サンタクロースとの出逢い
ここは、何処だろうか。
眠りから覚めたときは、いつもこんな風に思ってしまう。なんだかはっきりしない記憶の断片を寄せ集めるように、俺、四条夜交は五時間三十二分の眠りから覚醒した。
よかった、ちゃんと、家だ。昨日の夜と今朝の自分の記憶に矛盾が生じていないことを確認すると、俺はほっと一息吐いた。
俺には、一部の記憶がない。生まれてから、四年間の記憶が、綺麗さっぱり消えているのだ。
寒さに震える手でパンをトースターに突っ込み、適当にダイヤルを捻る。そして洗面所に向かい、顔を洗った。手の指には、未だ震えが残っている。
――やっぱ、低血圧かな
今は、もう六月。しかも、下旬だ。もうすぐ七月になろうとしているのに、頭にまで鳥肌が立っているというのはどういうことだろうか。
俺はいつものようにテレビのスイッチを入れた。親はこの家にいないので、音量を気にすることもない。
『先日発議された、MCTの制限及び縮小に関する法についてですが、日本政府は今日未明、批准書を作り、提出・・・・・』
流れるような手つきで点けたテレビから、驚くべき情報が飛び込んできた。
MCTは、マクトと発音される、記憶結晶化技術のことだ。人々の記憶を固体として取り出し、保存もしくは利用するための技術。凶悪事件の早期解決に対して有効であるとされ、その完成が世界的に待ちわびられていた。
それなのに。そんな技術が。
別に俺は何らかの凶悪犯罪の関係者ではないし、世界の平和を片っ端から願っていく超善良な市民でもない。ただの、今の生活に満足する高校二年生だ。特別なところはない。
強いて特別なところを言うなれば――住んでいる街、だろうか。
俺が十三年前に来たこの街の名は、臨堂市。サンタクロース社という王手玩具メーカーが、都市をまるまる一つ買い取ってできた、子供のための街だ。子供のための街、といっても、大人がいない訳じゃない。ただ、ここにいる子供は一人暮らしを営むことができるようになっている、というだけだ。市から定期的に、金が振り込まれる。その金は、もちろんサンタクロース社の儲けからだ。
しかし、そんな臨堂市のまたの名は、サンタクロース社による対犯罪組織の疎開都市、という。
*
朝学校に着くと、教室の中はすでに大騒ぎだった。このクラスは全員で三十八人いるが、その中の殆どで騒がれているのは、もちろん、MCTの制限及び縮小に関する法についてだ。
「おはよう」
俺の目の前に突然影が現れた。白い肌に黒いショートヘアが似合う女子生徒、香春都だ。そして、このクラスの委員長だ。初めて出会ったときは中国人かと思ったが、普通にかわらみやこ、と読む。彼女は机の上に顎を乗せている。俯く俺に視線を合わそうとしているのか、上目遣いになっているのがどうも愛らしい。俺は心拍数が上がっていることを彼女に悟られまいと、一度あった目を不自然にそらした。人の双眸が、怖い。
「おはよう」
俺のその言葉に満足したように彼女は立ち上がった。
「どうなるんだろうね」
「え?」
ついさっきまでの愛らしさとは遠くかけ離れた、声だった。
「この都市だよ。MCTが制限されたら、ここは、衰退しちゃうんじゃないかなって」
「サンタクロース社がどうするか、だな。どう考えても、本来の玩具産業だけじゃここは支えきれないし」
窓から見えるサンタクロース社の施設は、奇抜で、赤と白というサンタクロースを明らかに意識した色彩となっている。この色には俺自身ちょっと引いている。臨堂市はそれなりに都会で、遊園地や水族館も多数存在する。だが、あの建物は、それでも異様な雰囲気を醸し出していた。異様、というよりは、まあ、浮いていた。
サンタクロース社がMCTに手を出したのは、俺が生まれる二年前、今から十九年前だ。記憶略奪犯罪組織、ムネモシュネが中国、ドイツ、アメリカ、ロシアに大規模攻撃した年だ。先進国の中で日本も狙われるのではないかという不安があったのだろう、サンタクロース社がこの臨堂市を作った。
そして今、俺達は、この街に守られて生きている。この街と、サンタクロース社と、そして、MCTによって。ムネモシュネが明らかにしている現在の標的は、MCT。だから、たった数年でMCTをほぼ完成させたサンタクロース社を攻撃するわけにはいかないのだ。しかし、技術が制限された今、ムネモシュネに攻撃されないという保証は無くなった。
狙われないと、いいんだけどなぁ。
「狙われないと、いいんだけど」
俺の考えていたことと見事にマッチした言葉を放った彼女を俺は超能力者でも見るかのように眺めてしまう。
元々ムネモシュネは、そんなに言うほどの過激派ではなかった。彼らに言わせれば、爆撃と言えば少々瓦が飛ぶくらいのものだし、焼き払うと言えば、せいぜい廃墟に閃光弾が投げ込まれるくらいのものだった。しかし。彼らは、圧倒的な軍事力を持っていた。瓦を飛ばすための爆風を起こす小型ミサイルは、爆発と共に風を起こしたが、金属の装甲を弾け飛ばさずに、一瞬で金属を蒸発させた。閃光弾に至っても、やはり破裂はせずに眩いばかりの光を放出させただけだった。俺は思う。制御された軍事力より、恐ろしいものはない、と。
「制限するとは言っても、全廃する訳じゃない。だったら、大丈夫だよ、心配しなくても」
気休めだった。俺自身、ムネモシュネの攻撃を受けるのではないかという不安は拭いきれない。だけど、この虚言は、都だけに向けられたものではなく、自分のためにも言ったのだと言えば、いい言い訳になるだろうか。
「だよ、ね」
そう明るく言って見せた都もまた、嘘を言っているように見えた。
*
サンタクロース社が、MCTを縮小することなく、三週間が過ぎた。俺達は、サンタクロース社の強気な態度にハラハラしつつも、安心していた。きっと、ムネモシュネに攻撃されることはない、と。
そして、ある日の晩のことだった。
ピンポーン、と軽快な音が八時半過ぎの空気に響き渡った。インターホンにはカメラが内蔵されているので、外の様子を知ることができる。俺は今まで読んでいた本を置き、ソファから立ち上がった。
「ん・・・・・・?」
誰も、映ってないじゃないか。ピンポンダッシュかよ、こんな晩に。俺が再びソファに座った瞬間、また、軽い音が響いた。
「ったく・・・・・・」
無視する。
ピンポーン・・・・・・ピンポーン・・・・・・ピィン、ポオォォォン・・・・・・
そんな同情させるようなインターホンの押し方したって、俺は絶対に出ないからな!
すると、次の瞬間、ガタン、ガタンッという、無理矢理にでもドアを開けようとする音が響き渡った。
「ひ・・・・・・」
絶対に出ないッ。俺は、出ないッ。そんなインターホンの音にまで表情を付けてくる奴なんかと、絶対に鉢合わせしたくないぜ!
しばらくするとガタンガタンという音はやみ、代わりにカチャリ、カチャ、という音が聞こえてきた。何がしたいんだよ、何がお前をそんなにさせるんだよ、と心の中で嘆き、俺はとうとう玄関に向かった。なぜなら――この音が、ピッキングの音だと気付いたからだ。
俺は傍にあった、現在百五円で提供されているビニル傘を手に取った。
カチャ、カチャ。
そしてついに、鍵が、開いた。
「うらあああああああ!」
これから開かれるであろうドア――誰かが本気になれば三十秒ちょっとで外部からの侵入を許してしまうドアよ――そして、その向こうから出てくる、異常なまでのインターホンの才能を持つ者――さらばだ!
異常なまでの感情の昂ぶりを見せて、俺は開かれるドアめがけ傘を振り下ろした。
が。ドアは、開かれることはなかった。その代わりに、傘が死んだ。俺は、その場にへたり込む。
「いたずらにも程があるよな・・・・・・」
目をつぶって呼吸を整え、目を開けた瞬間――ちょうど目線の高さにある、ドアに直接備え付けられているポストから、白い手が覗いた。明らかに不健康そうな、手。そして、二つの眼がこちらを覗いた。
・・・・・・イ、インターホンの幽霊か?
俺は、ついにドアを開けてしまった。日本では珍しい内開きの扉を、俺は目をつぶりながら開けた。ずりずりと音を立てて引きずり込まれてくる、インターホンの霊。いよいよ、ご対面だ――
俺の目に飛び込んできた、可愛らしい体躯。長く、つややかな髪。赤と白の、サンタクロースの衣装。雪のように白い肌。
そして、凄まじい、涙が出るほどの臭い――。
俺は、彼女を抱えて風呂場に走った。臭気に、涙が出てきた。
「あ、あのですね」「動くな」「ちょっと、」「流すぞ」「そろそろ・・・・・・」「乾かすぞ」
彼女が喋り、俺がそれを中断させるというやりとりが何度か続いた。身体を洗わせ、髪を洗い、乾かして、ごついサンタクロースの服を洗濯機に放り込んで、スイッチを入れ、彼女に俺の寝間着を着せたところで、俺はようやく彼女の顔をまともに見た。
「あのっ、事情をお話します――」
そう口を開いた彼女の身体を、俺はそっと抱き寄せた。右手で、彼女の頭をそっと撫でる。しばらく身体を強ばらせていた彼女は、やがて力を抜き、そして、身をすべて委ねるようになった
「臭いがどうとか言うわけではなく、ただ、綺麗になったお前を、見たかっただけだ。お帰り、アサギ」
「・・・・・・」
「俺の名前は覚えていてくれたか?」
「・・・・・・ヨマゼ、お兄ちゃん」
「ありがとう、覚えていてくれて」
俺への畏怖と共に現れたのは、十三年前に離ればなれになった、俺の妹だった。