである。
未成年を雇うアウトサイダーな店ゆえ、当然のことながらヤのつく自由業とも付き合いがあった。
そしてヤのつく自由業と芸能は切っても切り離せない関係で信長も付き合いで寄席などに幾度か顔を出したことがあるのだ。
「何時の世にも、流行り廃りと云うものが御座いまして……そりゃあ神様でさえも逃れることが出来やせん」
氏真が語り始めたのは『死神』と云う演目だ。
何かにつけて金に縁の無い男が、自分に憑いているのは貧乏神じゃなくて死神である。
そう云ったところ男の前に如何なる理由か、本物の死神が出現。
死神は男に、お前には死神の姿が見えるようになる呪いをかけてやると告げる。
が、呪いと云っても何も悪いことばかりではない。
死神が病人の枕元に座っていたらそいつは駄目。反対に足元に座っていたら助かるから呪文を唱えて追い払えと死神は云う。
この呪いを駆使して医者になるよう助言まで与えるのだからそうそう悪いものでもない。
男は早速その力を利用してある良家の跡取り娘の病を呪文で治し名を上げ金持ちに。
と、此処までだと落ちも何もない話だ。落語としちゃあ成立しない。
此処から男の転落劇が始まり……これより先は実際に調べるか聴いてみるのが一番だろう。
噺家に語られてこその落語なのだから。
文章などではとてもとても、その面白さを伝え切れはしない。
「嗚呼、消える……」
パタン、と身体を倒し氏真が落ちをつける。
人前で披露するなど初めてのことで些か以上に緊張していた氏真だが、
「ほう……こりゃあ面白いですなぁ。他にも何かあるので?」
信秀は心底感心したように何度も何度も頷いている。
どころか、更に聞いてみたいと新たなネタまで強請り始めた。
そうなると氏真も気分が良い、今度は自分が書物の中から見繕った説話にその場その場でアレンジを加えながら語り始めた。
そうして日が暮れるまで氏真の独演会は続くこととなった。
「っと、そろそろ良い時間ですので私はそろそろ……」
「おお、長々とお引止めして申し訳ない」
「いえいえ、信秀殿があまりに良い反応をくださるので私もついつい嬉しくなって」
「そう云って戴けると気が楽ですなぁ。それでは、お気をつけて」
「はい!」
と、立ち上がり歩き出したところで氏真はピタリと足を止める。
「信秀殿」
「何で御座りましょう?」
「生きておる自信が無いなどと、寂しいことは云わないでください。
私にとってあなたはもう一人の父にも等しいほどの御方。これからもこの氏真に色々と御教示ください」
これからも御身体に気を付けて末永く――そう云って飛び切りの笑顔を浮かべ、今度こそ氏真は去って行った。
残された信秀は少しだけぽかーんとした後、照れ臭そうに笑った。
「……父親、か」
信長にも信勝にも、他の息子や娘達にも何をしてやれただろうか。
特に信勝に対しては随分と酷い目に遭わせてしまった。
信長に対してもだ。弟と母を殺させてしまった、やるのであれば自分がやるべきだった。
信長に余計な重みを背負わせるべきではなかった。
怨んでいるのかもしれない、怨まれて当然だ。
自分に父親の資格など無いと思っていたのだが、
「いや、嬉しいものじゃなぁ」
氏真が父のように想っていると云ってくれた。
息子、信長が自分のことを尊敬していると、多くをくれたと思っていることが知れた。
こんなにも、こんなにも嬉しいことはない。
大名としての野望、織田家を大きくすると云う大願は信長が果たしてくれた。
いや、大きくなるどころかいずれは天下を獲るだろう。
そして私人としての心残りも果たされた。隠居してから考えるようになった父としての己。
信長が天下人になる瞬間を見届けたくはあるが……。
「まあ、無理なものは無理じゃわい」
だとしても、そこまで悔いはない。
信長ならば必ずや、天下を獲ってくれると信じているから。
「うむ――――まっこと良き、人生じゃった」
その日、尾張の虎織田信秀は安らかな顔で眠るように息を引き取った。




