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壁を越えるために

「何も、突然押しかけることないのに。女の子にだって、事情があるんだよ?」

「俺にも、回避不能な事情が出来たんだ」

「どうしたの?」「そうだよ、私も何も聞いてない」

 彼女達の質問に、俺は少し躊躇して、それでも絞り出すような声で俺は言った。

「・・・・・・象潟聡に、家がばれた。彼女、今俺の家にいる」

「合い鍵持たせてたんだ・・・・・・?」

「いやいや、違うだろ。ピッキングだろ」

「そんな、普通の人ピッキングなんて出来ないよ、お兄ちゃん」

「朝祇、お前そうやって俺の家に入っただろ」

「・・・・・・そうとも言うね」

 そうとしか言わねえよ。

「とにかく、VIB騒動が収まるまで――聡が何もかも諦めるまで、ここにいさせて貰いたい。都に迷惑かけるのは解ってるつもりだ。危険も及びかねない、だけど、頼むっ」

「もちろんいいよ」

 都は、頭を下げようとする俺の頭を支えて、そう言った。

「・・・・・・ほんとに、いいのか?」

「女に二言はないよ」

「ありがとう、都ちゃん」

「いいのいいの」

 都は明るくそう言って、とびきりの笑顔になった。


 都の寮は十階建てのビルで、彼女の部屋は九階にあたる位置にあった。そこからは、俺の家が見えた。

 昨日の夜からずっと見ているが、未だヘリは屋根の上から飛び立つ気配はない。夜は電気が付いていたこともあり、やはり中には人がいるようだ。

 このまま何日も過ぎたら、彼女は果たして諦めてくれるんだろうか。

 ヤツカさんから記憶の性質を聞いてしまった以上、これからの接触は避けたい。彼女が持つあのライフルは、命を取らないにせよ、隙を多く作ってしまう。それによって、朝祇を守る人がいなくなってしまえば、世界が、終わる。世界の脅威になるといえども、相手は全世界だ。それらが、彼女一人の意見のために国際法を撤回するとは到底思えない。

 そうなれば、彼女は容赦なくVIBを爆発させる。半永久的に増え続けるウィルスが、世界を終末に導いてしまう。

 鳥肌が、全身に走った。部屋の温度が一気に下がったような錯覚に陥る。絶対に、止めなければならない。

「夜交、もうすぐ学校だよ」

「ああ、そうか」

 都の言葉で、俺は身の硬直を解いた。緊張でがちがちに固まっていたらしい。筋肉が少し音を立てる。

「通学路、ちょっと変えた方がいいかもね」

「ああ、そうだな。・・・・・・そういえば朝祇は?」

「今、学校の準備してる。まだ中学生のはずなのに、高校の勉強してて、朝祇ちゃん賢いよね」

「いろんなことを吸収する時期だったんだろうな。そんなときに、こんな状況になって欲しくなかった」

「・・・・・・夜交らしいね。朝祇ちゃんのことばっかり」

 都は曼珠沙華のような、淡い笑みを俺に向けた。

「本当の兄でもないのにな。こんな風にでしゃばって。何してるんだろうって思うことがよくあるよ」

「だけど、朝祇ちゃんは夜交の一途な思いのおかげで、救われてるんだよ?」

「守るべき人間は、朝祇だけじゃないさ、きっと」

 以前親友に言われた言葉を思い出した。

――お前が守るべきものは・・・・・・大切にするべきものは、四条朝祇という一人の人間だけじゃない。世の中には、血の繋がりと同じくらい、大切にしなきゃならない関係がある。そんな関係にある人間も、お前は守っていかなくちゃいけないんだ

「夜交・・・・・・」

 俺の言葉を聞いた都が、少し戦慄したような顔で俺の名を呼んだ。

「さ、学校行こう?」

 彼女は美しく微笑んだ。


 下に向かうエレベーターに乗って数秒、五階でその箱は一度止まり、ドアが開いた。

「あ、委員長、おは――」

 女子クラスメート同士の朗らかな挨拶が、途切れた。

「・・・・・・何で夜交がこんなとこにいるの?」

 彼女――俺と同じクラスの女子生徒、沖津さんが尋問並みの声のトーンで聞いてきた。

まずいな。このパターンはもう一方的に傷付けられるしかないパターンだ。

「まさか、男女が一夜を一つ屋根の下で過ごしたと――?」

 目に見えそうな怒気が沖津さんの身体から滲み出る。もう早くドア閉まれ。

「都の清純さを返せっっっ!」

「何もしてねえよ」

「そうだよ、夜交は何にもしてないよ、これにはいろいろと深い事情があって、ね?」

「口止めされてるのか・・・・・・委員長、こんなやつ、早く捨てちゃいなよ。女子寮にまで平気で乗り込んでくるやつなんて、ろくなやつじゃないんだから!」

 まあ、そうだわな。ここ女子寮だもんな。一応押しかけたことには変わりはないんだし、否定は出来ない。

「ちょっと家にあり得ないものがあってな、それがどっかに行くまで泊めさせて貰う予定なんだ」

 嘘はないはずだ。

「それなら、あの筆バカんとこに行けばいいでしょ」

「筆バカ? ああ、あいつのことか。なるほど、筆箱とかけてるんだな。畜生、上手いこと言いやがるぜ」

「褒めても何も出ませんよっ。出てってくださいっ!」

「いいんだよ沖津さん、夜交達が家に帰れないのは本当なんだし、ほら、私は朝祇ちゃんだけを家に泊めてて、夜交は高校生の形をした、ちょっとクオリティの低い彫刻だとでも思えば問題ないでしょ?」

「なるほど」

 なるほどじゃねえよ。あとクオリティの低いって何だ。

「・・・・・・学校行こうぜ。遅刻する」

 俺がそう言うと、沖津さんはエレベーターの中に入り込んでくる。俺は朝祇がずっと押していた『開』ボタンの隣を押した。静かに閉まっていく扉。人が一人入ってきた分、俺と都との距離が近い。漂ってくる甘い、香木のような香りは都からしているものなのだろうか。それとも、このエレベーター内の匂いか――息苦しい。甘い香りを感じ取っただけで、都達に対してもの凄い罪悪感を抱いてしまう。よって、俺は五階から一階に辿り着くまで、ずっと息を止めていた。


「夜交、ほんっっっとに何もしてないんだね?」

 昇降口で再度確認する沖津さん。

「してないってば。都だって否定してただろ」

 ちょっとうんざりしながら答える。うちのクラス、何で都のことになるとこんな必死なんだ。

 トイレでも、声をかけてくるやつはやっぱりいた。

「おう夜交、委員長の部屋で一夜明かした気分はどうだった?」

「筆バカ野郎のお出ましだ・・・・・・」

 俺は非常に渋い顔をしていたと思う。

「あっはっは。なんだその顔は。笑ってしまうじゃないか」

「棒読み評価ありがとう。で、何でお前が知ってるんだ?」

「お前ん家に、ヘリが止まってたから。だけど俺のとこには来なかっただろ、お前。来ても追い返してるけどな。友達いない設定だから。俺の他で止めてくれそうな所、委員長くらいしかないだろ」

「素晴らしいね」

 俺はぱちぱちと何の誠意もこもっていない拍手を送った。


        *


「缶詰でいいかな」

「おう」

 最近食事が缶詰です。

いや、別にいいんだけどね、美味しいし。

 だけど、こうやってピラミッド型に並べるのはどうかと思うよ。

 鮭缶鯖缶鰯缶飛び魚缶蟹缶鹿缶熊缶海老缶鮪缶クリームスープ缶桃缶コーンクリーム缶・・・・・・。

 やっぱり彼女は俺達と同じで、臨堂市から定期的に金を貰って、ぎりぎりの生活を営む女子高校生なのだ。それに一時的とはいえ、二人も一緒に住まわせてくれるなんて、まるで天使のような人間だ。

 缶詰は一人一つで、味は都が決める。

「熊の肉なんて初めて食べたよー」

と朝祇。何となく気に入ったようだ。

そういう俺は、飛び魚缶。

初めて水族館でホウライエソを食べたときのことを思い出した。ホウライエソの方が美味い。

ちなみに昨日は外来魚缶だった。嫌がらせ確定だろ。なんか不安なんだよ。せめて一括りにするなよ。


その夜。

俺は耐え難い腹痛に襲われた。絶対飛び魚があたったんだ。というか朝祇にはちゃんと布団があるのに、俺は居間のソファっておかしくないか? おかしくないですすいません。

都達を起こさないように俺はトイレに向かう。すると、その向かいの部屋――都の部屋から、光が漏れていることに気付いた。

個人の部屋があるって、どんだけ広い寮だよと思ってしまうのは俺だけだろうか。実際広いのだけれど。

そんな、夜中の一時に何をしているのかと思って何となく動けないでいたら。

「・・・・・・っく、あ、・・・・・・う・・・・・・」

 え、泣いてる?

 ますますトイレに行きにくくなった。この場から離れようと、泣く泣くトイレに背を向けた瞬間、俺は彼女の記憶に共鳴した。


 姉の写真を胸に抱き、泣き崩れる都がいる。そんな彼女を、上から両親冷めた目つきで見ている――それに都は多分気付いていなくて。

 ひたすら親に訴え続ける。

「嘘ッ、お姉ちゃんがいなくなるなんてッ。嘘だよね、ねえ、嘘って言ってよ、ねえお母さん、お父さん!」

 ずっと、訴え続ける。真っ黒な声で。

絶望で塗り固められてしまった棘のような言葉は、ただ都自身の喉を傷付けるだけだったのだ。結局は自分への、呪いに過ぎなかった。


 嘘じゃないか。もう吹っ切れてる、なんて。お前がいつ、姉のことを忘れたんだよ。

 ただそれだけの言葉を心の中で何度も吐いて、俺は居間に向かった。

腹なんて、もう痛くなかった。ただ胸だけがきりきりと痛んだ。


彼女は毎晩、泣き続けていた。

学校で俺達に明るい笑顔を向けてくれる分、いやそれ以上に彼女は泣いていた。

過去に訣別が出来ない。

それは俺と同じで、鉄鎖に絡め取られているだけなのだ。



 朝から妙にやかましい日だった。

低い、ヘリのローター音が快い目覚めを妨害する。それに重なって聞こえる声。

「お兄ちゃん見て、ヘリコプターがどっか行くよ!」

 その言葉の意味を理解した途端、俺は急いでソファから跳ね起きた。

「――ほんとかっ?」

 起きたあとの余韻とか、低血圧の嘆きとか、そんなものは一切合切排除して、俺達は歓喜に満ちていた。

 窓から見えるのは、前傾姿勢で遠ざかっていくアパッチの姿だ。

「やっと帰れるんだ・・・・・・都にもいろいろ迷惑かけたからな、また礼言っておかないと」

 俺はそう呟いていた。

「そっか、都ちゃんともお別れなんだね」

 朝祇はしみじみと言う。

「いや、学校でも会えるから」

 

俺はいつでもここを去れるように荷物をまとめる。およそ一週間に及んだ滞在も今日で終わりだ。聡も、俺達が帰ってこないことをようやく解ってくれたらしい。

「今日は学校から帰ったら、自分の家に帰れるからな。あの人が何か弄ってないといいけど」

 少し家の中が気になったが、今は喜びの方が大きい。

「もうすぐ都ちゃんも起きてくるんじゃないかな」

「もうそんな時間か?」

 いつもと違う気象の仕方に、感覚時計が追いついていない。

「朝祇も忘れ物しないように今のうちに整理しとけよ」

「・・・・・・うん」

 彼女の表情が純粋な喜びだけで形成されていないことに俺は今初めて気付いた。そんなに都の家から離れるのが嫌か?

「寂しいのか?」

「ううん、そういう訳じゃないんだけどね、ただ、お兄ちゃんの反応が、喜び一色だったから」

「・・・・・・? どういうことだ?」

「何でもないのっ。今日はお家に帰れるんだね」

 表情を一気に幸せ方面に爆発させる。俺はそんな彼女を見て、ごめん、と心の中で謝った。

 何故かは、解らない。

「・・・・・・お兄ちゃんの、ばーか。人には、離れて欲しくないときだってあるんだよ・・・・・・」

 俺は彼女の言葉を拒絶した。


 今日からは普通に家に帰れることを都に話すと、彼女は何だか哀しそうな顔を作った。

「そっか、いなくなっちゃうんだ・・・・・・お別れなんだね」

「いや、だから学校で会えるって」

 彼女も朝祇と同じボケをしてくるから大変だ。

「なんか、俺達が帰ると面倒なことでもあるのか? 掃除するのが大変だ、とか」

「そういう訳じゃなくて、ただ、また喋り相手がいなくなるなと思ったらなんか寂しくて」

「別に携帯あるんだから。・・・・・・番号知ってるよな?」

「うん、多分」

 彼女からメールが来ることはあっても電話は来たことがないので、果たして携帯番号を教えていたか不安になった。

「一応・・・・・・・・・・・・あれ」

 俺は携帯を探して、どこにも見当たらなかった。普段から持ち歩く習慣がないのでどうやら家、四条家の家に置き忘れてしまっていたらしい。一週間も携帯触ってなくても全然違和感ないんだな、と一人で思ってみたり。

「確か入ってたと思うけどな」 

 都は携帯電話を取りだして画面の上で指を滑らす。

 お、最新式。

「・・・・・・ほら」

 彼女が見せた画面には、しっかりと俺の名前の下に電話番号とメールアドレスが待機していた。

「まあ暇だったら電話でも何でもしてくれ」

「うん、夜交もね」

「・・・・・・俺はしないと思うけど」

 なんか無言で朝祇に足踏まれた。痛い。


 いよいよ待ちに待った下校時間。

見た者の殆どが引くような、異常なほどの気分の昂ぶりを周囲にまき散らして俺は朝祇と共に帰宅した。鍵は閉まっている。ピッキングって鍵を閉めるのは難しいんだっけ、とかいう余計な考えは一切排除。

久しぶりの我が家の空気だ、玄関だけで泣いてしまいそうなほどの懐かしさが俺を包む。

別に、聡によってどうこうされた部分は無いように見られる。別に通帳や印鑑も盗られていないし、そもそも儲けで充分だろうと判断する。

「やっぱ、なんか久しぶりだね、この家。やっぱり落ち着くね」

 朝祇は独り言のようにそう言った。

 中学の時修学旅行で他の都市に二泊三日で行ってきたのだが、その時でも俺は自分の家に着いた途端とても安心し、ほっとしていたような気がする。今回は家にいなかった期間が更に長かったので、こういう感覚は当たり前、感じて仕方がないということだろう。

 俺は周りのものをざっと見渡した。やはり、物色された形跡は何もない。

 その中で俺は自分の携帯電話を見つけた。

「あ、やっぱりあったか」

 手に取ろうとした瞬間、甲高い電子音が鳴り響いた。購入当時から音は変えていない。開いた画面には香春都、と表示されている。

『も、もしもし、み、やこですが』

「ああ、夜交だ。・・・・・・なんか用か?」

『家、大丈夫だった? 何も盗られてなかった?』

「ああ、大丈夫だったよ、いろんなとこ見たけど、何も盗られてなかったように思われる」

『そっか、良かった。今からそっち行ってもいい?』

「あ・・・・・・? ああ別にいいけど。何しに来るんだ? っていうかお前今どこ?」

『学校だよ? すぐそっちにつくと思う』

 そう言って彼女は通話を終了した。

 あいつ、嘘下手くそだな。さっき通信してたときに、向こうでヘリが通過する音が聞こえたが、それと同時にこっちでも同じ音が聞こえた。ということは彼女、今俺の家の前にいるんだろうか?

 俺は玄関に行って靴を履き替え、外に出た。

 腕時計とにらめっこしている彼女の姿を捕らえた。都はゆっくりと顔を上げる。

「わわああわわわっ、何でっっっっ! ・・・・・・ここにっっ!」

 俺を認識するなり彼女は顔を真っ赤にして後ずさりした。空の向こうにはさっきのローター音を放っていたヘリが――もちろん象潟聡のものではないテレビ局のもの――消えていくところだった。

「まあ入れや、な?」


 室内に入っても彼女は俯いて顔を林檎の如く赤く染めていた。

「別に、今家の前にいる、でも良かったんだぜ?」

 俺は冷えた麦茶を差し出しながらそう言った。

「なんか、厚かましいとか思うだろうから・・・・・・っ」

「厚かましいとは思わないけど、外暑かっただろ」

 グラスに注がれた麦茶を都はちびちびと飲む。それなりに喉は渇いていたんだろう。というか汗かいてないけど、水分足りなかったんじゃないかこいつ。

 外は蝉は鳴いていないが、それでも七月にしては暑い日である。こういう時こそ水分補給は大切だ。

「お兄ちゃんには都ちゃんのかわいさがわかんないのかなーっ」

 ぷはーっと勢いよく麦茶を飲み干した朝祇が言った。何だか口調が、酔って馴れ馴れしい度がアップしたオヤジに似ていた。

「やめて朝祇ちゃん何となく死にたくなる・・・・・・」

 都はそう言って円卓に突っ伏した。

「なんか食べるもの持ってくるね。塩分塩分っと」

 語尾に音符マークでも付きそうな軽やかさで彼女は台所に向かっていく。続いて聞こえる声。

「・・・・・・伯方の塩しか無いけどよろしいでしょうかー」

「微塵もよろしくないです」

 干涸らびるわ。塩なんて食ったら。

「んー、塩っぽいもの・・・・・・鯖の味噌煮ならあるけど? 冷凍してあるやつ」

「駄目。もったいない」

「えー? じゃあ、塩の歯磨き粉ならあるけど?」

「・・・・・・普通にお菓子ちょうだい」

 俺、歯磨き粉なんて洗面所に置いた覚えないんだけどな。

 しばらくしてクッキーを盛りつけて持ってくる。彼女が都の後ろを通ろうとした瞬間、都の携帯の着信音が鳴り響いた。

「・・・・・・何でレクイエムなんだ?」

「登録してない人はこれが鳴る設定なの」

 そう言って彼女は携帯のディスプレイを見た、俺と都は丁度向かい合わせになっているため、誰からなのか見ることは出来ない。

「・・・・・・もしもし? ・・・・・・はい。・・・・・・・・・・・・えっ? ちょっ、何してるんですか勝手にっ! やめてください! ・・・・・・違いますっ。違いますからっっっ! やめて――もうやめてっ」

 都の表情が、訝しげなものから段々と悲愴に変わってくる。そして遂に彼女は立ち上がり、家から飛び出していった。

「何だ? 誰からだったんだ?」

「さあ・・・・・・?」

「これは・・・・・・追わない方がいいよ、な?」

「多分・・・・・・」

 何だか妙に胸騒ぎがする。今までずっと暑かったのに、気温が五度も十度も下がった気がする。

 俺達は状況が全く解らない。

それが更に不安をあおる。全身の筋肉が攣ったように動かない。


 都が出て行っておよそ三時間。あんな風に感情的になった都を俺達はあまり見たことがなかったために、かなり不安だった。

 梅雨の時降らなかった分を一気に解放したような雨が降り始めたこともあり、強い雨の音が更に不安を煽った。

「大家さんとのトラブルかな」

「まさか、俺が入ったことがばれたんじゃ・・・・・・?」

 

・・・・・・もしもし? 

――大家だけど。

はい。

――家の中に入らせて貰ったから。

ちょっ、何してるんですか勝手にっ! やめてください!

――監視カメラに男が映ってたんだけど、あんたが連れ込んだんじゃないよね?

違いますっ。違いますからっっっ!

 ほお、だったらこのソファに掛かってる毛布にくっついてる髪の毛はなんなんだい!

 やめて――もうやめてっ


 じゃねえよなあ・・・・・・・・・・・・ないよな?

 妄想で死ねる。

 自分が無理矢理に笑い話で済ませようとしてるのが解る。俺はいつだって卑怯だ。

 あの時彼女が出してた声は、本当に、嫌がってるような、本気で拒絶したいような――そんな声だった。そして俺はその声を、どこかで聞いたことがあるんじゃないか?

 そうだ、彼女の記憶の中だ。

 あの夜、俺が見た記憶の中の彼女は、あんな風に叫んでいた。

 ――嘘ッ、お姉ちゃんがいなくなるなんてッ

 その時と、同じだ。全く。彼女は、姉が絡んだときだけあの悲痛な声を出す。俺に赤の他人でいようと言ったとき以上の、悲痛な声を。

 ――あれ? 俺今、なんて思った?

 あの夜、俺が見た記憶の中の彼女は、

 違う違うそこじゃない。もう少し後だ。

 ――彼女は、姉が絡んだときだけあの悲痛な声を出す。

 そうそうそこだ。俺が一番最初に見た記憶も、以前の記憶も、どちらも彼女は聞いているだけで身が引き裂かれてしまうような、透明な涙よりも血の涙が似合うような、そんな声を出していた。

 そして、今回も――。

「都が、危ない」

 俺はそう呟いた。

「え? 何言ってるの?」

 その言葉に至るまでの経緯を何も聞いていない朝祇は当然のようにそう言う。

 俺は、急いで窓のカーテンを開けた。

「・・・・・・くそッ」

 俺が窓から見たもの。都の寮。そのビルの最上階の位置にホバリングする、一機のテレビ局用のヘリ――

 その寮は、まだ七時だというのに全ての電気が消えていて、ただ黒く聳える壁のようだった。

「やばいぞ・・・・・・」

 俺は急いで携帯電話を取りだして彼女の電話番号を呼び出す。

「繋がってくれ・・・・・・ッ」

 しかし、その電話に誰かが出ることはなかった。

「ちょっとお兄ちゃんどういうこと? 説明して!」

 俺の雰囲気にただ事ではないと察知したのか、朝祇が真剣な表情で尋ねてくる。

「象潟聡の奴、諦めた訳じゃなかったんだ、あいつ、都を交換条件として人質に取るつもりなんだ・・・・・・ッ」

 俺が都を迎え入れたとき上空を飛んでいったのは、報道用ヘリコプターに似せたサンタクロース社のヘリだった。それは寮の建物近くで待機。聡は都の部屋を開けて、彼女の姉を持ち出した。そしてそれに食いついた都を誘拐する――

 都はかなり抵抗したのだろうか、三時間経った今もヘリはまだそこを動こうとしない。

 もしかすると、聡は彼女の部屋を特定出来ていないのかもしれない。だとすれば、彼女はまだ助かるかもしれない。

 俺は必死に彼女に電話を掛け続けた。出来ることなら走って、彼女の所へ直接行きたかった。

 しかし、俺さえも人質に取られてしまったなら、朝祇はきっと自らを差し出してしまう。自分と他人二人の命の重さを、天秤にかけさせたくなかった。

 俺は眉間に皺を寄せ、通信端末を強く握りしめる。

「何で繋がらないんだよ・・・・・・」

 電子音が連続して鳴り続け、彼女が出る気配は一切ない。

「まさか、もう捕まってるんじゃ・・・・・・」

「朝祇、物騒なこと言うもんじゃない」

 俺は一応否定するが、俺自身もその不安は拭いきれなかった。背筋を、汗が流れる。それは、暑さのせいじゃない。

「くそっ」

 俺は携帯をソファに投げつけた。もふっ、という軽い音が、苛立たしい。

 その時、携帯の、着信を告げる音が響いた。ディスプレイには、香春都、と出ている。

「お兄ちゃんっ」

 朝祇が叫んだのと同時に、俺は急いで携帯を拾い上げて応答する。俺は途中経過なんて全部省いて、ただ伝えたいことだけを最初に伝えた。

「都ッ! 早くそこから逃げるんだ!」

「・・・・・・遅いわよ、夜交君。大遅刻」

 無情にも響いた声は、聡のものだった。

「都ちゃんは、預かったわよ。 あなたたちが協力してくれないから、全く関係ない彼女が痛い目に遭うの。解るわよね。まあ、VIBのこと知ってるから完全に関係ないというわけではないけれど。MM02には、あなたがいないときに、ゆっくり公式を思い出して貰うわ」

「てめえ・・・・・・」

「じゃあ、うちの会社で待ってるわ。一人だけで来てね。MM02を傷付けたくないから」

 ぶつっという音と共に、通話は切れた。つー、つーという音が脳の中で反響する。

「畜生っ!」

 俺はようやくそれだけの言葉を言うことが出来た。

「お兄ちゃん・・・・・・」

 俺は、硬い床に携帯を叩き付けた。鈍い音がして、滑る携帯。

「冷静になれ、四条夜交・・・・・・」

 俺は催眠術のようにそう呟く。胸の中で蠢く感情は、象潟聡に対する憎悪一色だ。

「朝祇・・・・・・」

「・・・・・・」

「俺は、行くよ。朝祇は、待っててくれ」

 俺は、彼女に背を向けた。

「――駄目だよ、お兄ちゃんっ。もしもお兄ちゃんが行くのならっ、私も・・・・・・、私もお兄ちゃんと一緒に行かなくちゃならないっっっ」

 彼女の叫びに、俺は拳をぐっと握りしめて、できるだけ穏やかな顔で、卑怯にも、サンタクロースのフリをして、言った。

「朝祇、俺は君の、サンタクロースだ。サンタクロースから玩具を与えられる子供は、一緒に旅をしたりしない」

「・・・・・・お兄ちゃん。サンタクロースは、玩具をあげてるんじゃ、ないよ」

 雷が、大きく鳴り響いた。

ぷつ、という音で、部屋の照明が切れる。また、雷が光る。

「朝祇・・・・・・?」

 一瞬の光の中で見た彼女は、今まで着ていた学校の制服を脱いでいた。

「お兄ちゃん・・・・・・」

 彼女が、一糸纏わぬ姿で、俺に近付いてくる。俺の身体に、肌を密着させて、そのまま、俺は彼女と一緒にベッドに倒れ込んだ。

 彼女の長い髪の毛が、押し倒された俺の頬に触れる。

「お兄ちゃん、あなたは、鈍感なんかじゃない」

 何で。何で泣いてるんだよ。

「お兄ちゃんはね、与えられなかっただけなの。だから、知らない間に、心に壁ができてしまって、」

「朝祇っ、どくんだ!」

「きいて!」

 俺の拒絶にも似た怒りが、彼女の言葉でたちまち粉砕される。

「お兄ちゃんの心の壁が、こんなに大きくなっちゃったから、もう、みんなは哀しくて仕方がないの。だって、もう何も聞いてくれないから」

 朝祇が、俺の胸に顔を埋めた。心臓の音が、彼女に聞こえてしまう。

「お兄ちゃんの壁は、あまりに強すぎるんだよ? そんなんじゃ、私達は、救われない。だって。・・・・・・だって、サンタクロースの袋の中は、とっても弱い、すぐに死んじゃうものなんだから」

 訳が、解らない。 

 朝祇は、何が言いたいんだ? 俺が、心に壁を作ってる? 壁って、何だよ?

 なあ、教えてくれよ、サンタクロースの袋の中は、何が入ってるんだよ?

 朝祇は、ベッドから降りて、俺の家に来たときに着用していた、あの、モルモットの服を着た。全ての答えは、サンタクロースのお前が、教えてくれるのか?

「・・・・・・もう、決着をつけよう、お兄ちゃん。公式を、壊そう?」

「――行こう」

 俺達は、土砂降りの空間を、駆けた。


 走る。ただ、走る。目的を持って。

大きな雨粒が、目に、口に、浸入する。その度に俺は目を大きく開いて、歯を食いしばって、地面を蹴る。

 俺の、答えのためになら。俺の、心の壁の破壊のためになら。俺が、誰かを守れるなら。

 誇りもプライドも、何もかも全部捨てて、醜いサンタクロースを演じよう。



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